のぶさんの花便り

デジカメと花に夢中な《のぶさん》ですが
これからは、風景やスナップにチャレンジ

東京さわやか散歩 参の6 ⑧

2021年01月30日 07時40分22秒 | 写真

品川インターシティから旧東海道

 
海雲寺は、鎌倉時代中期の建長3年(1251)のに海晏寺(臨済宗)の一塔頭として開かれました。慶長元年(1596)に曹洞宗に改められ独立。
本堂には本尊十一面観音像を安置しています。また、鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っています。
荒神堂に祀られている千躰荒神は江戸時代よりかまどの神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されています。
毎年3月と11月の27.28日に行われる千躰荒神祭では、荒神堂の中で一日中護摩が炊かれ、お札が授与されます。この日は、境内から青物
横丁駅まで、露店が軒を連ね大勢の参拝者で賑わいます。お釜の形をした「釜おこし」が名物です。

          

 
荒神堂内には信徒の奉納した27面の扁額があり、文久元年(1861)奉納の雌雄二鶏図の絵額は、板ガラスの裏から描いた絵を表からみる
「ガラス絵」で、区内唯一の貴重なものです。

 
荒神堂の拝殿には上がることができ、天井絵と絵馬群を拝観することができる。荒神の神使は鶏であるため鶏の図案が多い。
また拝殿の格天井には、火の安全を祈願して火消しが奉納した纏(まとい)の図案が施されている。


(海雲寺~京急鮫洲駅  : 東京都品川区 2013.05.09 撮影)


東京さわやか散歩 参の6 ⑦

2021年01月29日 05時01分27秒 | 写真

品川インターシティから旧東海道

 
恭敬山長徳寺は、室町時代中期の寛正4年(1463)創建と伝わる時宗のお寺です。境内のイチョウは推定樹齢4~500年、樹高12メートル、
幹の周囲3.8メートルの巨木。『紙本着色六道絵』(品川区指定文化財)、『長徳寺文書』(品川区指定文化財)を所蔵しています。
本堂の左にある閻魔堂には、像高88cmの木造閻魔王坐像が祀られています。江戸時代より「南品川のおえんまさま」として信仰を集めました。
陰暦正月と7月16日は、地獄の釜のふたが開く日といわれ、参詣する人で賑わったといわれています。

 
顕本法華宗・鳳凰山天妙国寺は、弘安8年(1285年)、日蓮大聖人の直弟子である天目上人により創建されました。
各時代、地域の有力者に保護され、15世紀半ばには品川湊の豪商だった鈴木道胤親子が17年の歳月をかけて七堂伽藍を建設。天正18年
(1590)、徳川家康が江戸に入る際に宿泊し、翌年10石の寺領を受けました。
寺所蔵の『御三代成之覚』には、初代徳川家康が1回、二代徳川秀忠が2回、三代徳川家光が44回、将軍家の宿泊が記録されています。

          

 
海照山普門院 品川寺は、真言宗醍醐派の別格本山で大同年間(806~10)開創と伝えられる品川区で最も古いお寺です。
本尊は水月観音(非公開)。
東海七福神の毘沙門天を祀っています。
入口にある大きな銅造地蔵菩薩坐像は「江戸六地蔵」の一つで神田の鋳物師 太田駿河守正義の作。
東京都有形文化財に指定されています。

鐘楼にある大梵鐘は「洋行帰りの鐘」と呼ばれています。梵鐘は慶応3年(1867)パリ万国博覧会出品後に行方不明となりましたが、スイス・ジ
ュネーヴで発見
され、60余年を経て昭和5年(1930)に里帰りを果たしました。 

(長徳寺~品川寺 : 東京都品川区 2013.05.09 撮影)


東京さわやか散歩 参の6 ⑥

2021年01月28日 07時13分43秒 | 写真

品川インターシティから旧東海道

          

 
荏原神社の創立は和銅2年(709)、古くは貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と呼ばれていました。
現在の社殿は弘化元年(1844年)に完成したもの。祈雨と止雨の守護神とされる高龗神(たかおかみのかみ)をはじめ、天照大御神や須佐
之男命などを祀っており、品川の龍神さまとして多くの信仰を集めてきました。神殿に掲げる荏原神社の扁額は内大臣三条実美公、貴布禰
大明神の扁額は徳川譜代大名源昌高のお染筆です。東海七福神の恵比寿神も祀っています。

 
寄木神社は、東京都品川区の、京急本線の新馬場駅より東へ徒歩6分の地にある神社。旧東海道品川宿にある神社の一つ。
景行天皇の代、日本武尊が東征中(日本書紀の記述を換算すると西暦110年頃)、走水の海(現在の横須賀)を渡る際に海が荒れたため、
妻の弟橘姫が人身御供として入水して海神をなだめ、対岸の木更津にたどり着く事が出来た。
その後、乗船の木片が漂着したのでそれを祀って創建したと伝える。また異説として、弟橘姫の衣が漂着したのでそれを祀ったとも伝える
江戸時代、猟師町が現在の南品川3丁目より洲崎に移転した際に、現在地に遷座した。幕末に社殿が焼失したので、現在の社殿は明治初
期に再建されたもので、伊豆長八の鏝絵(漆喰彫刻)が残されている。

 
常行寺は、東京都品川区の、京急本線の新馬場駅より南へ徒歩8分の地にある、天台宗の寺院。旧東海道品川宿にある。
嘉祥元年(848年)、慈覚大師円仁により東大井に創建。後に衰微したが、大永7年(1527年)再興し、承応2年(1653年)に現在地に移転。
境内は整っており、本堂は江戸時代のもの。煉瓦造の地蔵堂もある。目黒不動尊の本尊は元は常行寺の護摩堂の本尊だったとも伝える。

(荏原神社~常行寺 : 東京都品川区 2013.05.09 撮影)


東京さわやか散歩 参の6 ⑤

2021年01月27日 04時30分24秒 | 写真

品川インターシティから旧東海道

 
清光院は、東京都品川区の、京急本線の新馬場駅より南西へ徒歩6分の地にある、臨済宗大徳寺派の寺院。旧東海道品川宿にある。
江戸初期の慶安3年(1650年)創建。明治維新で東海寺が廃寺となるまではその子院であった(清光院の近くにある現在の東海寺は、東海
寺の別の子院がその寺号を継承したもの)。
中津藩主奥平家と高槻藩主永井家の立派な墓所がある。なお、かっては天童藩主織田家と宇
土藩主細川家の立派な墓所もあったが、現在は整理縮小されている。

 
曹洞宗寺院の天龍寺は、瑞雲山と号します。天龍寺は、越前宰相忠昌の母清涼院殿(寛永17年1640年逝去)が開基となり、一庭氷見和尚
が天正9年(1582)当地に創建したといいます。一庭氷見和尚はしばしば徳川家康にに呼ばれ、江戸城登城に不便だったことから、下谷に
功徳山天龍寺を建立、そのため当寺は一時荒廃したものの、総寧寺哲尊が江戸宿寺として利用、再興したといいます

 
1574年に日栄上人が創建した歴史ある日蓮宗のお寺です。
1603年に徳川家康が1000坪の寺領を寄進し本堂が建立されたそうで、本堂の龍の透かし彫りが目に付きました。

 
日蓮宗寺院の海徳寺は、自覚山松陽院と号します。海徳寺は、大永2年(1522)鳥海和泉守(法名自覚院岸日性)が出家し自宅を寺としたと
いい、松陽院日増(天文14年1545年寂)が開山したといいます。鳥海和泉守の子孫は、江戸時代に名主を務めた利田吉左衛門だといいます。

(清光院~海徳寺 : 東京都品川区 2013.05.09 撮影)


東京さわやか散歩 参の6 ④

2021年01月26日 08時13分48秒 | 写真

品川インターシティから旧東海道

 
「東京十社」のひとつであり、「東海七福神」の1社として大黒天を祀っている「品川神社」。文治3年(1185年)に源頼朝により創建されたました。
天正18年(1590年)8月1日に徳川家康が江戸城に入り、翌19年11月に品川大明神へ5石の朱印社領地を賜りました。境内入口の階段前に
ある石鳥居「双龍鳥居」は「東京三鳥居」のひとつに数えられるもので、門柱に龍の細工が施されており、左の柱には昇り龍、右の柱には降り
龍の姿が。毎年6月に行われる「品川神社例大祭」は、笛と太鼓のお囃子「品川拍子」に合わせて宮神輿が街の中をねり歩く神事。
また4月には都の文化財である「品川神社太太神楽」を奉納する「品川神社春祭」が開催されます。

           

 
(品川神社~目黒川 : 東京都品川区 2013.05.09 撮影)


東京さわやか散歩 参の6 ③

2021年01月25日 07時27分18秒 | 写真

品川インターシティから旧東海道

          

 
東京都品川区北品川1丁目から東品川1丁目までの道路の呼び名。同区が定める道路愛称名のひとつ。延長約1000メートル。

 
法禅寺は、至徳元年(1384)の開創で、芝増上寺の末寺である。山号は臨海山光照院といい浄土宗のお寺である。入って直ぐの左手には、
小さなレンガ積みの堂宇がある。

「法禅寺板碑  付 法禅寺遺墳碑 品川区指定有形文化財 所在・北品川二丁目二番十四号 法禅寺 指定・昭和五十八年三月十二日
(考古資料一号)

板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて作られた石造の供養塔で、関東を中心に広く分布している。石材は、関東では主として秩父産の
緑泥片岩(青石)が使われている。当寺の板碑は、品川御殿山から出土したものの一部で、破片を含めて総数百二十一基がある。
最も古いものは徳治三年(一三〇八)、最も新しいものは延徳二年(一四九〇)の銘が確認される。これらは、幕末の品川台場の築造の折に、
御殿山の土取場から宝篋印塔・五輪塔とともに出土したもので、遺墳碑はその時の由来を記している。一ヶ所からこれほど大量に出土して保
管されている例は、大田区の鵜ノ木光明寺とともに珍しく、大変貴重である。法禅寺板碑のうち、宝徳四年(一四五二)銘の阿弥陀三尊種子を
刻んだ板碑を品川区立品川歴史館で常設展示しています。   
 平成十年三月三十一日 品川区教育委員会」

 
養願寺は、旧東海道から下町の風情が漂う路地を入った住宅街の奥にある。正安元年(1299年)の創建と伝えられ、虚空蔵尊を本尊とする
寺としては都内で唯一の寺。
狭い路地と境内が一体になったようなところに本堂があり、品川虚空蔵として親しまれてきた。
虚空蔵尊は丑年・寅年生まれの人の守り本尊として、また、「十三詣り」と結びついて、子どもが13歳から15歳までの時期にお参りすると、「福
・徳・智慧」を授かるといわれ、古くから参詣者を集めてきた。寺では鎌倉時代の制作と推定される「銅造阿弥陀如来像」と万治元年(1658年)
造立の木造不動三尊像(三躯)を安置しており、これらは品川区の有形文化財に指定されている。

 4月上旬と11月上旬の大祭には開帳され、周辺には露天が並んで多くの参詣者でにぎわう。

 
豊盛山延命院 一心寺は、安政2年(1855)創建、真言宗智山派のお寺です。ご本尊は成田山の分身である不動明王。古くから延命と商売
繁盛の寺として信仰を集めています。毎月28日が縁日で、その日は素焼きの皿(ほうろく)を裏返しにして頭に載せて灸をすえる「ほうろく灸」
が体験できます。
よく手入れされた可愛らしい庭には、いつも打ち水がしてあり訪れる人々の心を癒してくれます。東海七福神の寿老人が祀られています。

 
真宗大谷派寺院の正徳寺は、日夜山と号します。正徳寺は、善永坊春應が永仁6年(1298)に開基となり、香華院大日山善永寺と号して創
建、真言宗寺院だったといいます。元亀2年(1571)に品川宿北馬場へ移転、延宝3年(1675)日夜山正徳寺と改めたといいます。
正徳2年(1712)に浄土真宗へ改めています。 

(旧東海道:船溜まり~正徳寺 : 東京都品川区 2013.05.09 撮影)


東京さわやか散歩 参の6 ②

2021年01月24日 07時51分06秒 | 写真

品川インターシティから旧東海道

 
江戸時代の東海道の第1宿。品川宿は当初、目黒川を挟んで北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、1722(享保7)年、歩行新
宿(かちしんしゅく)が宿場として認められ、それ以降3宿で構成された。

現品川区域には古代の官道の駅、大井駅が置かれていたと推定され、中世にも鎌倉街道の品川宿があったと思われる。
品川宿内の東海道の距離は一般的には八ッ山から大井村境(現在の北品川一丁目から南品川三丁目)までの約2km(19町)余をいう。
宿機能の中心である本陣は北品川宿にあり、脇本陣は南品川宿と歩行新宿に各1、旅籠屋は計93軒、他に人馬継問屋場1(南品川宿)、荷
物貫目改所1(南品川宿)、宿高札場1(北品川宿)などがあった。

          

           
問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名前。三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて
禅問答をしたという話が『徳川実記』に記載されています。

家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと伝わります。
現在の問答河岸の碑は地元有志によって建てられたもので、実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりといわれています。

 
善福寺は、東京都品川区の、京急本線の北品川駅より南へ徒歩4分、または同線の新馬場駅より北へ徒歩6分の地にある、時宗の寺院。
旧東海道品川宿にある。

鎌倉時代の永仁2年(1294年)創建。本堂には、かなり傷んではいるものの、伊豆長八の作った鏝絵(漆喰彫刻)が施されている。

 
利田神社は、江戸前期に沢庵和尚が弁財天(洲崎弁天)を祀ったことが始まりと伝わっています。もともとは旧目黒川の河口の海に突き出た
砂洲に祀られていた弁天社で、江戸名所図会や歌川広重の浮世絵にも描かれています。明治に変わり利田神社となり、現在の祭神は市杵
島姫命。利田の名は、当時この辺りの開発に尽力した利田利兵衛の姓から取ったものです。

 
利田神社境内にある鯨塚は、江戸を驚かせた三大動物の一つ「寛政の鯨」の骨を埋めた上に建てられた供養碑です。寛政10年(1798)5月
1日、品川沖で体長九間一尺(約16.5メートル)、高さ六尺八寸(約2メートル)の鯨が現れ、品川の漁師たちが捕獲しました。
この大鯨は江戸中の評判となり、11代将軍徳川家斉が浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧されたほどの大騒ぎとなりました。

 


(旧東海道~利田神社 : 東京都品川区 2013.05.09 撮影)


東京さわやか散歩 参の6 ①

2021年01月23日 06時49分36秒 | 写真

品川インターシティから旧東海道

          

           
興和不動産住友生命大林組が開発を担当した。品川駅東口地区再開発地区計画のA-1地区にあたる1998年平成10年)11月に竣工した。
約35,564平方メートルの敷地にA棟・B棟・C棟の3棟からなる高層オフィスビルとShop&Restaurant棟のショッピングエリア、ホール棟からなっている。
また南側の品川グランドコモンズとの間には幅45m、長さ400mの品川セントラルガーデンがある。同じく旧国鉄跡地を再開発して誕生した品川グ
ランドコモンズとの再開発計画が中心となって2000年平成12年)頃を境に品川駅東口は交通広場なども整備され、大きく景観が変わった。
                                                        出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

(品川インターシティ : 東京都品川区 2013.05.09 撮影)


東京さわやか散歩 参の5 ⑥

2021年01月22日 07時58分20秒 | 写真

目黒駅から池田山、品川

 
応永8年(1401)の創建で、もとは品川の海岸近くににあったと伝えられています。
その後目黒川沿いに一時移転しましたが、目黒川の度重なる水害を避けるために万治年間(1658~61)現在地に移りました。
往古、五反田一帯は品川から続く入江で目黒川を挟んだ東西の台地には縄文人たちが住みついていました。現在でも当寺の山門近辺の地
中は砂地で、多くの貝殻類の化石が出土します。江戸ご府内からわずかに南にはずれたこの辺りは、高輪の台地から富士を一望できる風光明
媚なところとして『江戸名所図会』などにも描かれてきました。近年では長谷川伸の『紅蝙蝠』や池波正太郎の『仕掛人藤枝梅安』といった小説
の舞台となっています。
創建当時の状況は不詳ですが、正徳年間(1711~16)頃には赤坂の城琳寺の末寺でした。

 
聖心侍女修道会を設立母体とし、1950年、4年制女子大学として創立。キリスト教ヒューマニズムを建学精神とし、少人数教育を実践。
学生一人ひとりの積極的な授業参加により、人を思いやり、コミュニケーションを通じ豊かな人間性を自然と身につけていける配慮をしている。
また、少人数教育から人格的触れ合いを通じ、自分で考え決断することができる女性を育てる教育を目指し、さらに自国と他国の文化を学ぶ
事から、地球市民
として他者を愛する優しさを持った人間性を育てる教育を実践。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

           
現代物流の要所である空港、港湾、鉄道、トラックの各ターミナルのジオラマ模型のほか、物流に関する映像、クイズ、ゲームなどを通して、
暮らしと産業に欠かせない物流のしくみをわかりやすく紹介しています。また、主に江戸時代から昭和までの物流のあゆみを展示しています。
天びん棒や米俵などを担ぐ、ふろしきでエコバッグ作り、物流会社の制服着用、段ボール工作など各種体験もできます。

 
「エプソン アクアパーク品川」は2015年夏にオープンした新しい都市型エンターテインメント施設。生きものたちやアトラクションを「音・光・映
像」による演出と融合させた1Fの「グラウンドフロア」とジャングルゾーンやイルカショーなど2Fの「アッパーフロア」の全11ゾーンで構成。
ドルフィンパフォーマンスが人気の「ザ スタジアム」は、昼・夜で異なるプログラムを実施。クラゲと音・光を融合させた「ジェリーフィッシュランブ
ル」、世界のジャングルシーンを凝縮した「アクアジャングル」や、メリーゴーラウンド「ドルフィンパーティー」と振り子型の船「ポート・オブ・パイ
レーツ」などのアトラクションもあり(料金別途)。

 


(宝塔寺~エプソン品川アクアスタジアム  : 東京都品川区 201305.04 撮影)  


東京さわやか散歩 参の5 ⑤

2021年01月21日 04時26分09秒 | 写真

目黒駅から池田山、品川

 

          

 
地下鉄高輪台から歩いてすぐの畠山記念館。ここは荏原製作所の創業者、畠山一清の邸宅であった場所を公益財団に寄贈し、茶の湯や
能楽関連の美術館として一般に公開している。この高輪台は薩摩藩島津家の屋敷があったところで、別名島津山とも呼ばれている。
現在は閑静な住宅街として知られる一帯だ。畠山記念館と隣の旧般若苑の敷地は、島津重豪(斉彬の父)の江戸別邸であった。
明治以降、同じ薩摩藩出身の外務卿寺島宗則の邸宅になり、それを畠山一清が購入し邸宅とした。ちなみについ最近まで隣にあったその
般若苑という料亭だが、海外からの賓客をもてな迎賓館として歴史に名を残す場所であった。しかしその後廃業して人出に渡り取り壊された。
跡地には2013年にテラス白金という4階建ての白亜のビルが建設された。周辺住民の間では孫正義の迎賓館だともっぱらの噂だが公表は
されていない。閑静な住宅街に突如出現した全く場違いでセンスを疑うような建造物。厳重に門扉は閉じられ、始終警備員が巡回警備すると
いう不気味な存在だ。同じ実業家でも、その富の使い方には大きな違いがあって、奇しくもそのコントラストが際立つ場所になってしまった感が
ある。  

(畠山記念館  : 東京都品川区 201305.04 撮影)  


東京さわやか散歩 参の5 ④

2021年01月20日 08時02分08秒 | 写真

目黒駅から池田山、品川

 
この付近の高台は、江戸時代初期に備前国岡山藩池田家の下屋敷となり次第に「池田山」と呼ばれるようになりました。
大正時代末期から次第に宅地として開発され、都内でも有数の高級住宅地として知られています。
品川区立の公園として昭和60年(1985)に開園。起伏に富んだ地形を生かし高台から池をのぞき見るような形に造られた池泉回遊式庭園
です。梅(2月中旬~3月中旬)、椿(2月下旬~3月)、つつじ(4月中旬~5月中旬)、花菖蒲(5月下旬~6月上旬)、紫陽花(6月~7月中旬)、紅
葉(11月下旬~12月上旬)など、四季折々の花が美しい公園として多くの人々に親しまれています。

 
エビネの仲間には春咲き種と夏咲き種があり、春咲きエビネの代表がエビネで、ジエビネとも呼ばれています。
かつては各地の低山に普通に見られた常緑のラン科の植物で、落葉広葉樹林の落ち葉が厚く積もった場所に生え、群生していました。

春に株の中心から1~3本の花茎が立ちあがり、茶で唇弁は白の花、まれに緑や赤、薄黄色と唇弁が桃色や薄黄色のコンビの花を、10~30
輪ほど穂になって咲かせます。地下には球根のような偽鱗茎(バルブ)というものが10個前後連なっていて、エビの背のように見えることから、
エビネと呼ばれます。 
 
(池田山公園  : 東京都品川区 201305.04 撮影)  


東京さわやか散歩 参の5 ③

2021年01月19日 07時46分20秒 | 写真

目黒駅から池田山、品川

 
上皇后さまのご実家、旧正田邸の跡地に整備した公園であり、園名は上皇后さまの高校生時代に作られた詩からつけられたものです。
この公園には、ご成婚当時の門を再現しているほか、上皇后さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木・草花を多数植え、訪れていた
だいた方それぞれが上皇后さまに思いをは馳せていただけるようにしました。

公園のシンボルとなるねむの木は、園内のどの位置からも眺められ、歩みを止めた場に植栽されている花々は、様々な違った姿を私達に
見せてくれます。中でもプリンセス・ミチコは、訪れる方々の人気の的になっています。


(五反田公園  : 東京都品川区 201305.04 撮影)


東京さわやか散歩 参の5 ②

2021年01月18日 08時09分28秒 | 写真

目黒駅から池田山、品川

 
太鼓橋を渡り、行人坂を上りきると、品川区上大崎四丁目3番と4番の間から南へ延びる道がある。両側に服飾大学の校舎が建ち並び、思
い思いのファッションに身を包んだ女学生が行き来するため、ドレメ通りと呼ばれている。
通りの中ほどにある杉野学園衣裳博物館前の小道を西へ入ると、突き当たりが下目黒一丁目8番、そこを左折すると上大崎四丁目5番。
目黒区と品川区にまたがるこの辺りは、明治41年に日本最初の映画撮影所が建てられたところという。個人の庭園を中心として1万坪以上
あったといわれる野外撮影所や、56平方メートルほどのガラス張りのスタジオでは、どんな映画の場面が展開されたのだろうか。
今は、巨大なマンションがそびえ立ち、昔をしのぶよすがもない。

 
目黒教会は、1947年(昭和22年)11月に、ベネディクト会によって創立されました。創立者のヒルデブランド神父、女房役のヨゼフ神父は、
戦中戦後の日本で苦難の時期を歩み、米国の聖ジョン大修道院に籍を移して創立 のために働かれました。共産主義国となった中国での
虜囚を体験されたエミール神父、お百姓さんのような暖かいアロイジオ神父、国際派のニール神父 は、目黒教会の基礎を造られた、おもな
修道司祭方です。そしてなによりも、米国の多くの貧しい信徒達からの、1ドル献金が力となって、現在の姿が完成したことを記憶に留めたい
と思います。 レ-モンド氏設計による現在の聖堂は1956年(昭和31年)5月に献堂されました。
長い間ベネディクト会が教会司牧の担当でしたが、1999年4月より教区司祭が担当する小教区となりました。 聖堂は50年以上過ぎた今も、建
築史上注目されており、専門の学生さん達が時折見学に訪れます。  

          
1957(昭和32)年に開館した日本で最初の衣装博物館。JR目黒駅から程近く、杉野服飾大学・短期大学部、ドレスメーカー学院の校舎に
囲まれた「ドレメ通り」に位置しています。

杉野学園の創始者である杉野繁一・芳子夫妻が欧米諸国を訪れた際に収集した西洋衣装を中心に、日本の着物や女房装束(十二単)、ア
ジア・ヨーロッパの民族衣裳、ファッション・スタイル画など約1400点が収蔵されています。また、1950~1970年代の楮製紙製のマネキン30体
を所蔵しており、日本マネキンの歴史変遷も知ることができます。世界のさまざまな服飾文化を鑑賞した後は、ドレメ通りを歩くおしゃれな学
生さん達のファッションにも注目です。

 
目黒駅徒歩7分の場所に建つ喜多能楽堂は、故十四世喜多六平太の功績を記念し設立された能楽・喜多流の本拠地。喜多流能楽の公演
をはじめ、謡・仕舞の発表会なども行われています。
本舞台の鏡板の松は、江崎孝坪画伯揮毫、前田青邨画伯(昭和30年文化勲章受章)監修によるもの。 太くせり上がった根元と豊かな枝振
りは、素朴さと気迫を旨とする喜多流の武士道的芸風にかなった力強さと重厚さを象徴しています。
客席は1階席、2階席、桟敷席あわせて385名

 
目黒川は、全長8km程度の小河川であるが、首都圏在住者にとってはかなりの知名度がある。それは、ひとえにその流路が都内でもメジャ
ーな地域であるからに他ならない。

河口は、港として栄え、品川の語源となったという説もある。また、落語の「目黒のさんま」の現場であるとか、目黒不動尊にお参りする江戸町
民に親しまれた時代を経て、現在は、何と言っても桜の名所として有名である。

         

 
五反田駅からすぐの都会の真ん中にある公園ですが、そうとは思えないくらい落ち着いた雰囲気のリラックススポット。石畳の坂道を挟んで
敷地が広がり、四季折々の植物が彩りを加えています。春には満開の桜がトンネルのように咲く様子が「しながわ百景」にも選ばれるほど。

園内に大型遊具等の設備はありませんが普段のお散歩コースとして、お出かけの際の休憩スポットとして、多くの人に親しまれる憩いの場
となっています。 

(ドレメ通り~五反田公園  : 東京都目黒区・品川区 201305.04 撮影)


東京さわやか散歩 参の5 ①

2021年01月17日 06時31分46秒 | 写真

目黒駅から池田山、品川

 
久米美術館は駅前の喧騒を忘れさせてくれる静かで落ち着いた雰囲気の中にあります。
歴史家・久米邦武と洋画家・久米桂一郎の資料や作品を展示・所蔵しています。
ラファエル・コランや黒田清輝、東京美術学校(現・東京芸術大学)の教え子たちの作品展なども行っています。

         

         

 
目黒駅西口を下りると急な坂行人坂があり、坂の途中に大円寺がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。
行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによる。寺伝では、寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海
法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。

明和9年(1772)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼した。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永
元年と年号も改められた 幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。門を入った左手にある五百羅漢の石像(都有形)は、この
大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。

境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像(国重文)は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。
正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。 

(久米美術館~大円寺  : 東京都目黒区 201305.04 撮影)