のぶさんの花便り

デジカメと花に夢中な《のぶさん》ですが
これからは、風景やスナップにチャレンジ

東京さわやか散歩 壱の12 ⑤

2019年09月30日 03時14分05秒 | 写真

番外編 : 千鳥ヶ淵のサクラ

皇居のお濠を淡いピンクに染めるソメイヨシノの並木は、仕事帰りのサラリーマンやOLに人気のお花見スポット。
夜はライトアップでロマンチックな雰囲気となり、夜間営業するボートからもお花見を楽しめる。緑道から眺める石垣と可憐な桜の対比がなんともいえず美しい。 

(千鳥ヶ淵 : 東京都千代田区 2011.04.07 撮影)


東京さわやか散歩 壱の12 ④

2019年09月29日 02時33分04秒 | 写真

上野公園から下町風俗資料館

ときは大正時代。いまだ古き良き江戸の風情をとどめる東京・下町の街並みを再現しています。通りに面した大店(おおだな)は、花緒の製造卸問屋です。
「出桁(だしげた)造」といわれる当時の商家の典型的な建物には作業場と帳場があります。狭い路地に囲まれた裏店(うらだな)の長屋では、薄壁一枚に仕切
られた隣同士、井戸も共同で使いました。 ここの住人は「駄菓子屋」を営む母娘と「銅壷(どうこ)屋」の職人一家。

中は小さな一間ですが、さまざまな調度品や生活道具があります。これらはすべて実際に使われていたものです。
商家・長屋には、どうぞ上がってご覧ください。ちゃぶ台や長火鉢の前に座り、ゆったりと時を刻む柱時計の音に耳をかたむければ、四季折々の下町の風情
と暮らしを体感できるはずです。

江戸時代からお花見のメッカとして知られ、東京を代表する桜の名所。開花時期には、お花見の様子がニュースで流れるほどにぎわう。
袴腰(はかまごし)から噴水池あたりまでの桜は圧巻だ。
また、公園内には800個ものぼんぼりが灯され、夜桜も堪能できる。開花状況にあわせて不忍池周辺で骨董市が催されるなどイベントも多い。

 
(上野公園 : 東京都台東区 2011.04.07 撮影)


東京さわやか散歩 壱の12 ③

2019年09月28日 01時06分19秒 | 写真

上野公園から下町風俗資料館  

大正15年(1926)5月1日に開館した東京府(都)美術館は、半世紀にわたって新作発表の場として、都民に『上野の美術館』と親しまれてきた。
また、戦前には回顧展や名作展などの様々な企画展や新しい美術の動向を伝える外国美術展が開催され、美術の殿堂としての役割を担ってきた。

上野動物園は、1882(明治15)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園した、日本で最初の動物園です。1886(明治19)年には宮内省所管になり、
1924(大正13)年には皇太子殿下(昭和天皇)のご成婚を記念して、東京市に下賜されました。

 第2次大戦中には、猛獣処分と呼ばれる悲しい出来事がありましたが、これまで上野動物園は「生きた博物館」として世界各地から集まったさまざまな動物
を展示してきました。

また、都立動物園でありながら、日本を代表する動物園としても機能しており、1972(昭和47)年には、日中国交回復を記念しジャイアントパンダが来園し、
大変なにぎわいを見せました。

上野動物園の隣に、レトロな遊園地をご存知ですか?1946年に営業開始した『上野こども遊園地』は、70年間変わらぬ姿で上野公園に存在していました。
こじんまりとしていますが、敷地内には子どもが大好きなアトラクションが置かれています。また、遊園地の周囲にお土産屋や、クレープ屋が立ち並んでいる
のも魅力です。

京成上野駅から徒歩6分の場所にある、上野公園の中にある甘味処です。大正4年(1915)から4代にわたる老舗で、「鶯団子(550円)」が名物です。
十勝産の小豆餡、大手亡を使った白餡と、抹茶餡の3種類がセットになっているお団子で、保存料を一切使わない、手作りの味です。鶯団子には抹茶も付い
てきます。また、「あんみつ(550円)」、「おしるこ(700円)」などの甘味もそろっています。
また、甘味だけでなく、「おでん(800円)」も隠れた人気メニューとなっています。テーブル席がありますが、天気が良ければ庭に面した席も自然を感じることが
できておすすめです。

上野東照宮は、東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて
上野東照宮と呼ばれ、別名「三処権現」とも呼ばれる。 徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。Wikipedia

東京・上野の不忍池のほとりにある弁天堂は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧・天海により建立されたお堂だ。天海は、徳川家の
開基により、比叡山延暦寺に倣って上野に東叡山寛永寺を開山した高僧で、上野の山を比叡山に、今より倍以上の広さがあったという不忍池を琵琶湖に
見立て、不忍池にあった島(現在は橋で陸続きになっている)中之島に、琵琶湖の竹生島宝厳寺の弁才天を勧請して建立した。

 
(上野公園 : 東京都台東区 2011.04.07 撮影)


東京さわやか散歩 壱の12 ②

2019年09月27日 03時53分49秒 | 写真

上野公園から下町風俗資料館 

東京国立博物館は、日本と東洋の文化財の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。
館長は銭谷真美。 1872年に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。Wikipedia

 

旧東京音楽学校奏楽堂は、東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の施設として、明治23年に建築され、日本における音楽教育の中心的な役割を
担ってきました。2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った
由緒ある舞台です。
 
創建から80年近く経過した昭和40年代に入ると、建物の老朽化が目立つようになり、校舎を都外へ移設する構想が持ち上がりますが、昭和58年に台東区が
東京藝術大学から譲り受けることとなりました。そして、昭和62年に現在の地へ移築・復原し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開を開始しました。
さらに、翌63年には、日本最古の洋式音楽ホールを有する建造物として、重要文化財の指定を受けました。
以来、旧奏楽堂は「生きた文化財」として、建物の公開のほか、演奏会や音楽資料の展示を行ってきました。  

(上野公園 : 東京都台東区 2011.04.07 撮影)


東京さわやか散歩 壱の12 ①

2019年09月26日 00時33分03秒 | 写真

上野公園から下町風俗資料館

        

上野が文化の森と言われるのは、この東京文化会館があるからだと思います。で、いつも気になるのが横にある銅像です。
この人は元東京都知事の安井誠一郎氏です。東京文化会館建設の発起人の一人なのです。当時、クラシックとバレー・オペラの両立させる音楽ホールは
無理ではないかという激論が起きたとか。安井さんは会館の完成の翌年(1962年)になくなられました。ところで意外に知られていないのが、東京文化会館
は国立ではなく都立だということです。

1959年、フランス政府から日本へ寄贈返還された「松方コレクション」を保存・公開するために設立された、西洋美術専門の国立美術館。
ルネサンス以降20世紀初頭までの作品を、常設展として年間を通して展示。クロード・モネ《睡蓮》やオーギュスト・ロダン《考える人(拡大作)》など、有名な
作品を多数所蔵している。

また2016年7月には、「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。

        

        

日本で唯一の総合科学博物館。館内には「日本館」と「地球館」の2つの常設展示場があり、「日本館」では、フタバスズキリュウの実物化石標本や忠犬ハチ
公で有名なハチ公の剥製標本や南極観測犬のジロの剥製標本が展示されています。
「地球館」では、世界で最も保存が良いと言われているトリケラトプスの実物化石標本や大型の哺乳類や鳥類のはく製が数多く展示されています。
また、体験コーナーもあり大人も子どもも楽しむことができます。さらに、迫力の全球型シアター360なども備え、独特の浮遊感を味わうことの出来る施設もあります。

前夜、TVニュースで東京のソメイヨシノの満開を知る。仲間の誘いがあり、西郷どん銅像前に11時に落ち合うことになった。
それ以前の時間を利用して東京さわやか散歩12番目の《上野公園から下谷風俗資料館》を歩く。

その後、番外として千鳥ケ渕のサクラと東京スカイツリー撮影をする。

(上野公園 : 東京都台東区 2011.04.07 撮影)


東京さわやか散歩 壱の11 ⑧

2019年09月25日 03時17分36秒 | 写真

谷中霊園から根津神社

        

明治時代、文明開化の真っただ中で日本の伝統美術の優秀さを唱え、近代日本美術の発展に大きく貢献したという岡倉天心。
その旧居跡に作られた「岡倉天心記念公園」は谷中銀座と谷中防災コミュニティセンターの間に位置します。外から見るといわゆる児童公園ですが、中に入
ってみると、とても静かで落ち着いた雰囲気の空間だと感じます。まるで、住宅街に突如現れた小さな森のようで、とても気持ちが落ちつきます。

        

日暮里駅からすぐの場所にある「谷中銀座商店街」は、東京の下町にある商店街の中でも人気のスポットです。食べ歩きに最適なグルメも豊富で、いろいろ
なショップも並んでいます。「夕焼けだんだん」と呼ばれる場所から見る夕陽もとてもきれい!猫や猫モチーフの食べ物も多く、猫好きさんも必見♪デートにも
食べ歩きにもぴったりの谷中銀座をご紹介します。

 

(岡倉天心記念公園~谷中ぎんざ : 東京都台東区 2011.03.29 撮影) 


東京さわやか散歩 壱の11 ⑦

2019年09月24日 00時46分50秒 | 写真

谷中霊園から根津神社

根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。
明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。

宝永二年五代将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。
翌年(1706)完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されている。

乙女稲荷神社は倉稲魂命を祭神とし、朱塗りの鳥居が連なる奥に朱塗りの社殿がある。
また、参道脇には徳川家宣胞衣塚があり、文京区指定文化財になっている。6代将軍・家宣の胞衣(胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めた塚であり、
当地が甲府藩邸であった時に家宣が生まれたことに由来している。

つつじが植えられた法面の上に参道と朱塗りの鳥居が並び建ち、社殿も朱塗りである。本殿は奥にある岩窟の中にある。





(根津神社 : 東京都文京区 2011.03.29 撮影) 


新たな愛車

2019年09月23日 05時38分56秒 | 写真

8月中旬、自転車に代わる、アシスト三輪自転が届きました。14年前に愛妻を事故で失い、愛車を廃棄処分し免許証返納しました。
以後、スーパーなどへの買い物は リックを背負って自転車を使っておりましたが、自宅周辺の道路は起伏に
富んでおり、行きは下り坂が
多く楽ですが、買い物を済ませ重いリックを背負い、帰りの上り坂にさしかかると自転車からおり押して帰宅する始末で肉体的な衰えを感じ
るようになりました。
以前からアシスト三輪自転車を考えており、8月はじめ通販サイトに購入を依頼。アト数日で満84歳になる自分へのプレゼントになります。


東京さわやか散歩 壱の11 ⑥

2019年09月22日 04時50分16秒 | 写真

谷中霊園から根津神社

慶長3年、江戸の地に徳川幕府が開かれましたが、それに伴い江戸城の建設、市街地の拡張のため大工事が行われました。
法蔵院は、その工事により新たに造成された神田寺町に寺領を賜り、浅草の東光院末寺として、慶賢法印により開創されました。慶長16年(1611年)のことです。
その後、江戸の町は徳川幕府の中心地として発展を続け、人口も増加したため、神田寺町の寺院は他所に移されることになり、慶安元年(1648年)當山は谷中
の現在地に移転しました。

同時期に、當山のほかにも多数の寺院が谷中に移転、また明暦の大火により焼け出された寺が谷中に集まり、今のような寺町が形成されました。
現在、谷中の寺院の数は70ケ寺以上にのぼります。

開山の慈雲院日新上人は身延山久遠寺の第17世で、徳川家康が幼少時の学問の師であった。天正19年(1582)家康が日本橋馬喰町に寺地を寄進、大久
保主水の外護により開創した。その後、神田を経て慶安2年(1649)現在地に移転した。身延山末の江戸触頭三ヶ寺の一で、かつては塔頭15ヶ寺を数えたと
いう。平成18年(2006)本山(由緒寺院)に昇格。祖師像は「安産飯匙の祖師」と称し、厄除・安産救護の霊験で信仰を集める。 
   
(法蔵院~瑞輪寺 : 東京都台東区 2011.03.29 撮影) 


東京さわやか散歩 壱の11 ⑤

2019年09月21日 05時28分06秒 | 写真

谷中霊園から根津神社

浄名院は、寛文6年(1666)、上野寛永寺36坊のひとつとして開かれました。江戸時代の寺の隆盛の陰で不徳な僧も生まれたため、妙立和尚が不徳な僧を
戒め、清い信仰を広めようと安楽律宗を開き、これを引き継いだ38世妙運大和尚が民衆を救うために八万四千体の石地蔵建立を発願しました。
現在では2万体を超える像が造立されています。 

寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺です。寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地
に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。

後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代
には格式と規模において我が国随一の大寺院となったのです。
しかし幕末の上野戦争により、敷地の大部分が上野公園となりました。
また関東大震災や太平洋戦争の被害もありましたが、戦後は新たに霊園を造営し一般のお檀家さまを受け入れるなど、開かれたお寺としての役割を果たす
ことを目指しています。

寛永寺は来る創建400周年(2025年)に向けて、上野に刻まれた歴史の重みを今に伝えています。

大行寺は、天正16年(1588)圓妙院日感上人を開山として創建した法華経を唯一の拠所とする日蓮宗の寺院。久遠実成のお釈迦様をご本尊とし、本堂には
開運毘沙門天王も安置されている。
大行寺に建立されている永代供養塔は、當山に縁を持ち、お墓の継承者のない方に大行寺が代って永代供養する納骨供養塔。
大行寺の在る谷中は、江戸時代に江戸城周辺の寺院が徐々に集まり、江戸の発展と共に寺町として栄えた地。大行寺は現在八十を超える谷中の寺院の中
でも、最も古くから在る寺の一つ。  

(浄名院~大行寺 : 東京都台東区 2011.03.29 撮影) 


東京さわやか散歩 壱の11 ④

2019年09月20日 01時01分22秒 | 写真

谷中霊園から根津神社

谷中霊園中央の大通りを日暮里駅側から真っすぐ歩いてくると、三崎坂に出ます。信号の先の緑に囲まれた山門からは赤い前掛けを着けた大きなお地蔵
様が目に入りますが、こちらが多宝院です。手入れが行き届いた境内は比較的奥行きがあり、いろんな種類の草木が心を和ませてくれます。
山門前に、「吉祥天安置」と刻印された石柱がありましたが、実際、本堂の左手に「谷中吉祥天」のお堂があります。

谷中霊園の入り口から、三崎坂を言問通り方面に歩いて、左手に交番を見ながら進むと、右手にあるのが、大雄寺です。山門は広くなく境内も見通しが良い
とは言えないため、気が付かずそのまま通り過ぎてしまいそうですが、境内参道の脇の大きな木が目につきます。こちら、クスノキです。
お寺と樹木は切っても切れない縁ですが、谷中には、ヒマラヤスギやシイなど、大木になる種類があちこちで見ることができます。
クスノキというのは、当寺で初めて目にしましたが、きっと他のお寺でも見られるんでしょうね。時間があれば、気をつけて見るようにしたいと思います。

この付設展示場は、谷中6丁目で江戸時代から代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を現在地に移築したものです。
明治43年に建てられた建物は、腕木より軒桁が張り出している出桁(だしげた)造で、また正面入口には板戸と格子戸の上げ下げで開閉する揚戸(あげと)が
設けられています。いずれも江戸中期から明治時代の商家建築の特徴を示すものです。
屋内には、秤・漏斗(じょうご)・枡・樽・徳利・宣伝用ポスターや看板など酒類の販売に用いる道具や商いに関する資料を展示しています。

 
(多宝院~下町風俗資料館付属展示場 : 東京都台東区 2011.03.29 撮影) 


東京さわやか散歩 壱の11 ③

2019年09月19日 01時55分50秒 | 写真

谷中霊園から根津神社 

        

了俒寺は、徳川家光が三代将軍位を継いだ翌年-寛永元年(1624)に、日安尼によって現在地に草創されました。当初、日蓮宗の不受不施派に属しており、
感応寺九ケ院の中でも唯一寺号を有する特別な寺でした。日安尼は、徳川家康の異父弟(松平康元)の長男(忠良)の側室で、信濃国袮津(長野県小県郡)に
五千石を領した松平忠節(忠利)の生母にあたります。
明暦2年(1656)に日安尼が示寂し、忠節はその菩提を弔うために草庵を一寺として建立し、母の法名『隨龍院殿正真日安大禅定尼』にちなんで“隨龍山了俒
寺”と号しました。その後忠節も当寺へ葬られ、義兄の金田氏と共に両家代々の当主と家臣たちの菩提寺になったということです。

元禄11年(1698)、不受不施法乱に直面し、時の住職であった妙用比丘尼は入牢を命じられたのち配流となり、翌年感応寺とともに天台宗に改められ、稟光和
尚が入山しました。現在の本尊の阿弥陀如来はこの年に安置されたものと思われます。

        

天王寺は、緑に囲まれた広大な谷中墓地の一角にあるため、都心部にもかかわらず静寂な環境に恵まれています。桜並木の墓地参道の突き当たり、山門を
くぐって境内に入ると、正面に奈良の十輪院を模した古風で優美な姿の本堂が出迎えてくれます。
そして右方奥には、平成10年に落慶した上善堂(講堂)、客殿の棟が目に入ってきます。このように昔ながらの寺院建築と近代建築とが見事に調和していると
ころが当山の景観の特長です。

さて、天王寺はもとは日蓮宗の寺でした。鎌倉時代後期、土豪関長耀が、当地に立ち寄った日蓮聖人に帰依して草庵を作り、弟子日源がここに聖人自刻の像
を祀って長耀山感応寺と称したのが開創と伝えられています。その後、室町時代に目黒碑文谷の法華寺(今の天台宗円融寺)から日耀が転住、中興してから
永らく栄えましたが、元禄11年(1698)、法華信者以外からは布施を受けず、また他宗派の僧には布施を施さないという不受不施派に属していたため江戸幕府
より邪宗として改宗を命ぜられ、これに抗した住職日遼は八丈島へ遠島になりました。そして、聖人像はじめ日蓮宗関係の品々もそれぞれ近隣の瑞輪寺等の
同宗寺院に移管され、当山は名実ともに廃絶の危機に瀕したのです。

しかし、東叡山輪王寺の住職である公弁法親王が、由緒ある当山が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として存続することを幕府に説いて認められました。  

(了俒寺~天王寺 : 東京都台東区 2011.03.29 撮影)


東京さわやか散歩 壱の11 ②

2019年09月18日 02時17分02秒 | 写真

谷中霊園から根津神社 

岡埜栄泉(おかの えいせん)は、東京都台東区に本社を持ち、同区上野駅前にある「岡埜栄泉総本家」を運営する日本の和菓子製造メーカーである。
慶應
から明治初期に現在の台東区浅草・駒形にあった「岡埜栄泉」が親戚筋の5軒にのれん分けられ、その中で最も古い伝統と歴史を誇るのが、岡埜栄泉
総本家であり、岡野ちよによって1873年創業。ちなみにほかののれん分けされた店舗も、偶然「岡埜」または「岡野」(いずれも「おかの」)の苗字だったが、
総本家以外の店舗は早々に閉店した。和菓子、主に大福や・最中、羊羹などの製造・販売で知られている。中でも豆大福は人気商品の一つとされている。

明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。旧谷中七福神のひとつです。
慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も
残り、当時の激しさを今に伝えています。

日蓮宗のお寺です。太田道灌の孫の太田資高が大永6年(1526)に江戸城内平河口に建立し、江戸時代に神田、谷中を経て、宝永6年(1709)に現在の地
に移転しました。
 景勝の地であったことから「月見寺」とも呼ばれており、花見寺(青雲寺)、雪見寺(浄光寺)などの寺院もあり、風流を好む江戸の文人墨客
が集まったことで知られます。
20世日桓(号一瓢)が小林一茶と親交があり、境内には、一茶の句碑のほか種田山頭火の「ほっと月がある 東京に来てゐる」の句碑があります。
また、幕末から明治時代に活躍した永井尚志や儒学者の市河寛斎・米庵親子の墓などもあります。

桜の名所としても親しまれている東京都の公営霊園。中央園路は通称「さくら通り」ともよばれ園路を覆う桜の枝に花が咲くと、まるで桜のトンネルのようになり、
桜の名所スポットとしても有名です。
面積は約10万平方メートル、およそ7,000基の墓があり、各界の多くの著名人が眠っています。
園内は明るく、お参りに適した静かな環境です。  

(岡埜栄泉~谷中霊園 : 東京都荒川区 2011.03.29 撮影)


東京さわやか散歩 壱の11 ①

2019年09月17日 01時38分41秒 | 写真

谷中霊園から根津神社

近隣の人々から「おすわさま」として親しまれる諏方神社は、JR山手線・京浜東北線の西日暮里駅と日暮里駅の間の、線路を見下ろす眺めのいい高台
(諏訪台)に鎮座する神社だ。祭神は建御名方命。全国におよそ25,000社あるといわれる諏訪神社(諏訪大社を本社とする諏訪信仰の神社)の一つで、
創建は1202年(元久2年)、鎌倉時代の武将・豊島佐衛門尉経泰によって諏訪大社より勧請されたのがその始まりと伝えられている。
文安年間(1444年~1449年)に太田道灌が神領を寄進、さらに江戸時代には徳川三代将軍家光から社領5石の朱印を与えられている。現在の場所に
社殿が造営されたのは1635年(寬永12年)。以降、かつて新堀村と呼ばれた今の日暮里周辺から、谷中生姜で知られる谷中周辺にかけての総鎮守とし
て人々の崇敬を受け、現在も地域の人々に広く信仰されている。例年8月の末に行われる例大祭では、境内及び周辺道路に露店が立ち並び、多くの
人々で賑わう。

養福寺は真言宗豊山派の寺院。谷中、根津、千駄木のいわゆる谷根千といわれる下町情緒あふれる谷中日暮里地区にあり、交通も至便。
山手線・京浜東北線・常磐線・京成線「日暮里駅」北口より徒歩5分の立地。四季折々の季節の花々や緑に彩られた境内には、壮大な仁王門や鐘楼堂がある。

養福寺は元和6年(1620)法印乗蓮によって開かれた。中興開山は木食義高上人。初めは田端東覚寺末だったが、明治43年には離末して田端興楽寺に加末した。
養福寺には、本堂の他に仁王門、鐘楼堂、観音堂、地蔵堂などがあったが、第2次世界大戦の戦火により仁王門のみを残してそのすべてを焼失してしまった。

現在の本堂は昭和40年、客殿は昭和45年、鐘楼堂は昭和48年にそれぞれ再建されたもの。焼失を免れた仁王門は宝永年間の建立で、祀られている仁王
像は胎内奉納銘札により宝永5年(1701)の造立と確認され、種々の調査の末、仁王門は昭和63年に荒川区の指定文化財に認定された。

今回は、11番目の《谷中霊園から根津神社》を歩いてきました。JR山手線:西日暮里駅を下車、起点として歩きはじめます。
谷中界隈は、墓と寺そして多くの坂道があり、趣のあるデジカメ散歩が楽しめます。  

(諏方神社~養福寺 : 東京都荒川区 2011.03.29 撮影)


東京さわやか散歩 壱の10 ⑦

2019年09月16日 05時20分08秒 | 写真

飛鳥山公園から名主の滝公園

        

        

        

江戸時代の安政年間(1854~1860)に王子村の名主「畑野孫八」が自邸に開いたのが始まりで、“名主の滝”の名前の由来もここから来ました。庭園として
整備されたのは、明治の中頃で、垣内徳三郎という人の所有になってからでした。昭和13年には、株式会社精養軒が買収し、食堂やプールなどが作られ
公開され続けてきましたが、昭和20年4月の空襲により焼失し、ようやく東京都によって再公開されるようになったのは昭和35年11月でした。
武蔵野台地の突端である王子近辺には滝が多く、かつて「王子七滝」と呼ばれる7つの滝がありました。このうち「名主の滝」だけが現存する唯一の滝となっ
ています。「名主の滝」は、都内でも有数の8メートルの落差を有する男滝(おだき)を中心とする女滝(めだき)・独鈷の滝(どっこのたき)・湧玉の滝(ゆうぎょ
くのたき)の4つの滝からなります。
名主の滝公園は、これらの滝とケヤキ・エノキ・シイ、そして100本余りのヤマモミジが植えられた斜面を巧みに利用して自然の風景を取り入れた回遊式庭園
です。

 

(名主の滝公園  : 東京都北区 2011.03.06 撮影)