連休の最終日は友達Hと汐留に行った。
先週友達Fがアド・ミュージアムでやっている「広告跳躍時代~昭和の広告展Ⅲ」に行き絶賛していたので、私たちも見ることにしたのだ。
まずお昼を食べた。汐留シティセンタービルの「オレゴン・バー&グリル」。前日にネットでチェックしておいたんだ~
42Fだから見晴らしがいい。メインは魚か肉から選び、サラダとデザート、ドリンク類がブッフェになっている。お値段もリーズナブル。
デザート。
食後に取りだしたのはおとといのファントムといっしょに測り売りで買った小さな水晶たち。4個買ったからHに一個あげようと思って持ってきたのだ。
Hが選んだのは、ダッフィーが持っている向かって右側の水晶。この水晶からHは呼ばれたらしい。Hが家に持っている水晶と形が似ているそうだよ。
ダッフィー、初めて見た。Hはこの前ディズニーシーに行ったのだが、最近のディズニーシーにはこのダッフィーのぬいぐるみを持って歩いている人があふれているんだそうだ。
ダッフィーって、船に乗るミッキーがさびしくないようにミニーがあげたテディベアなんだってね。
それからアド・ミュージアムへ行った。
1970~80年代のテレビCM、ポスター、チラシなどの広告、当時のなつかしいものなどが展示されている。
当時のヒットCMを次々と手掛けていた元電通社員のトークショーもあって興味深かった。
商品を売るのにハッピーな部分だけでCMを作るときれいごとのようで嘘っぽくなってしまう。そこへネガティブな要素を少しだけ入れるとぐっとリアリティが出て人心をつかむCMになる、みたいな話があり、なるほど、と思った。
何でもそうだよね。文章や芝居でも。薔薇には少々の毒の部分があるからあそこまで美しいっていうのと同じかな。深い。
当時のものに接すると記憶の扉が次々に開き「あ~、これ、あった!」「そうそう、思いだしたよ~」と興奮状態になり、なつかしくて楽しくて2時間以上はいたと思う。
「なつかしい」で思い出したのは友達Fさんのこと。
Fさんは昔から「過去をなつかしむ」という感覚がないんだそう。というよりもともと感覚がないから「なつかしい」っていうのがどういうことなのかよくわからないんだと言っていた。
ひょえ~~、そうなんだね。
Fさんに「『なつかしい』っていうのはね、そのころのことを思い出すとちょっとせつないんだけどうれしい、っていう感覚だよ」と言ったのだけど、いまいちわかっていない表情だった。昔の何を思い出しても彼女はとくにうれしくはないんだそうだ。
ただ、私にもわからなくなってしまった感覚がある。「さびしい」っていう感覚だ。
昔はね、私はひと一倍さびしがりだったと思う。ところが今は「さびしい」って感じることがない。「さびしい」っていうのがどういう感覚なのかも忘れちゃった。思い出せない。いつからこうなったかもわからない。たぶんこの10年ほどの間の「いつからか」なんだろうけど。
「なつかしい」っていう感覚のわからないFさんは(私より数歳年上)未だにものすごくさびしいんだって。ああっ、わからない。そのさびしいっていう気持ち。
要するに「さびしい」っていうのは自分に「何かが足りていない」「欠けている」って感じてしまうことなんだろうか。もちろん物質的ものではなく精神的なものだろう。
ということは「さびしい」感覚のない私は「足りているのか」?
うん、ちょっと違うな。さびしい気持ちはないけれど、孤独は孤独としてあるんだよね。私にも。
だけど孤独は避けられる、あるいは避けるべきことじゃなくて「孤独は避けられない」「だから孤独でいいんだ」と魂から納得しちゃったんだろうな。いつのころからか。孤独の自然な完全肯定、なのかな。
だから孤独を補う何かを自分の周りに望んだり求めたりしなくなった。
それで「さびしい」っていう感覚がなくなったんじゃなかろうか。
広告展を見たあと、新橋の中華屋さんで早めの夕食を食べ、銀座までブラブラ歩いて、石屋さんを2軒ほどのぞき、甘いものを食べた。
紅芋パフェ。紅芋モンブランの中はバニラアイス。器の半分から上はカステラとラズベリージャム、半分から下はプリンだった。
迷った末、メニューに「毎年シーズンには大人気」と書いてあったこれにして大正解。
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YouTubeにはなつかしいCM集がいっぱい出てるね。は~、なつかしい。