和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

最後に一言す。

2010-06-22 | 短文紹介
堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫)で、堺利彦氏は最後にこう締めくくっておりました。

「文章は誰にでも書ける。心の真実を率直に大胆に表すことを勉(つと)めさえすれば、文章は必ず速やかに上達する。文章速達の秘訣はその外(ほか)にない。しかし文章は一生の事業である。いつまで経(た)っても卒業する時は決してない。」

なぜ、この箇所を思い浮かべたかといいますと、
渡部昇一著「学ぶためのヒント」(祥伝社黄金文庫)の、
この箇所が目についてからでした。

「大学の『卒業』と日本でいうところを、英語ではcommencement(開始)と言います。卒業式をcommencement ceremonyということはだいぶ知られてきていますが、これも学校というものに対する発想に関わることであります。日本では『業を卒(お)える』、いわゆる『卒業』でありました。ところが英米などでは、学校というのは要するに社会に入るためであって、社会に入ってから本番が始まるんだという感じがあるのでcommencementといったわけであります。」(p138)


そういえば、と原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)の言葉が思い浮かんできました。
そこへと、補助線を引いてみたくなります。


「私は試験というものは、その範囲の中で一番大切なところ、一生涯覚えておく価値のあるところを出題するべきであると考え、また、実際、私の出題はそれに徹していた。それが教育であると信じている。校長のやり方は、教育効果ということを全く考えないものであった。・・・・」(p143)

もう一度、堺利彦著「文章速達法」へともどることにします。

そこの最後が、第十章「最後の一言(いちげん)」となっており、
その章のはじまりは、こうでした。


「最後に一言す。文章は誰にでも書けるものだから誰でも書くがいい。しかし本当に上手に書こうと思うなら、一生涯稽古する覚悟が必要である。著者は四十六歳の今日、なお毎日作文の稽古をしている。著者はもちろん、多少文章をよく書き得(う)るという自信を持っている。しかしそれでいて、俺はとても駄目だと思って、筆を投じて嘆息する場合がしばしばある。
従来、著者が何か著述をするときには、いつでも必ず一度や二度、中途で気をくじいて失望するのが常である。何故かというに、初めは大変な気込(きこ)みで執筆に掛かるが、さていよいよやりだしてみると、骨は折れる、暇は掛かる、中々思うように出来てくれない。そこでこれは大変なことをやり出したものだ。俺にはとてもこんなものは出来ないのだ。こんなものに着手したのが間違いだ、という気が起ってくる。それでムシャクシャしてやめてしまったものも幾つかある・・・・現にこの本にしても、一度は中途でよほど持て余した。こんなばかなものを著述として世に出すのは恥だと思った。しかし出来上がった上半の部分を読み返してみると、それほどのこともない。やっとまた気を取り直して勉強して書き終った。・・・・読者諸君の中にはあるいは怒る人があるかも知れぬ。そんな恥になるほどのものを受け付けられてたまるものかとおっしゃるかも知れぬ。しかし一方からいえば、この恥と思ったり、失望したりするところが、すなわち著者の文章に忠実なるゆえんで・・・・そしてかような心持を率直に告白することは、すなわちまた諸君のために作文の心得の一つであろうと思う。」

これ以下が、最初に引用した箇所へとつながるのでした。
コメント
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