わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

信仰というもの

2011-07-31 08:53:46 | 癒し
 神を信ずる者にとって、神がいるという
ことは、 ごく自然なあたり前な事実であります。
 私どもは、そこに神の愛の姿をみるので
あります。
 この信ずるというところから、すべてが
生れ出てくるのであります。信ずるという
ことなしに、我々の生命は発現致しません。

 今、私がここで、生命と申しましたのは、
目に見える肉体の生命だけのことではない
のであります。肉体を支え、さらに、
我々自身をありのままに動かしめているもの、
奥の奥の朗らかな生命をいうのであります。

 この生命を覚知する時、人は信仰に入って
ゆくのである。目に見える世界が、実は目に
見えないさまざまの力、愛情によって支え
られているということを知る時、人は信仰に
入るのであります。

これを私は、神の愛と呼ぶのであります。
 信仰とは、神の愛に抱きとられていることを
知った人間が、もはや、引き返すことなく、
すなおにそのふところの中に抱かれることを
いうのであります。

 こういう風に申しますと、我々の心は、
しょっ中迷っているではないかといわれるかも
知れません。
 実際、我々の心は迷いに迷っている。迷って
いるという状況だけを見ますとその通り
であります。

 しかし、それは、心というもののごく入口の
ところを指して、悲しんでいるとか迷っている
とかいうのでありまして、真実の心は、迷いも
疑いもないのだ。人間はみな、神の分霊(わけ
みたま)である。光の子なのであります。
 私どもの奥の奥にある内蔵されている
本来心は、実は、少しも迷っていない。
ひかり輝いて、光そのものとなっている
のであります。

 祈りというものは、この奥深く内臓
されている光明そのものの自分自身、法身を
引き出してゆく為にあるのであります。
 南無阿弥陀仏も主の祈りも、すべて、
神に仏に呼びかけてゆく祈りは、この自らの
うちにある光を自覚し、顕現する為のもの
なのであります。

 私どもの、世界人類が平和でありますように
という祈りは、その光明の大親玉と申します。
 大親分なのであります。これ以上純一な
祈りはない。自他を愛し、ゆるし、祈る
ところに大光明が輝く、その易行の頂きの
祈りであります。それは、神のこころが、
自他などというわけへだてなく、ただ、愛と
ゆるしと光とを私どもにふり注いでいる。この
宇宙にふり注いでいる。この大調和を祈りに
したものでもあるのであります。
 いわば、生命と生命の合唱、神と、神から
分かれて来たいのちであるところの
私どもの、合唱なのであります。

 ですから、どのように我々の心が
迷いましても、真実のところは、しっかりと
神の愛によって結ばれ見定められている
ということを信じてゆきますと、明るく
ならざるを得ないのであります。

 我々の信仰は、神の愛の光によって、
光明によって結ばれている。この信仰は、
我々のいのちの大元が限りなく明るいもの
だということを体に心に刻んで、この世を
生活してゆく為のものなのであります。
 神のみかお、みこころというものは、大愛
そのものなのであります。我々は、その大愛に
回帰してゆく一人びとりなのであります。

 世界人類が平和でありますように

        昭和62年11月14日 朝
            五井 昌久


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