和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

豆腐と知的散文。

2010-06-11 | 短文紹介
清水幾太郎著作集19巻目の月報は外山滋比古氏が書いておりました。
その題は「知的散文の創造」。
では、その内容紹介。

そこでは、谷崎潤一郎の「文章読本」が出た1934年に、清水幾太郎の文筆活動がはじまっている偶然を「興味深い符合である」と指摘しています。
谷崎氏の「文章読本」。外山氏は、その本のどこを指摘しているか。まず、その箇所

「日本語は外国語と違う。そして日本語には独自の表現様式があるということをはっきりのべたのは谷崎潤一郎である。『文章読本』の中で、原文に忠実に逐字訳した訳文を例にして、それ以上、原文に即すれば日本語でなくなるということを実地に示した。訳文は原文べったりであってはならない、原文離れが必要だというのである。文学の立場で、欧文の原文に引かれた翻訳文体から独立した日本語本来のスタイルを求めたものである。」

ここから

「清水幾太郎はやがて谷崎潤一郎が文学に関して考え実践したことを知的散文においてすることになる」と繋げてゆきます。

そして清水氏の仕事を振り返っておりました。

「その仕事とは外国文献の紹介と批評を千字の枠の中で行なうものであった。後年、多くのすぐれた翻訳を世に送ることになるのだが、はじめの仕事が訳ではなく要約であったことは、清水文体の生成にとって大きな意味をもっているように思われる。それはどういうことかというと、まず、ごく短い文章だという点である。短文ではわかりやすさが絶対の条件になり、読者をつよく意識した表現にする必要がある。その苦心について、後年、自ら一度ならず回顧している。
要約はこの場合、広い意味における翻訳であった。ただ、在来の翻訳スタイルをもち込めないきびしい制約を受ける仕事である。これに若いころから育くんでいた文章感覚も手伝って、いわゆる翻訳文体と袂別しなくてはならなくなり、新しいスタイルの誕生となったのはひとつの好運であった。明快、簡潔、達意の短文を書くのに成功した若い清水幾太郎は、間もなくジャーナリズムに迎えられる。学究の文章として生まれた文章が一般読者の目に触れることになった。それとともに、新しい知的文章が広い読者に届くことが可能になったのはもうひとつの好運である。・・」

月報の7ページほどの文なのですが、もう一箇所だけ引用。

「清水幾太郎の文章は短いセンテンスが基調である。『根本的なルールとしては、句点の多い文章を書いた方がよいと思う。即ち、短い文を積み上げた方がよいと思う。一つの短い文で一つのシーンを明確に示し、文と文との間は、接着力の強い接続詞でキチンと繋ぐことである』(「論文の書き方」)。ただ短いセンテンスを並べるのではなく、接着力の強い論理的接続詞で繋ぎとめる。これに関連して強調されるのが文末の【が】に注意せよということである。【が】はあいまいに用いられると論理がはっきりしなくなるおそれがあるからだ。そういうあいまいな【が】の無雑作に使われている新聞の文体をまねてはいけないと主張した。これは清水幾太郎の文章作法論の中でもっとも注目された点で、それによって【が】の使用に慎重になった人がすくなくない。かつてに比べて、現代の文章には【が】が減っている。・・」

以下この清水氏の文章を、噛み砕いて解説してゆくのでした。
この月報の清水氏の最後の言葉も引用しておかないと、釣り合いがとれないでしょう。
では

「清水レトリックは知的散文を一般の人々の理解の範囲へ引き寄せるのに大きな貢献をした。文は思考であり、思想は人である。それを具現したのが清水幾太郎であった。それは個人の文体創造にとどまらず、近代日本が苦しみつづけた翻訳文体という借着を脱ぎすて、体に合った知的文体の獲得という歴史的意義をもつことになった。」


外山氏の文章は、どちらかというと「豆腐文」のエッセイ文体といえるかと思いますが、ここで、外山氏が語る豆腐文をもう一度引用しておくのも参考となるかと思います。

「日本語の段落は豆腐のようなもの。一見して四角なところは煉瓦に似ていないこともないが、固さが違う。煉瓦はいくらでも積み重ねがきくが、豆腐は重ねると崩れてしまう。長大論文が生まれにくい。欧文のようなパラグラフではひとつひとつのパラグラフは水ももらさぬ緊密さで結び合わされていなくてはならないが、豆腐はなるべくぶつからないように、横に並べた方がいい。あるいはひとつを二つに切ったり、三つに切ったりする。論理的断絶が生命になっていることもすくなくない。
日本語で随筆を書いている人が、いかにも無原則に改行し、新しい段落を始めているように見えることがある。段落尊重派の人たちからはとんでもない書き方だとして叱られるが、それほどでたらめでもない。ひとつの考えから次の考えに移るのにぴったり重なり合う煉瓦をのせるのではなく、別の皿へ、さっと移って、新しい豆腐をおく、というような移り方をすることがあってもよい。日本人は、むしろ、すこし離れたところへ飛躍するために新しい段落を始める。心機一転。散文でありながら、発想の上では詩に似たものになるのはそのためであろう。こういう移りの感覚が身につかないと人並みの文章が書けないのが日本語の泣き所である。いわば連句の移りのような呼吸で、初心者が段落に苦しむのは当然である。知的散文の練習は、やはり、地道に、しっかりした構造のパラグラフの積み上げから始めるのが賢明である。・・・・」(p130~131・「知的創造のヒント」講談社現代新書)
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