わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

宇宙神と同格ということについて

2012-08-01 08:15:54 | 癒し
 今まで何度か説いてきましたように、人間の
生命の流れというものは、本来、宇宙神の
ずっと深いところまで繋がっているんだという
ところまでお話ししたかと思います。それで
この間、直線的に昌美が宇宙神と皆さんとは
同格であると、そういうことを言ったかと
思います。それで今聞いていると、諸説紛々
だというので、じゃあちょっとこちらからの
メッセージを言ってみようかと思うんですけれど。

 同格というと、同格という言葉に又
把われるのが人間なんですね。じゃあ同格
というと宇宙神とまるで同じということに
なると、じゃあ宇宙神というのは何かというと、
すべてのすべてなんですね。生命の元の元。
 人間の生命だけじゃなくって、この宇宙全体を
造った、もう造ったも何も造る前からいた。
 それと同じかということになると仰天しちゃう
訳なんです。

 何故かというと、人間というのは、この肉体
という不自由なものを持ってまして、一日の
内でも、何度も何度も言うように、気分が変わる
喜怒哀楽が出てくる。そういうものと宇宙神が
同じだと言われてしまうと、とんでもないという
気持ちがまず出て来る。
 それでなくったって我々は凡夫なんだから、
いただき直しの生命なんだからといって
ずっと説いて来て、そして皆さんも祈っている。
 そういう中で、そういう風に言われてしまうと
わあ─と思う。思うけれども、昌美が
言ったのはね、その生命の現われとしての
宇宙神と一緒なんだという風に捉えてしまうと、
つまり、全体の存在と同格だという風に捉えて
しまうと、皆困るんですね。そうじゃない。
 じゃあ昌美は嘘を言ったのか、そうじゃあ
ないですね。

 同格だというのは、何において同格か
というと、皆さんの奥の奥の悟ってる本体、
神体ね、肉体じゃないですよ。神体、本来心
というものがね、何によってできているか
というと、宇宙神からの光明と(光と)ですね、
愛と、そういうものによって生きてる
訳なんです。
 宇宙神の愛というのは、これはもう極まりの
ない愛なんですね。すべてのものを生かそう、
すべてのものをより良くもって行こう、敵も
無いんです。味方も無いんです。あるがまま
なんですね。

 そういうものが、我々のこの肉体、我の強い
肉体を通して光になって、そして、我々は
肉体の生命を養ってもらってる訳なんですね。
 そして、自分の内の奥の奥にもそれと同じ
ものがある。そういうことを考えますとね、
つまり、我々というのは意識するしないに
関わらず、愛したいと思う、仲良くやりたい
と思う、平和にやりたいと思う、喧嘩をしたく
ないと思う、砕いて言えばですね、そういう
気持ちね。
 つまり、世界人類が平和でありますように
という気持ち。何処にも戦争がなくって無事に
平穏に、皆がそれぞれに、それぞれの家庭で
生きていけたらと思う。その祈りの気持ち。

 それは何かというと、ずっとつき詰めていくと、
宇宙神があるがままの生命を認めて
そのままにありのままに生かしていく。
 それが自分の望みであり願いであり祈り
であるんだと。その本来心の祈りを受けて、
世界人類が平和でありますようにという
あの文句が出来た訳ですから。

 ということは、自分の中にも、ものすごく
素朴だけれども、そういう風に祈る、自分の
家族のこと自分のことまわりのこと、そこから
ずっといって世界人類のこと、本当に平和で
あればいいなと祈る。そういう何ともしれない
思いが湧き起こる。湧き起こる時には、人間
というのは、その時には我には満たされて
ないんですね。やっぱりその時には光に
なってるわけ。その光というのは、祈る時に
もちろん強められるし深められるし、こっちから
見ていると光明そのものになるけれども、祈る時
だけが光明かというとそうじゃない。

 普段は、自分が光明体であるということを
皆忘れて生きているんです。何故かというと、
この世の中というのは、忙しいんですね。
 仕事しなきゃなんない、連絡しなきゃ
なんない、子供の面倒はみなきゃなんない、
夫婦の中で解決しなきゃいけない問題がある、
親子の中で解決しなきゃいけない問題がある、
家庭はある・・・。
 そのことで自分が光明身だとか、そういう
体を持ってるとかということは、なかなか
肉体のこの意識からはのぼって来ない
訳なんです。

 で、心を鎮めて、皆で統一して
さあ祈りましょうという時には、それは
スーッと出て来やすい訳ね。それは、何も
祈ったと同時に自分自身が変わるんじゃ
ないんです。自分自身というものは本人が意識
するしない、あなた自身が意識するしないに
関わらず、光なんです。何故かというと、
神様から分かれて来ている生命だから、
分生命(わけいのち)だから光なんです。
 それはどんなにその人が何を表面的に
どうしようと、奥にその光明があって、その
光明が出たがってる。
 そして、その人本人のその余分なものを
取っ払っていったら、その人自身も光になる。
 で、その光は愛とゆるしと平和である。と
いうことにおいて皆平等なんです。同じ
なんです。

 その愛とゆるしと平等の元の元、平和の
元、それが宇宙神なんですね。だから、
あなた方は宇宙神と同格であるというのは、
そういうもともとあなた方の中の生命を
生かしめている思いだけじゃなくて、肉体も
全部含めてね、我々からすると煩わしい
ものも全部含めて、この世の中に生かしめ
られて働かしめられてるその元の元が
愛とゆるしと平和だから、その大元を
辿って行けば、何度も言うけれども、つまり
宇宙神だから、それは本人が意識するしない
じゃないんですね。

 昌美があの時あれを言ったというのは、
もともと宇宙神と同格であるというのは、
そういう分かれてきた生命の末、元と末
ですから、で、その末というのは萎びるん
じゃなくて、これからもずっと続いていく
末だから、ずっと連らなってるものだから、
もうそろそろあなた方が光明なんですよ
ということを、あそこであの子は言いたかった
筈なんですね。そうして、それぞれに
分けられている光明身というものをずっと
繋いでいって、祈りにしていって、そうして、
世界人類が─とやっていけばね、そうしたら
つまり、それは宇宙神のみ心になる訳。宇宙神の
み心と一つになる訳です。そこに入っちゃう訳ね。

 今は、魂というか、そういう本来心が
どんどんどんどん磨かれていって、どんな時にも
み心の中へ入るようにやっていかないと、
この地球の汚れというものは、なかなか
大変なんですね。今随分掃除が出来てるけれども、
でも根っこの所もまだまだ一杯大変なものが
あるから。
 それで宇宙神と同格だというのは、それも
本来本当の意味だけれども、あなた方を
励ます、ね。萎縮(いしゅく)するんじゃ
なくって、縮むんじゃなくって、そうだそうだ
生命の本当の本当の底のところで我々は
そうなんだと宇宙神のみ心の中を見てみると、
自分がまわりを平和にしたい、ゆるして
いきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに
育っていきたい、生きていきたい、というのと、
宇宙神の方からこちらを見て、いい人間
一人一人を本当に愛してゆきたい、ゆるして
いきたいというのと、一緒なんですからね。
 何にも変わるところがないんですよ。

 ただこの世の中では色んな煩(わずら)いが
あるから、そういう気持ちになるところが
少ないけれども。
 しかし、先程申しました様に、神様が
生かしている間というのは、悟ってる本体、
あなた方の神体、霊体というのは、常に祈りを
捧げている訳、宇宙神と一緒になって捧げて
いる訳、共に捧げている訳なんです。目には
見えないけれどもね。ですから、分かれるも
分かれないもね、ずーっと一緒なんですよね。
 そういう意味で同格なんです。

 ですから生命のすべてを造った創造主
としての宇宙神というものをへんに想像
してしまうと、そこでおかしなことに
なるけれども、そうではなくて、つまり本当の
心の底のところで、現われも何も超越した
ところで、我々は一本につながっているんだ。
 そこで我々は抱きとられてるんだ。愛され
てるんだ。ゆるされているんだ。だから
我々もささやかでもゆるして、愛して
できるだけ平和にという風に努力をして
やっていったら、その時に自分の中の霊性が
目覚めて、喜んで高まっていってね、自分の
愛の光がゆるしの光がまわりに飛び交って、
そうして、皆の中にその光の輪が広がっていく
というかね。祈りというものはそういうもの
なんですね。

 だから、祈ってる時だけがただ光明心が
出てくる訳じゃない。その時だけが同格
というのも、それも正確じゃない。常に常に
自分の中で自分の知らないところで、自分の
本体は本心は宇宙神と同じような働きを
しているんです。

 父子御霊とキリスト教でいいますよね、
三位一体。あれは、父子御霊という風に
分けることが出来ないんです。あれは本当に
一体なんです。

 たとえば、愛とゆるしと平和というものが
それぞれ違うもんですかといったら、これは
みんな一つらなりに連らなってるというのと
一緒なんです。我々は神から分かれてきた生命
であるというのは、じゃあ神様と人間の生命とは
どんな風に違うんですかというのは、それは
正解じゃないんです。一緒なんです。一緒
なんだけれども、ただ今のこの世の中の色々な
現われでもって、自分の状況でもって、
その言葉なりを測ってしまうと、自分の想像
でもって測ってしまうと、とてつも無く
おかしな事になるわけね。

 そうではない。本体において神体において
本来心において、我々は一時(とき)も神様から
離れたことはない。宇宙神から離れたことは
ないし、宇宙神も離したことは無い。そういう
意味において、不即不離なんだということね。
 これが、我々は宇宙神と同格なんだ
ということの本当の意味なんです。

           昭和63年6月13日
               五井 昌久