わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

神様の愛は 永遠の親の愛です

2015-01-12 07:11:27 | 癒し
いのち
というものの
朗らかさは
神様の朗らかさ
神様は
子どものように
無邪気な心と
純な魂
風のように
自由な本心を
てらす光をもって
私たちの
いのちのなかに
住んでいらっしゃるのです
私たちは
みんな
その子どもたちなのです

神様の
血をわけた
子どもたち 
なのですよ
血をわけた
親子と
みんないう
けれど
正真正銘
私たちは
神様の
血がながれているのです

その血というのは
何だといえば
それは
思いやりであり
やさしさです

神様の
人間に対する思いが
やさしさが
どれほど深く 
真実にみちた
ものであるか
それは
神様を知れば知る程
わかってきます

全くつきることのない
愛で
私たちをつつんで
下さっている
それが
神様です
永遠の
親の愛ですよ
しかも
その愛は
五十年
六十年といった
ちっぽけなものじゃない
何万年
何億年
いや
もっともっと
かぎりなく
つづいてゆくのです
 
こんなに深い
こんなにたしかな愛は
世界中どこを
さがしてもないですよ
しかも
我々が
肉体を脱いで
むこうへ
行けば
行ったで
益々の
その
愛の証を
我々は
この身にもこころにも
いや
その世界いっぱい
我々が
住む場所
住む場所
霊体が神体が
余計なものを
そぎおとして
光のひとすじとなり
かみのみこころの
一部となるまで
なってもなお
いとし子への
この
親の愛は
ずっとつづいて
ゆくのです

そりゃあ
親ですから
たまには 
きびしく
叱ることもあるでしょう
たたくことだって
あるかも知れない
けれど
いつもいつも
この親の愛は
人間を
さながらのいのちに
かえし
ほがらかな
光そのものの
いのちへと
みちびくために
叱り
たたくのであって
それ以外ではないのです
なぜなら
私たち
一人一人のなかに
神様から
さずけられた
それぞれが
果たすべき
天命が
大光明となって
かがやき
わたって
いるからです

一人の
天命を 
果たさせ
さらに
何十人
何百人
何千人
この地球上に
生きる
すべての人間の天命と
宇宙人類の天命とを
つないで
無限のいのちの光を
大神様の
もとに
かがやかせる
丁度
この肉体界で
親と子が
情をかよわせ
心をかよわせるように

それよりも
さらにつよく
深い絆で
神(親)と
人間(子)の
二人ながらの
光の
交流が
ずっと
奥の奥まで
なされて
十字交叉の
光と愛の世界を
完成させてゆくのです

我々
一人一人の存在は
そのための
いのちなのです
誰が
この事実に気付き
誰が気付かない
というんじゃ
ない
肉体を
もちながら
気付いている人も
いない人も
みんなのいのちを
そのために
用いられるのです
それと
気付かせずに
みんなを
いのちの本道へと
みちびいてゆく
守護の神霊は
この永遠の
いのちの親である 
神の愛を
身にしみこませた
みつかいなのです

我々は
生まれながらに
いや
肉体界に
生まれる
ずっと以前から
この永遠の
神の愛に
育てられ
守られて
今ここにこうして
空気と霊気とを
呼吸して生きて
いるのです

空気は
肉体をやしなう
いのちを
霊気は
我々の
霊体から
ずっと奥の
からだにまで
神の愛を
うけて
生かされている
よろこびを
与えつづけて
いるのです

いかされる
よろこび
これこそ
神から生まれた 
神の血を
わけられ
神の愛を受けて
ここに 
生きている
生きている
我々のいのちの
みなもとです

すべて
神様に目をむけ
こころを向ける者は
このいかされるよろこびによって
生きています
それは
大神様から
たまわったいのちに
畏れをいだきながら
よろこびつつ生きる
ということであり
そのよろこびも
心の奥底から
おのずと
湧いてくるものなのです
なぜなら
人間は
神の愛によって
おのずと生まれしめられた
さながらの
いのちだからです
じねんほうにの存在なのです
義務で
存在してるんじゃない
神様と
いのちを
高らかに
うたい上げ
うたい合う
そういう
存在なのです
親と子なのですもの
血のつながりが
あるのですもの
遠慮なんて
ありゃしない
そうでしょ
自然な
自然な間柄
自然な
自然なことなんです
いのちということは

言葉を
かえるなら
いのちというのは
すなおということ
単純というんじゃありませんよ
純ではあっても
単純じゃない
おのずと
よろこぶという
いのちの
相(すがた)の
なかには
すべてを
きよめ
濾過しつくす
きよらかな
神様の前に
まっすぐな
さがが
一本
徹っているのです
この一本の性を
古代の
おおらかな心の人々は
光の柱
とみたのです
それは
はなれて
光るんじゃない
自分の
からだのなかから
おのずと
光がみちあふれて
天の私(自分自身)へと
通じるのです

天地の自分自身
人間の相が
合体した瞬間を
古代には
ごく
あたりまえの
純な
人々が
目にしたのです
自分にも人にも
かがやき
天と地とをつなぐ
光の柱
その柱一本の 
光の橋を
かけて下さっているのが
大神様の
愛であることを
古代の人々は
一人のこらず
知っていたのです

古代の人々が
神様に近かった
というより
神様のことを
本当に
自分の親だと感じ切って
くらしていたのです
丁度
現代の人間が
空気を吸うことを
当然だと思うように

それ以上に
神と人間とは
親しい親しい
間柄だったのです

さながらのいのち
ほがらかな
神の光に
みたされた
人々の心は
大きく広く
寛やかで
まどいが
いつもありました 

私をはじめとする
救世の大光明霊団が
目ざしているのは
この広く大きく
また
寛やかな
人間のこころへと
現代に生きる
すべての人を
かえすことなのです
それも
むりやりに
かえそうというんじゃ
ありません
世界人類が平和でありますようにと
いう
すべての人の心が
一つになり
ほんとうに
自由になる
祈りを
とおして
かって
人々が
日常茶飯に
みていた
天と地をつなぐ
光の柱を
顕現させるのです

この眼で
肉体の眼で
みえるみえないは
問題じゃありません
そうじゃない
肉体という
不自由なかせにしばられた
人間の真に自由な真性を
肉体をもたせたまま
奥の奥をよろこばせる
そうして
いつか
この肉の身のままに
生かされているよろこびを知る
それこそが
自由を得るということなのです

今の世界
肉体を持った人間を
否定するんじゃない
その肉体人間を
生かしている
真実の神の愛を知らしめ
心によびおこしてゆくのです
それが
世界平和の祈りの目ざす
平和と愛と大調和の目的です
いのりの光の
すすむ
神へのみちです

私たちは
光のみちを歩く
旅人なのです
そのみちすじには
いくつもの
私たちをきたえる
親の愛ゆえのつまづきが
用意されているかも知れない
けれども
神が絶対の愛であり
いつくしみ深き方であることを
知っている
私は心の底から
神は愛であることを
つたえつづけて
やまないのです

神は愛
人はそのいとし子
永遠の神の
いとし子なのです
      昭和62年1月30日