わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

かえし受けるいのち

2015-01-02 09:24:05 | 癒し
 私どものいのちは、日々神様からの光を
いただいて保たれているのでありますが
自分自身を絶えずあたらしくするために
祈りがあり、一瞬一瞬に、古い自分を返し
つづけているのだということを、考えて
みたいと思うのであります。

 一体自分とは何でありましょう。自分
とは肉体だと思う人があるかも知れない。
 あるいは又、心だと思う人があるかも
知れない。

 では、私は、何と思っているかを
ここで申します。

 自分とはいのちであります。いのち
そのものであります。神の光を受け、
霊要素、霊気を呼吸して生きるのが
自分自身、人間そのものなのであります。

 人間というものは、こんなちっぽけな
肉体の中に閉じこめられているものでは
ありません。人間の真性は、天地宇宙を
つらぬいて、神の愛と一体となっている
ものであります。

 神の光に抱かれ、宇宙神の愛とゆるしの
大光明の一筋となって永遠に生きゆく
相(すがた)、それが、いのちという
ものの真実の相なのであります。

 昔々、まだ、人間が、空気のように
霊気を呼吸し、神の光を、よろこんで
身に浴びておりました頃、人間と神との
交流、人間と守護の神霊との交流という
ものは、誠に畏れを持ちながら、和に
満ちていたのであります。

 いのちというものの朗らかさ、永遠に
活きづく本心そのもののかがやきが、
神や守護の神霊との交流のなかに、
自らを突き動かしていることを、人間達は
知っていたのです。

 実に自然に、いのちというものが、
つねにあたらしくされ、日々瞬々いただき
なおすものであることを、本心本体そして
心が知っていたのであります。

 祈りの言葉というものも、ひびき
そのままの交流であり、交歓でありましたが
つねに自らのいのちのかえるべきところが
神であることをよろこびながらの祈り
でありました。こうしたすがたは、人間
本来のものであり、今、宇宙の星々に
宇宙神の愛をうけて生きている私どもの
すぐれた先達、宇宙人類達は、さながら
こういう心なのであります。

 いのちの流れというものはとどまる
ことを知りません。そしてそれは、肉体
などという私ども肉体人間の眼を超えた、
霊妙なひびきを持つ光そのものの光体を
貫き、遂に宇宙神のみふところに
流れ込んでいるものなのであります。

 つねに新しくされるということは、古い
自分を脱ぎ捨てているということで
ありますけれども、これが、この現世に
おける「死」とおなじようにとらえられる
ならば、それは全くことなった死なので
あります。

 本来、いのちというものは、ずっと、
神の愛のもとにみちびかれて絶える
ことのない流れでありますので、その
節目節目における「死」は、一つの仕事、
修行をやりおえた私どもが、さらに
素直に神様の光のなかに生きるために、
また、より深くより広い人類の進化の
ために、一区切りがついた、そして、
次はここだという本心本体への覚醒を
指すのであります。

 私どもは、すきとおるような神の愛と
神への愛を受け、又ささげるために
この地上に、また宇宙に連なる存在
なのでありますが、こうした光体から、
遂に神の光の一筋となるために、永遠の
いのちを受けているのであり、
祈り─世界平和の祈りは、各自に
分けられたこのいのちのかがやきを、
いやが上にもかがやかすのであります。

 こうした人間のいのち、自分自身は
かがやく神の光であり、いのちであると
祈りのうちに、この宣言を神への最上の
そなえ物とする時、辺りはよろこびの
光にみちるのです。
 どうか、果てしなく円環しつづける
いのちをみつめるためにも、一切を
消えてゆく姿と観じ切る、とらわれを
放つ神への信をかためていただきたい
ものであります。
     昭和61年12月16日 夜
          五井 昌久