和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講談社。

2010-06-05 | 他生の縁
渡部昇一著「『仕事の達人』の哲学」(到知出版社)を読みました。
副題は「野間清治に学ぶ運命好転の法則」とあります。

そこから、引用。

「私の実家は創刊号から『キング』を買っていた。『キング』が創刊されたのが大正十三年で、私の生まれたのが昭和五年だから、私が『キング』を読むようになったのは創刊から十何年後のことであったが、家には『キング』が創刊号からすべて揃っていた。そのうち戦争で新しい本が出なくなったこともあって、私は家にあった『キング』を繰り返し繰り返し読んだ。それは小学校の上級生から中学生にかけてのことで、一番本が読みたい年ごろであったから、私は古い『キング』をむさぼるように読んだものである。」(p206)

「今でも記憶している思い出がある。私の両親の実家は豊かでもない農家であり、本などなかなか手に入らなかった。もちろん、雑誌も手に入らない。ところが、『キング』だけは、そういう貧農といわれるような家にもあったのである。それは一冊五十銭という安さのためだったろう。『キング』の宣伝文句は『一家に一冊』だった。」(p207)

「もしこれから大正・昭和の思想史を書こうという人がいるなら、ぜひ『キング』を読み通してほしい。その時代の空気を十分に吸ってから書いてもらいたいと思うのである。」(p210)

そして奇妙な体験が、つぎに語られておりました。

「私が小学校のころ、両親は商店ともいえないような小さな店を営んでいた。私の通った小学校は旧藩校、つまり殿様のつくった学校だった。その職員室には西郷隆盛の揮毫した大きな字が掲げられていたことをよく覚えている。
この学校に来る子供たちはよくできる子が多かったが、それには明快な理由があった。・・私が通った小学校は、そんな昔の御家中の人たちが住んでいた町にある学校だった。そして、そこは鶴岡市で一番大きな商店街を含んでいる学区でもあった。・・とりわけ旧藩に関する人の子供たちは、みな言葉遣いが丁寧で、礼儀正しく、字が上手だった。・・・
ところが不思議なことに、旧制中学に私のクラスから合格した旧藩士の家の子供は一人もいなかったのである。小学一、二、三年ぐらいまではずっと優等生であった彼らが全員中学の試験に落ちてしまったのである。それが私には非常に奇妙に思えた。『あんなによくできたのに、どうして』という感じだった。
しかし、あとになってよくよく思い出してみると、腑に落ちることがあった。彼らは上級生になるにしたがって成績を落としていったように思うのである。それはなぜなのか。確かに彼らは行儀作法はしっかりしていたし、字もきれいに書けたし、学校の勉強もしっかりやっていたが、『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』といった柔かな雑誌は買ってもらっていなかったのではないだろうか。一方、私はこれらの雑誌はすべて読んでいたから、知識の範囲だけを比べれば私のほうが上だったろう。それが小学校の上級になったときに、違いとなって出てきたのではなかっただろうか。六年生ぐらいになると、作文を書くにしても、講談社の本をたくさん読んできた者と全然読んだことのない者とでは、はっきりとした差がついたはずである。
旧制中学に進んだ同じ小学校出身の顔を思い浮かべてみると・・・私と同様、『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』を読んで育ってきた連中である。こと中学受験においては、講談社文化の影響はそれほどまでに大きかったわけである。学校教育だけでは小学校三、四年ぐらいまではよくても、そこから先が伸びていかなかったという感じである。当時の私たちにとっては、それほど講談社の雑誌の影響力というのは大きかったし、また、それほどの影響を与えるほどの充実した内容だったということなのである。」(~p214)


その講談社の内容を、晩年になって、あらためて渡部氏は一冊の本として書いたというわけなのでした。
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