のぶさんの花便り

デジカメと花に夢中な《のぶさん》ですが
これからは、風景やスナップにチャレンジ

東京さわやか散歩 弐の11 ⑤

2020年06月30日 03時25分56秒 | 写真

南千住から北千住 


かつて、多くの旅人が行き交う宿場町として発展してきた北千住。この街には、その旧街道に沿っていくつもの商店街が延びている。
「北千住」駅西口を出て、最初に見えてくるのが「きたろーど1010」。その少し南側に位置するのが「千住本町商店街」で昔ながらの商店街が
細く長く続いている。

商店街では「くらしに役立つ本町センター」をモットーに、おもてなしの心を大切にした商店街づくりを心がけつつ路地裏文化を育てている。
利用者は、近隣住民や「千住の宿」の史跡巡りの観光客だ。この通りでは、7月の「足立の花火」と連動したイベントなども企画され、当日は大
変賑わう。また、防犯カメラも設置されており、街の安心安全にも取り組んでいる。

 

        

 
この縁日は閻魔大王の御開帳に合わせて催されるもので、赤門寺の正式名称は「三宮神山大鷲院勝専寺」というそうです。
山門が赤いことから赤門寺と呼ばれています。

勝専寺の説明文をざっくりと解説すると京都知恩院を本山とするお寺で、寺伝では文応元年(1260年)に勝蓮社専阿上人を開山、新井正
勝を開基(寺院を創立した僧)とし創建されました。

江戸時代はここに徳川家の御殿が造営され秀忠、家光、家綱の利用もあり、さらには日光門主の本陣(平たくは大名等の宿舎)御用(利用
された)を勤めた等、千住宿の拠点となっていました。

なお勝専寺にある木造千手観音像は千住の地名の起源のひとつとされており、開基新井正勝が荒川から引き上げたものとされています。

  
アマリリスは花径10~20cmもある鮮やかな色の花を、すっと立ち上がる太い茎に咲かせます。1株でもインパクトがあり、鉢植えや花壇、ある
いは切り花として利用されています。

球根が多く出回るのは2月から3月で、鉢植えで育てれば1か月半~2か月後に花が咲きます。また、オランダ産の鉢植え株が秋に販売され
ることもあり、これを室内で育てれば、2か月後には花を楽しむことができます。

 
場所は旧日光街道と北千住駅西口駅前通の交差点より北へ約200mの旧日光街道沿いです。旧日光街道に面していることからサンロード
といい、また千住宿本陣があった事から宿場町通りといいます。本陣があった事からもわかるように旧千住宿の中心でした。
商店会が結成されたのは昭和25年5月で、
「五の日会商店会」といいました。
昭和52年現在の「北千住サンロード商店街振興組合」となり法人化しました。昭和63年カラー舗装・街路灯・アーチの立替を行いまた平成
25年度に街路灯のLED化に伴う立替を行いました。
毎年街道まつりを実施しております。これと夏冬のプレゼントセールが通年行事です。

 
吉田絵馬屋は現在の吉田晁子さんで8代目にあたります。千住宿内や近郊農村の人びとに絵馬や地口行灯に貼る絵紙、ビラの製作を生業
としてきました。吉田家の絵馬は経木に絵を描き、屋根を付けた小絵馬を得意としています。眼病平癒を願う「薬師(向かい目)」や学業成就
を願う「天神」など図柄は40種類余りあります。地口絵紙は江戸時代に始まった、語呂合わせやダジャレを絵とともに描いたものです。
地口絵紙は購入者が別に用意した直方体に組んだ枠に貼り付けて地口行灯に仕上げられ、祭礼の時に神社や参道などに飾られました。
製作者吉田晁子さんは、昭和57年(1982)に足立区登録無形民俗文化財保持者となり、昭和60年(1985)には吉田家絵馬資料が登録有形文
化財となりました。

 
北千住駅の北側、サンロード商店街の外れにある。こちらの建物は木造二階建てで、安政2年(1855年)に建てられ、その後改修されたもの
ほぼ建築当初の姿を保っているとのことである。残念ながら内部は見れなかったが、細格子造りなどが素敵でありまた綺麗に保存されている
ことに感心した。お勧めの点は、貴重な江戸時代の建物を実際に見ることができること、入口が地面より下がった位置にあることや格子の窓が
あるなど当時の建築の特徴を理解できること、江戸時代横山家の人々が地漉き紙問屋を営んでいたことを楽しく想像できること、建物横に詳し
い図面入りの説明板などがあり地元の人々が今もこの住宅を大切に思っていることが理解できること、駅から徒歩で行けることである。

(千住ほんちょう商店街~北千住サンロード商店街  : 東京都足立区 2012.05.26 撮影)  


東京さわやか散歩 弐の11 ④

2020年06月29日 03時34分58秒 | 写真

南千住から北千住

 
浄土宗寺院の源長寺は、稲荷山勝林院と号します。源長寺は、慶長三3年(1598)当地を開拓した石出掃部亮吉胤が、郡代伊奈備前守忠
次を勧請開基とし、圓誉不残(元和3年寂)を開山に迎えて慶長15年(1610)創建したといいます。
境内の地蔵尊は千住七福神の寿老人です。同院寺号を持ち、関東郡代伊奈備前守忠次を開基とする赤山源長寺が川口市にあります。

 
東京芸術センターは、公民のパートナーシップにより、『あだち産業芸術プラザ』として、「あだち産業センター」と一体的に整備された民間
施設です。新しい産業と芸術を創造する拠点となります。
 最上階のホール「天空劇場」と、9階の会議室および20階の和室は、足立区内在
住・在勤の方々や、区内事業所の経営者の方々に「区民利用料金」でご利用いただけます。

 
1314年(正和3年)、行覚によって開山された。江戸幕府3代将軍徳川家光より、空海作の観音菩薩像を賜り、寺紋に「立ち葵」を用いること
が認められた。当寺の本尊となっていた、この観音菩薩像は東京大空襲で焼失してしまった。現在の本尊の観音菩薩像は、戦後に新たに
製作されたものである。
境内には、薬師堂があり薬師如来が祀られている。戦前までこの薬師の縁日は大盛況で、森鷗外の妹の小金井喜
美子は『鴎外の思ひ出』の中で、その賑わいを描写している[1]。 

 
1332年(元弘2年)、秀天によって開山された。慈眼寺の護摩堂に安置されていた覚鑁作の不動明王像を本尊とする寺院として分離独立し
たものという。
境内には、大きな石塔がある。これは「芸州供養塔」といい、戊辰戦争時に広島藩(芸州藩)の軍勢の輸送業務に従事して戦
死した人たちを供養するために建てられたものである。
た当寺は、いわゆる「投げ込み寺」であり、岡場所で亡くなった遊女はここに葬られたという。

(源長寺~不動院  : 東京都足立区 2012.05.26 撮影)  


東京さわやか散歩 弐の11 ③

2020年06月28日 02時58分56秒 | 写真

南千住から北千住 

 
千住大橋は、隅田川の東京都区部にかかる橋で、国道4号を通す。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目。
旧橋・新橋の二橋で構成されており、旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行する。 -Wikipedia

 
松尾芭蕉の「奥の細道」に、「千住といふところで船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
≪行く春や鳥啼魚の目は泪≫是を矢立の初めとして、行く道なおすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげみゆるまではと、見送なるべ
し」と記されており、是を記念して奥の細道旅立ちの地として、矢立初めの句碑が建立されました。

        

 
江戸四宿と呼ばれる地のひとつ千住宿。四宿の中でも、江戸末期の人口は1万人程と、最大規模であったらしい。
現在該当する、厳密な範囲は良く分からないが、「千住」と言うからには、「北千住」と「南千住」のはずで、当然、まずは、「北千住編」からになる。
メインルートとなるのは、旧日光街道だ。この地がメジャーになったのは、街道と宿場が整備されていった、
やはり、江戸時代以降と言うことになるんだろう。松尾芭蕉も、ここ千住から奥の細道に旅立って行った事になっている。
江戸から東北地方への旅の出発点というイメージだ。

 
「千住仲町商店街」は夜遅くまでやっているスーパーや個性的な路面店が並ぶ、近隣住民のための商店街だ。
距離にして400メートルほどだろうか。ここを抜けると、「東京都中央卸売市場足立市場」だ。そのため、ここからは鮮魚などの問屋さんがズラリ
と並ぶこととなる。  

(千住大橋~千住仲町商店街  : 東京都足立区 2012.05.26 撮影)  


東京さわやか散歩 弐の11 ②

2020年06月27日 02時50分09秒 | 写真

南千住から北千住

 
区内で最も広い地域(町屋地区・南千住地区・三河島地区)の61カ町に氏子を持つ神社です。この素盞雄神社のある千住は、松尾芭蕉が
「奥の細道」の旅へ出発した地点として知られ、「奥の細道」には「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻の
ちまたに離別の泪をそゝぐ」と記されています。 

この時芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句碑(松尾芭蕉の碑)が境内にあります。
また、3年に一度の大祭で2日間かけて氏子域を渡御する二天棒の千貫神輿は、左右に振りながら担ぐ神輿振り姿が圧巻です。

 
素盞雄神社の境内には、「子育て銀杏」と呼ばれる大イチョウ(幹の周囲約3.3m、高さ約30m)があります。
このイチョウは、昔、母乳が出ない女性がこの木の皮を煎じて飲んだところ、乳の出が良くなったという言い伝えのある霊木です。
現在もイチョウの周りには子育て祈願の絵馬がびっしりと掛けられ、信仰を集めています。

          
もともと回向院にあった「橋本左内の墓旧套堂」が荒川区に寄贈され、平成21年3月に荒川ふるさと文化館前に復元されました。 
套堂(鞘堂と同意)とは、本体の建物などを保護するために、それを覆うように建てられるものです。この旧套堂は、昭和8年(1933)に橋本
左内の墓を保護するために造られたもので、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った、近代仏教建築の例と言われています。
幕末の安政の大獄で刑死した橋本左内(1834から1859)を追慕し、遺徳を広く発揚することを目的として明治35年に設立された景岳会に
よって建てられました。最近ではコンクリート造の仏教建築は珍しくありませんが、その最初期の現存例として、大変貴重なものです。   


荒川ふるさと文化館は平成10年5月1日に、郷土の歴史・文化を楽しみながら学び、探求する場として開館しました。
荒川区の通史を学ぶ展示のほか、荒川区の伝統工芸技術に触れることができるあらかわ伝統工芸ギャラリーを設置しています。
また、南千住図書館と併設しています。

 
千住大橋のほど近く、江戸時代に武家屋敷があったその跡地にある公園です。桜やけやきなどの樹木も多く、木陰もあります。
公園の中央にどっしりとした大きな岩から水が流れ落ちる大滝があり、流れ落ちた水は園内をぐるりと巡るせせらぎになっています。
所々に橋がかけられており、せせらぎに沿ってお散歩するだけでも、小さい子はワクワクしそう。水辺で遊ぶ時は特に、お子さんから目を離
さないように気をつけてください。

アスレチック遊具のように遊べる複合遊具やローラーすべり台、恐竜やカバのカラフルな遊具があります。  

(素盞雄神社~天王公園  : 東京都荒川区 2012.05.26 撮影)   


東京さわやか散歩 弐の11 ①

2020年06月26日 04時41分47秒 | 写真

南千住から北千住

        

 
東京都荒川区南千住五丁目にある寺で、過去は両国回向院の別院。現在は独立して正称は豊国山回向院。小塚原回向院とも。 
1651年(慶安4年)に新設された小塚原(こづかっぱら、こづかはら)刑場での刑死者を供養するため、1667年(寛文7年)に本所回向院の
住職弟誉義観(ていよ・ぎかん)が常行堂を創建したことに始まる。 

この寺には、安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら、また「毒婦」と云われた高橋お伝などの歴史上の有名人物が
葬られている。
1771年(明和8年)に蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖(腑分け/ふわけ)に立ち合ったことを記念し
た観臓記念碑(建立は1922年)がある。 

戦後の代表的な誘拐事件の通称「吉展ちゃん事件」の犠牲者村越吉展(当時4歳)の供養のために建立された「吉展地蔵尊」がこの寺の
入り口にある。
この寺は常磐線沿線にあり、鉄道敷設の際に南北に分断される。その後分断された南側部分が独立して延命寺となる。 -Wikipedia

 
江戸時代、この周辺には、小塚原刑場があり、品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸の刑場で、明治時代始めに廃止されるまで、磔・斬首などが執
行されていました。刑場の入口にあった「首切地蔵」は、4メートル近くもあります。刑死者の菩提を弔うために、寛保元年(1741)に建てられま
した。この地蔵は、無縁となった人々の霊を静かに見守っています。-Wikipedia 

        

 
真養寺は、東京都荒川区南千住5丁目44-4にある日蓮宗の寺院。山号は運千山。旧本山は身延久遠寺、通師法縁。
寛文11年に建立された吉田勘兵衞の先祖供養塔がある。 -Wikipedia

 
西光寺は、真覚山菩提院といい、芝増上寺の末寺で、賢誉長公(天文8年〔1539〕没)が開いた寺である。
本尊の阿弥陀如来は、恵心僧都源信の作と伝える四尺ばかり(約1.2メートル)の坐像である。病のある者が、笹の枝にさした白団子を供え
て祈願すれば霊願があるといわれ、「笹の団子の如来」とよばれている。

境内に、貞和5年(1349)に鎮座したという金子福寿稲荷(金福稲荷)があったが、昭和53年(1978)に西光寺の東方に移転した。  

(回向院~西光寺  : 東京都荒川区 2012.05.26 撮影)   


東京さわやか散歩 弐の10 ⑦

2020年06月24日 02時17分56秒 | 写真

荒川自然公園からあらかわ遊園

 

荒川自然公園からあらかわ遊園

        

 
「都電おもいで広場」は、東京都荒川区にある展示広場です。こちらでは、懐かしい停留場をイメージしたスペースに貴重な都電の旧型車
両2両を展示しています。列車の中に入ることもできるので、都電に乗ったことのない子供たちは大喜びできると思います。
さらに入場は無料なので近くに行ったら気軽によることができます。都電全盛期を彩った往年の名車に会いにいくのはいかがでしょうか。
ご年配の方には懐かしく””子供たちには新しいスポット”です。ぜひ一度行ってみてください。

 (都電荒川線  : 東京都荒川区 2012.05.20 撮影) 


東京さわやか散歩 弐の10 ⑥

2020年06月23日 06時37分50秒 | 写真

荒川自然公園からあらかわ遊園

        

 
東京23区内唯一の公営遊園地である。1922 (大正11)年開園の老舗遊園地。面積約3万平米 (m2)。荒川区北部の隅田川沿いに所在する。 
過去数度の改装を経て現在の構成は1991年以降のもの。低年齢層の子供が楽しく遊べるよう特化しており、アトラクションは定番ものが一
通り揃っているが、小学校低学年層に合わせたレベルで激しい動作のアトラクションはない。 

100円-200円程度という入園料やアトラクション利用料の安さが特徴で、財布を気にせず気軽に利用できる遊園地である。
アトラクション以上に小動物園やピクニック用の広場、遊具施設、水遊び場などが充実しており、園内の装飾やレイアウトも清楚で、全体的に
大型の公園に近い趣きがあり、落ち着いた雰囲気を持つ。2021年のリニューアルオープン後は現在よりもさらに大型化され、夜はLEDによる
演出がなされる予定である。これにより、さらなる若者観光客の集客が期待でき、新たな観光スポットとなることが期待される。

 (あらかわ遊園  : 東京都荒川区 2012.05.20 撮影) 


東京さわやか散歩 弐の10 ⑤

2020年06月22日 02時14分30秒 | 写真

荒川自然公園からあらかわ遊園

 
創建年代は不明である。ただ室町時代末期から江戸時代初期に開山したものと推測される。 
江戸時代後期より、上尾久村の初等教育機関として寺子屋「江川堂」が置かれ、明治時代も私立の田辺小学校が置かれていた。 
寺には中世の板碑が数点残されている。 

 
荒川区は西尾久の住宅街、隅田川のほとりの寶蔵院と尾久八幡中学校の間ぐらいにある稲荷神社。創建、由緒、ご祭神など不明。
大明神を称していることと、屋根の造りから行って神道(伏見)系であろうか。

         
新義真言宗の寶蔵院は金亀山寶蔵院地正寺と号します。寛永10年(1633)に没したちょう賢が開山となり創建したといいます。
荒川辺八十八ヶ所霊場13番札所、豊島八十八ヶ所霊場68番札所です。

 
架橋前は付近に「小台の渡し(尾久の渡しとも称された)」があり、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。
西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。小台橋が最初に架橋されたのは昭和8年(1933年)で、
関東大震災後の都市復興事業により架橋された。いわゆる「震災復興橋梁」には数えられないが、復興都市計画に基づいて架橋されたもの
である。その後老朽化によって、平成4年(1992年)に現在の橋に架け替えられた。 

 
尾久橋(おぐばし)は、隅田川にかかる橋、都市計画道路放射11号尾久橋通り(東京都道58号台東川口線)を通す。
北岸は足立区小台1丁目、南岸は荒川区東尾久8丁目。橋名は荒川区の地名にちなむ。
隅田川に架かる橋であるが、北岸部で荒川に架か
る扇大橋と連続するような形になっている。

 (華蔵院~小台橋  : 東京都荒川区 2012.05.20 撮影) 


東京さわやか散歩 弐の10 ④

2020年06月21日 05時41分09秒 | 写真

荒川自然公園からあらかわ遊園

 
尾久の原公園は、旧旭電化工業(現:ADEKA)尾久工場跡地に整備された自然を活かした公園です。
園内には、区民の憩いの場として芝生広場、原っぱ、トンボ池や、荒川区の木である桜(枝垂れ桜)が約170本植栽されて、近隣で有名な春
の花見スポットとなっています。
夏になるとジャブジャブ池が子供達に大人気で、一日中賑わっています。
秋はトンボや昆虫を追い、冬にはトンボ池に鴨、コサギ、アオサギ等やカワセミ、カワウ、カモメ等の飛来があり、都内でまだ残っている自然を
満喫できる公園の一つです。

 
正確な創建の年は不詳だが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃にさかのぼると考えられ、
神社に残る棟札から至徳2年(1385年)に社殿が建てられたことが確認できる。古くから尾久の人々に信仰されてきた。  

 (尾久の原公園~尾久八幡神社  : 東京都荒川区 2012.05.20 撮影) 


東京さわやか散歩 弐の10 ③

2020年06月20日 03時31分39秒 | 写真

荒川自然公園からあらかわ遊園

 
三河島水再生センターは、日本で最初の近代的な水再生センターです。敷地内は緑が豊かで、春には旧三河島汚水処分場喞筒場(ポン
プじょう)施設の赤レンガと桜が美しい景観を作り出します。処理区域は、荒川・台東区の全部、文京・豊島区の大部分、千代田・新宿・北区
の一部で、面積は3,936ヘクタールです。

        

         
日本で唯一の「ぬりえ」専門の美術館です。昭和20から30年代に、大きな瞳と優しい表情が特徴のぽっちゃりした女の子の絵で人気を博し
た「きいちのぬりえ」の画家・蔦谷喜一氏の親類により、平成14年(2002)に開館しました。

館内には「きいちのぬりえ」の他、戦前や海外のぬり絵なども展示されています。また、年2回、企画展を開催しています。

 (荒川自然公園~ぬり絵美術館  : 東京都荒川区 2012.05.20 撮影)  


東京さわやか散歩 弐の10 ②

2020年06月19日 05時33分35秒 | 写真

荒川自然公園からあらかわ遊園

 
この福祉の鐘は荒川公園の北側の道路わきに設置されています。近くには児童公園や東屋があり、子どもたちのにぎやかな声と区民の碁
を打つ姿が見られ、憩いの場となっています。

 
荒川自然公園は、東京都下水道局三河島水再生センターの上に人工地盤を造って設置された公園です。このような下水処理施設の上に
造成した公園は、新宿区の落合中央公園に次いで都内で2番目の公園です。1982年には「新東京百景」に選定され、東京都を代表する景
勝地の一つになっています。
この公園の特色は3期に分けた工事に伴い次のように形成されています。
1974年にテニスコート・野球場の運動施設を中心に児童公園・プール・芝生広場のある中央部分が開園しました。
1979年には公園南側にアスレチック広場・水辺広場・野草園・昆虫観察園のあるエリアが開園しました。その際に、それまでの「三河島処理
場公苑」という名前から区民公募により「荒川自然公園」という名称に変更いたしました。
その後1996年に公園北側に交通園や芝生広場が完成し、現在に至ります


 (荒川公園~荒川自然公園 : 東京都荒川区 2012.05.20 撮影)


東京さわやか散歩 弐の10 ①

2020年06月18日 00時39分48秒 | 写真

荒川自然公園からあらかわ遊園

 
都電荒川線は東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋~早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、
沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポット
が満載です。

  
区役所の正面玄関の東南に広がる公園です。区役所公園とも呼ばれます。 春にはソメイヨシノやシダレザクラが咲き誇る人気のお花見ス
ポットになっています。夏は釣り池や水遊びが楽しめる“せせらぎ”、秋は紅葉、四季折々の顔を見せる憩いの場です。

また、中央に位置する噴水の周りでは、ベンチに腰掛けてお弁当を拡げたり、おしゃべりを楽しむ人々が集う、みんなの憩いの場所になっ
ています。すべり台やブランコなどの遊具のあるエリアは、小さな子もいろいろな遊び方ができるので毎日のお散歩にぴったりです。

 

 (都電荒川線:三ノ輪橋停留所~荒川公園 : 東京都荒川区 2012.05.20 撮影)


東京さわやか散歩 弐の9 ⑦

2020年06月17日 01時02分21秒 | 写真

新御徒町から合羽橋道具街

 
浄土宗寺院の榧寺は、天正年間(1575年ごろ)から草庵として創始、慶長4年(1599)に増上寺中興開山の観智国師法名貞蓮社源誉上人
が池中山盈満院正覚寺として開山したといいます。観智国師は、榧寺以外にも、東小松川源法寺、行徳源心寺などを開山した高僧です。
境内に鬱蒼と茂っていた榧の木が、寺宝を火災から護っていたことから、江戸時代から榧寺と称されていました。
昭和27年に末寺の山谷町宗念寺と合併、榧寺と改称したといいます。

 
蔵前神社は、台東区蔵前にある神社です。蔵前神社は、徳川綱吉公が男山の石清水八幡宮を勧請して、元禄6年(1694)石清水八幡宮と
称して創建しました。明治維新後の明治5年村社に、翌年郷社に列格しています。
昭和22年に隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合祀、蔵前神社と改称したといいます。

         
蔵前橋西詰めの下流側に石碑と若木が植えられています。初代「首尾の松」は、江戸時代安永年間(1772~80)風災で倒れ、その後も枯れ
たり焼失し、昭和37年(1962)これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者と共にこの橋際に碑を建設しました。
現在の松は七代目といわれます。

         
浄土宗寺院の西福寺は、東光山松平良雲院と号します。西福寺は、貞阿が西福寺と号して駿河に創建、慶長3年(1598)駿河台下に移り
一寺となしたといいます。江戸時代には千駄ヶ谷に100石の御朱印を受けていた他、別院真行院、塔頭六ヵ院(源祟院、法林寺、林照院、
長應院、存心院、智光院)を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めていました。

 
梅乃湯は東京都台東区蔵前4丁目、地下鉄大江戸線蔵前駅上の春日通りから南へ延びる道路がT字路で突き当たる真正面に、どーんと
ある。神社仏閣を思わせる切妻屋根から突き出す千鳥破風の梁は鮮やかな朱塗りで、そこには濃い緑の松の木をバックに舞う白鶴の透か
し彫りが見事に施されている。昔のままの姿を今に残し、前の道路も広い絶好の空間は、NHK朝の連続テレビ小説などテレビのロケに度々
使われ、絵画や写真マニアの題材にもなってきた。

 
鳥越神社は台東区鳥越に鎮座する古社。台東区の南東部の広範囲を氏地に持つ。
鳥越神社の神輿は「千貫神輿」と称され、都内で最も重い神輿。6月の鳥越祭では、その千貫神輿を氏子各町が引き継ぎながら氏地を練り
歩く。
夕刻になると、神輿や町内の提灯に火が灯り、21時には宮入へ。その幻想的かつ荘厳な様は、見る人の心を震わせるという。

 
おかず横丁。とても平和なネーミングのこの横丁は、蔵前、新御徒町、浅草橋といった駅のいずれからも微妙に遠く、地元の人以外にはあ
まりやってこないロケーション。昔ながらの商店街然とした軒先の風情はもちろん、知られざるナイスお惣菜もちょこちょこ見つかるのですが、
これがおいしいのです。

 


東京さわやか散歩 弐の9 ⑥

2020年06月16日 03時37分06秒 | 写真

新御徒町から合羽橋道具街

 
浄土宗寺院の聖徳寺は、用明山四天王院と号します。聖徳寺の創建年代は不詳ですが、聖実清公上人が創建したと伝えられます。
享徳2年(1453)に加誉上人良祐和尚が浄土宗寺院として中興、徳川家康の関東入国翌年に坪根沢から平河へ、後大船、馬喰町への移転
を経て、明暦3年の大火後当地へ移転しました。当寺は玉川用水を開削した玉川兄弟(玉川庄右衛門および清右衛門)の墓所です。

 
浄土真宗東本願寺派本山の東本願寺は、台東区西浅草にある寺院で、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺と称します。
徳川家康の命で教如が創建した江戸神田道場光瑞寺に始まり、明暦の大火後現在地に移りました。広い寺域と多くの堂塔を持ち、
正徳元年(1711)以降朝鮮通信使の宿舎となっていました。1988年に結成された浄土真宗東本願寺派の本山で、かつては東京本願寺と
呼ばれていました。 

(榧寺~おかず横丁  : 東京都台東区 2012.05.11 撮影)