のぶさんの花便り

デジカメと花に夢中な《のぶさん》ですが
これからは、風景やスナップにチャレンジ

千葉さわやか散歩 その10 ④

2018年08月31日 03時24分42秒 | 写真

本土寺から大谷口歴史公園、東漸寺へ

本土寺の紅葉と並び称される東漸寺の紅葉も見事です。参道や山門と紅葉の風景がきれいなお寺で、紅葉で有名な本土寺とは、JR北小
金駅をはさんだ反対側にあるので、紅葉見物のハシゴもできます。紅葉の見頃時期は、11月下旬~12月上旬です。  
東漸寺は住宅街の中にあるお寺ですが境内は別世界。参道の両側にモミジがあり、山門や仏塔などを収めた紅葉写真もよいものです。 
本土寺を訪れた際など、東漸寺を撮影ポイントとして立ち寄ることをお勧めします。 

(千葉県松戸市 : 2009.11.28 撮影)   


千葉さわやか散歩 その10 ③

2018年08月30日 03時40分49秒 | 写真

 本土寺から大谷口歴史公園、東漸寺へ

         

JR3駅(北小金駅・新松戸駅・小金城址駅)のほぼ中間にある大谷口歴史公園は、公園として小金城跡が保存されたものになります。
小金城は、千葉氏の家臣であった武将高城胤吉が下総国に建設したものです。子の高城胤辰は、1564年(永禄7年)の国府台の合戦にて、飛躍し、 盛況し
たが、その後の、豊臣秀吉による1590年に関東攻めされてことにより、開城しました。虎口門・土塁・障子堀・畝堀など様々な遺構が残っており、近くで見るこ
とができます。

創建などは不詳ですが、常陸国一ノ宮(茨城県鹿嶋市)の「鹿島神宮」を分社したものと言われており、 主祭神は、武勇の神・雷の神として崇拝されている
「武甕槌大神」(たけみかづちのおおかみ) です。
この神社は、JR常磐線 「北小金駅」 北口を出て、本土寺の方向に暫く歩くと左に曲がる道路があり、 その道の突き当りに鎮座しています。
道路のすぐ傍に建てられている「鳥居」を潜ぐると直ぐ左手に「手水石」があり、その後ろ側に、 1847年 (弘化4年) に造られた庚申塔や「青面金剛」、「大
山阿夫利神社」、「月参講中」などが祀られています。

八坂神社は、京都市東山区祇園町にある八坂神社(祇園社)を総本社とします。現在の祭神は、素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)ですが、神仏分離以前は、
「牛頭(ごず)天王社(てんのうしゃ)」と称し、小金城の高城氏に信仰され、小金町の鎮守とされていました。
 北小金の再開発事業により現在の地に移されま
したが、当時鎮座していた場所には碑が建てられています。

東漸寺は、今から約520有余年前の文明13年(1481)、経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創いたしました。
この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹です。   檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの
建物を擁するようになりました。大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門
その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展しました。明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の
繁栄無窮を祈願する所)となりました。

広徳寺から小金城跡の大谷口歴史公園に向かう。大金平の信号を右折すれば公園の入り口はすぐそこです。
公園に沿って回り込むように歩いていくと小金城の達磨口跡がある。ここから約20分ほど歩きJR北小金駅を抜け南口へ。線路沿いを歩き
八坂神社に立ち寄り浄土宗の東漸寺へ

(千葉県松戸市 : 2009.11.28 撮影)  


千葉さわやか散歩 その10 ②

2018年08月29日 03時07分34秒 | 写真

本土寺から大谷口歴史公園、東漸寺へ

祭神は、下総国一宮の香取神宮の祭神で、経津主命(ふつぬしのみこと)の分霊と、神霊の乗る御神馬の合祀です。経津主命は、航海の神、武勇の神であり、
駒形は、神の乗った神馬の足形を示すもので、神の降臨した神聖な場所とされています。社殿前には、大杉神社と稲荷大明神が祀られています。
また、社殿の左手には、江戸時代の年号を刻んだ多数の石祠や庚申塔が並んでいます。

         

この貝塚は、6千年前の縄文時代前期に形成された貝塚です。発掘調査の結果、竪穴式住居跡が165軒発見され、多量の土器や石器、獣や魚の骨、炭化
したクルミなども出土されるなど、この貝塚が大集落に伴うものであることが明らかになりました。
特に、多種多様な縄の文様を施した「関山式」と称される土器群は縄文時代の土器研究上重要なもので、一部は、松戸市立博物館で見ることができます。

         

開山は鎌倉時代後期と伝えられているお寺。地域の名主が地蔵尊を救い、お礼として後々の世まで火防(ひぶせ)地蔵尊として村民を守ろうとお告げを受け、
寺に安置したことから火除の寺として名高い。これにちなんで毎年2月24日には火防護摩供が行われ、また1月2日には火渡り祭が執り行われる。

また、松戸七福神のうち、弁財天を祀る。弁財天は弁舌・音楽・学問・智慧などを司る学問の神様で、また日本では財福の神としても信仰されている。

         

江戸時代始め、寛永年間に創建のお寺で、本尊は不動明王です。当時、疫病が流行していたこの地域に越後から不動明王を背落った僧侶がやって来ます。この不動明王に
祈願したところ疫病を鎮めることができ、不動明王をお祀りすることになりました。

特に信仰の厚かった高木治右衛門が現在の境内にあたる土地を寄進し、堂宇を建立し病を鎮めたことから「医王寺」の名前が付きました。
また、松戸七福神のうち、毘沙門天を祀っています。毘沙門天は気力と財宝をさずけるといわれている神です。

寛正3年(1462)室町末期の時代に開創された歴史ある寺院。本尊は釈迦如来。3000坪の境内には何本もの高木が立並び、季節を感じる木々の木漏れ日
に心が落ち着く。境内には開基をされた小金城主、高城公の墓所があり松戸市史跡となっている。     

本土寺の参拝&撮影を済ませ、本土寺を大きく迂回するようにして、香取駒形神社に向かい参拝し、幸田貝塚に立ち寄りバス通りに沿って
北小金駅方面に歩くと華厳時や奥まったところに医王寺や広徳寺がある。   

(千葉県松戸市 : 2009.11.28 撮影)  
 


千葉さわやか散歩 その10 ①

2018年08月28日 04時53分54秒 | 写真

本土寺から大谷口歴史公園、東漸寺へ 

         

本土寺は、池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗門の三長三本」(さんちょうさんぼん)(新潟県三条市の長久山本成寺を含めて四長四本
ということもある)と称されている。「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上記3か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が
含まれることによる。
近年、境内には茶室も整備され、1000本のカエデ・5000株のハナショウブ・10000株のアジサイの名所として人気を集め「あじさい寺」として親しまれている。

          

水戸光圀の寄進と伝えられる古松、老杉の参道を抜け仁王門をくぐると、鮮やかな赤に染まる約1000本ものモミジが境内を彩る。また、五重塔や仁王門、
回廊といった建造物と紅葉が織りなす風情ある景観から、多くの参拝者が訪れる。木々の色づき始めは例年11月中旬頃からで、オオサカズキの他、徳川
家康の側室・秋山夫人の墓近くにあることからその名がついた自生のシュウザンコウなどが観賞できる。

千葉さわやか散歩をはじめ10コース目となります。この日は、小さなコンデジ(FinePix F100fd)で撮影を試みました。
JR北小金駅北口から商店街を抜けると、松が左右に並ぶ参道が見えてくる。これは水戸光圀の寄進したものだという。2軒の漬物屋を過ぎ
ると、朱塗りの重厚な山門に出会う。本土寺境内は広く見どころも多くあります。 

(千葉県松戸市 : 2009.11.28 撮影)    
 


千葉さわやか散歩 その9 ③

2018年08月27日 03時14分24秒 | 写真

本福寺から風早神社、安房須神社へ 

熊野神社がある金ヶ作は、元・武州川越藩郷士の石川彦次右衛門が新田開発を担当し、天明2年(1782)に入植しました。しかし、翌年の浅間山の大噴火に
より大量の火山灰が田畑に降り積もり、多大な被害がもたらされました。そこで、急遽氏神様を祭神するにあたり、彦次右衛門が神社敷地を寄進し、和歌山の
熊野本宮より御魂を拝受し祭神として祀ったのが金ヶ作の熊野神社です。祭神は伊邪那美命・日本武命です。

当初は木造平屋茅葺だった社殿は明治28年に建て替えられました。また、それから100年以上経過し老朽化したため、平成7年に現在の社殿が完成しました。
    (境内の由緒書より)

豊臣秀吉の関東攻めで敗れた高城氏の中根城を守備していた武士が帰農し、安房須神社のある新作(しんざく)地域は農家集落となりました。
そのときに郷土の平安と繁栄を願って少彦名命(すくなひこなのみこと)を勧請し、慶長11年(1606年)に安房須神社を創建しました。  (神社内由緒書きより)

江戸に近い松戸、水戸家の御殿があった小金は、水戸街道筋のため幕末の尊皇攘夷や佐幕の騒動に巻き込まれた。
 水戸家佐幕派の潘士佐藤久太郎が小金で捕われ、ここで首を刎ねられたという。遺体は地元の人によって本福寺に埋葬された。

カンスケ井戸がある児童公園前を通り、バス通りに出たら左折。緩やかに左に曲がった処に風早神社の鳥居があり、社殿の横の静かな道
から松戸市民病院、松戸運動公園を通り過ぎ静かな住宅街を歩き熊野神社により、眺めの良い坂道を下り安房須神社により、水戸街道に
出て東京方面に歩くと歩道沿いに小さな小屋に首切り地蔵が、その後方の高台に龍善寺があり参拝。ここから数分先のJR北松戸駅へ。

(千葉県松戸市 2009.11.23 撮影)


千葉さわやか散歩 その9 ②

2018年08月26日 04時09分32秒 | 写真

本福寺から風早神社、安房須神社へ 

          

本覚寺は、国道6号線(水戸街道)沿いの高台に位置する寺です。
意外に思われるかもしれませんが、境内からは富士山、新宿の高層ビル群、池袋サンシ
ャイン等を、また近年では東京スカイツリーの姿も眺望することができ、富士山頂に太陽が沈むダイヤモンド富士の日には多くの写真家の方々が集まります。
本覚寺開山の加藤錬明(号:雲洞)上人は、火野葦平『麦と兵隊』の第1頁目にも登場するなど書家として活躍し、身延山久遠寺の水屋、信行道場の石碑、
思親閣の日蓮聖人像の題字等、身延山を中心として数々の作品を残しております。

『松戸の湧水』のひとつとして有名な『カンスケ井戸』。「斬られ地蔵」で有名な上本郷・本福寺脇の「井戸坂」下にある湧水池で、かつては「カンスケ井戸」と呼
ばれていた。その昔、窪地から湧き出る豊富な水が飲み水、農業用水として人々の暮らしを支えてきた。また、路地先の石段は“井戸坂”と呼ばれ、水桶を背
負い苦労して丘の上まで水を運んでいた。

鎌倉幕府の創立に大きな役割を果した千葉常胤(平将門の子孫)の孫で、風早庄(松戸市域北部、流山市域南部、埼玉県三郷市域にまたがる荘園)の地頭
だった風早四郎胤康の屋館跡と伝えられています。
戦国時代には、庄内の祭神を一か所に勧請した風早庄の総代社として、小金城主高城氏より三百石相当の社地を受領し、天正19年(1591年)には、家康より
社領五石を寄進され、江戸時代には、朱印高五石を受け幕末に至っています。   
(松戸市HPより引用)

明治神社を後に切られ地蔵で有名な本福寺に立ち寄り山門前に伸びる道を道なりに行くと、本覚寺があり参拝し、一旦本福寺に戻ったら
山門脇
にある竹林に囲まれた急な階段があり、下りきった処にカンスケ井戸があります。  

(千葉県松戸市 2009.11.23 撮影)


千葉さわやか散歩 その9 ①

2018年08月25日 03時30分22秒 | 写真

本福寺から風早神社、安房須神社へ 

JR北松戸駅から明治神社に向かう途中に、二つ井戸があったことを示す石碑が建っている。ここには、跳ね釣瓶の二つの井戸があったが、どちらか一方の
水が澄んでいると、もう一方は濁っていたという。

創建から「妙見社」と称して妙見大菩薩を祀っていた。妙見様は千葉氏とその一族の守護神で、移り住んだ全国各地の領地付近に必ず祀ってきた。
神仏混合禁止によって明治2年に社名を明治神社に改める。、昭和23年再建、平成13年本殿全焼、平成15年に再建。
毎年秋行われる三匹獅子舞は松戸市の無形文化財で、五穀豊穣と悪霊退散を祈る行事。獅子舞は「大獅子」、「中獅子」、「雌獅子」の三匹の獅子と太鼓、
猿、花、笛で構成されている。
 

本福寺寺は、明治時代の寺院明細帳では、1319年(元応元年) 3月15日 に開基となっていますが、 太平洋戦争の終戦後に、この寺の檀家で発見された
「鉦鼓」(しょうこ) の口縁部に刻まれていた内容から、 鎌倉時代後期の 1303年1303(嘉元元年) に、時宗の第二世他阿上人(たあしょうにん) により開基され
たのではないかと言われています。 南北朝時代の 1351年 (観応2年)、千葉貞胤 (さだたね) が京都で、61歳で没し、 時宗の僧によって葬儀が行われ
たことから、それ以後、千葉氏は、時宗を信仰するようになりましたが、 今日では、東葛地方でも僅か 3ヶ寺 しか残っていなく、 松戸市内に残る時宗の寺院
は 「本福寺」 のみとなってしまいました。
境内には、民話、上本郷の七不思議の「切られ地蔵」があります。この地蔵は、元々は、「明治神社」 隣の 「覚蔵院」 (廃寺) にあったと伝えられています。
その昔、境内で盆踊りがあった際、怪しい大男が飛び入りして巧みに踊り、村の娘衆の気を引きました。 それを見た若者が怒って刀で斬りつけた所、悲鳴
を上げて逃げて行きました。 翌朝、境内の石地蔵の胸に生々しい刀疵があったので、若者は驚いて地蔵に謝ったとのことです。

気象情報は、晴れ気温も15℃ほどになるとい、曇天で出掛けるべきか否かを思案中でいたが、10時を過ぎ、にわかに晴れ上がり出掛け
ることにしました。散歩の起点となるJR北松戸駅に11:50に到着。
駅前のコンビニで、昼食のオニギリとお茶を買い込み出発。駅前から真っ
直ぐ伸びるトウカエデ通りの坂を行くと、左手に、二ツ井戸の碑がある。その少し先、交差点の右に明治神社がある。  

(千葉県松戸市 : 2009.11.23 撮影)
 


ブーゲンビリア

2018年08月24日 03時05分01秒 | 写真

数日前、久しぶりに千葉市花の美術館に出掛けてみました。何か撮影対象となる花があるのではと思ったが、期待外れで本日投稿のブー
ゲンビリアだけで残念です。

ブーゲンビレアは丈夫で長期間開花することから、熱帯各地で親しまれているつる性の熱帯花木です。美しく着色した部分は苞で、中心
部に白色の小さな筒状の花をつけます。寒さにも強く、霜が降らない地域では戸外でもよく冬越しします。

肥料と水を多く与えるような育て方では、枝葉ばかり茂ってとげが目立つようになり、花はほとんど咲きません。肥料と水やりを加減すること
で、1年に2~3回開花させることができます。 

(千葉市花の美術館 : 2018.08.21 撮影)
 


千葉さわやか散歩 その8 ③

2018年08月23日 04時57分43秒 | 写真

松戸神社から戸定が丘歴史公園へ

           

近年、「食と緑」を巡る情勢は、国内的・国際的に大きく変化しています。「食」については遺伝子組み換えから生産、加工、流通に至る広範な領域に渡って
安全性確保と国際協調への対応が迫られています。「緑」については快適な生活環境の創造における自然環境との調和やエネルギー負荷の軽減など、様
々な学際的課題が山積しています。本学部は、国立大学法人唯一の園芸学部として100 年の歴史と伝統を持ち、「食と緑」に関わる多くの業績と知的資源
を蓄積しています。そして、理学、工学はもとより一般的な農学とも異なるユニークな学部として、園芸と造園に関する伝統的領域に加え、生命科学、環境科
学へと領域を拡げ、人々の健康や生活空間の科学まで包含する幅広い分野について地域社会・国際社会のニーズに的確に応えています。

天文7年(1538年)、小田原の北条氏綱軍と・小弓公方足利義明・里見氏の両軍が戦った第一次「国府台の戦い」では、義明父子をはじめとして多くの戦死者
が出ました。「本土寺過去帳」には、両軍の戦死者は千余人であったと記録されています。
この経世塚はこの時の戦死者を供養した塚と言い伝えられていました。当初の塚は陸軍工兵学校の建設で壊されましたが、昭和5年に陸軍が復元し、現在の
塚は平成7年に聖徳大学によって移転の上復元されたものです。

聖徳大学は、女子一貫教育を行っている。全ての学部に大学院を設置し、学部・大学院・短期大学部の全てに通信教育課程を設置する。また、児童学研究
所を始め、心理教育、言語文化、生涯教育の4研究所と家族問題相談センターの5つの特化研究施設を設けている。なお、大学院および通信教育課程につ
いては
男女共学となっている。 

水戸街道を松戸駅方面に左折してすぐの処に、花蔵院はある。重厚な本堂に手入れの行き届いた境内は気分爽快となります。  

戸定が丘歴史公園を後に、少し離れた千葉大学園芸学部へ。広大なキャンパス内の樹木の多くが紅葉しそれらを眺めながら散策を楽しみ
ます。周辺は学校や官舎が並び落ち着いた雰囲気を見せておる。最後に聖徳大学内にある、経世塚によったら、水戸街道に出て、花蔵院
を参拝し、JR松戸駅へ。往路は、JR総武・武蔵野・常磐線を乗り継ぎJR松戸駅に。復路は、JR松戸駅に乗り入れる新京成電鉄:千葉ちはら台
行きに乗車。乗り換えなしで自宅のある京成電鉄:検見川駅に帰ることができました。

 (千葉県松戸市 : 2009.11.15 撮影)


千葉さわやか散歩 その8 ②

2018年08月22日 04時49分05秒 | 写真

松戸神社から戸定が丘歴史公園へ

 水戸藩最後の藩主・徳川昭武が建てた戸定邸の敷地の内、約三分の一は戸定が丘歴史公園として整備公開されています。
公園内には徳川昭武と彼の兄徳川慶喜の資料を展示する戸定歴史館、徳川昭武が住んでいた戸定邸(国指定重要文化財)と庭園(国指定名勝)、昭和53年
に松戸市が市制施行35周年を記念して建設したお茶室の松雲亭があります。

水戸藩第11代藩主であった徳川昭武が,江戸川に臨む高台・戸定が丘に建てた戸定邸の庭園。戸定邸が座敷開きを行った明治17年から本格的な造園が
行われ、20年に拡張工事を行い、更に23年に2度目の拡張を行い完成しました。主屋の南に広がる起伏のある芝生地とその緑辺を彩る植樹や西側傾斜地の
豊かな落葉・常緑広葉樹林、眼下に江戸川、遥かに富士山を望む借景は風致に富む景観を構成しており、明治期の庭園の特質をよく表しています。
その芸術的な価値、日本庭園史における学術的価値が評価されて、国名勝指定につながりました。   

松戸神社を参拝&撮影を終えて、松戸神社の南側の鳥居を出て左折、JR常磐線ガードを抜けると右手にある、趣のある茅葺き屋根の
門を入ると戸定が丘歴史公園であります。


(千葉県松戸市 : 2009.11.15 撮影)


千葉さわやか散歩 その8 ①

2018年08月21日 05時36分42秒 | 写真

松戸神社から戸定が丘歴史公園へ

文禄3年(1594)、徳川家の関東入国の際、矢喰村(現在の矢切)に三河国より釈順誓師を招聘して一宇を建立したのが始まりといわれています。
その19年後、現在の位置に招聘され移転しました。
歴代住職は教育熱心で、江戸時代末期に本堂で寺子屋を開き、近隣子弟の教育に当たっていたと伝え
られています。
明治6年には、いち早く西蓮寺を仮校舎として松戸小学校(現在の中部小学校)が創立されました。

創建年は不明ですが、慶長16年(1611)に現在地へ移された真言宗豊山派のお寺です。ご本尊は聖観世音菩薩で、下総三十三ヶ所観音霊場第十九番お
よび東三十三観音第十三番の札所となっています。また、にこやかに微笑む布袋尊の石像は松戸七福神のひとつです。

 

江戸時代のはじめに松戸宿が開かれたことにより現在地に移った真言宗豊山派のお寺です。ご本尊は不動明王尊で、境内には2010年に再興された
「松戸四国八十八ヶ所弘法大師霊場(お砂踏み霊場)」があり、ずらりと並ぶ石像は圧巻です。また、青空に映える綺麗な朱色のお堂が見事です。

松戸は、江戸時代に江戸と水戸を結ぶ水戸街道の3つ目の宿場「松戸宿」として栄えていました。現在は都市開発が進みマンションなどの建物が増えてきま
したが、水戸街道沿いには今でも古くからの面影を残す建物が並んでいます。
和菓子屋「栄泉堂 岡松」もその一つ。時代の流れに流されることなく、古き良き形を残した趣ある雰囲気をまとい、静かに佇んでいます。

松戸神社は松戸市の総鎮守とされている神社で、特に有名な水戸光圀との関係が知られる神社なのですが、近年、最初に述べたようにパワースポ
ットの力が強いということで、初詣やお宮参りなどのほか、運気アップを願う人々が多く訪れる神社としてよく知られています。  

JR総武線~武蔵野線~常磐線を乗り継ぎ約1時間で松戸駅に到着。西口の目抜き通りを市民劇場まで歩き、左折すると西蓮寺、
照寺、宝光院といった真言宗豊山派の寺が並ぶ。駅周辺の賑わいも、この辺りまでは届かず、寺の裏を流れる坂川沿いは静かな散
策コースとなる。松戸神社は、七五三詣りで多くの家族連れが子や孫の健やかな成長を願い参拝し記念撮影をする姿が微笑ましい。 

(千葉県松戸市 : 2009.11.15 撮影)


千葉さわやか散歩 その7 ③

2018年08月20日 10時52分45秒 | 写真


甘藷試作地から大
賀ハス発掘碑へ

本プロジェクトは、14棟のマンション「ガーデンプラザ新検見川」と戸建住宅「瑞穂の杜」からなる開発面積約38万m2、約2,000世帯が暮らす大規模開発事業
です。鹿島は1972年に本事業に着手し、1988年に土地区画整理組合の設立認可を受け、造成工事に着手以来、全社を挙げてオール鹿島で街づくりを進
めてきました。
本計画のマスタープランを検討するに当たり、「環境共生」をコンセプトに掲げ、自然生態系を再現した親水空間「ビオトープ」の集合住宅における初めての
導入や、雨水再利用システムの採用など、ハウジングに関する開発・設計・施工の最新のノウハウを結集し、各段階において環境共生技術を最大限に取り
入れるとともに、区役所・小学校等の行政関係施設や、スーパー・郵便局・医療施設等の都市利便施設の集積を図ることで、都市と自然が調和する街づくり
を推進してきました。  詳細は、こちらをクリックしてください。



昭和26年(1951)、花見川区検見川の東京大学検見川厚生農場(現在は東大総合運動場)で発掘された古代ハスの実を植物学者でハスの権威であった
故大賀一郎博士が発芽・育成することに成功した。これによりこの古代ハスは大賀ハスと命名された。発掘された落合遺跡の前の通りは大賀ハス通りと名付
けられている

検見川神社は、疫病が流行した貞観11年(869)に行われた御霊会(今日の祇園祭)の際に建てられた矛六十六本(全国の国の数)のうちの一つが、
当地北隣嵯峨の地に祀られたのを創始とするといいます。その後、兵部少輔平春靖が当地周辺を開墾、承平4年(934)嵯峨の地に壹宇を建立、文禄年間
(1592-1596)に当地へ遷座したといいます。

新検見川駅から北へ約10分。するといきなり景色がぱーっと開けて、上のような広大な広場に出る。それが東大グラウンド。残念ながら一般の人は入れない
のだが、通称・東大グラウンド通りを通るたびに景観を楽しませて頂く。

広大なハス田は計画から約30年、現在1300戸が住む住宅街となった瑞穂の杜から大賀ハス通りを南に10分JR総武線下の地下道を抜けると右手に検見川
神社
の鳥居があり50段余りの石段を上ると社殿があり参拝。いま来た地下道を戻り切った先の交差点を右折すると、地元のサクラ名所:花園グリーベルトがあ
ります。400mほど進むと
東大グラウンド通りとの交差点を左折。左側に花園中学校・花園小学校と並ぶ先の交差点を直進。起伏の激しい道になり左手に、
東大検見川総合運動場がみあります。運動場北側に隣接する住宅街の中に我が家はあります。
 


(千葉市花見川区 : 2009.11.03 撮影) 


千葉さわやか散歩 その7 ②

2018年08月19日 02時31分45秒 | 写真

甘藷試作地から大賀ハス発掘碑へ

花見川とは千葉県の印旛沼を起点とし、千葉市美浜区の東京湾に流れ込む川である。 厳密にいうと印旛沼から大和田までは「新川」と呼ばれ、大和田の
排水機場から下流域が「花見川」という名称である。
この花見川沿いには、河口から「花見川」「新川」「印旛沼」と、3つのサイクリングロードが続き、最終的に
は利根川まで走ることができる。

畑町と朝日ヶ丘は旧畑村で、その古村の中心は子安神社周辺である。昭和47年子安神社西方の花見川に面する台地の発掘調査の結果、古墳時代前期の
集落址(宮脇遺跡)が発見された。

室町時代になると馬加(まくわり)氏の領内に入り、この神社の祭神は船橋市の二宮神社(旧三山明神)の配偶者、武石町の三代王神社を乳母、幕張町の素
加神社を子守、船橋市の八王子神社・習志野市の大原神社・菊田神社・八千代市の高津比咩神社・時平神社を一族郎党にみたてた宗教的政治的集団が
結ばれ、7年目ごとに廻り来る丑年と未年の11月に「三山の祭」と称する大祭を行なうようになった。
 

大賀蓮ˊに名を残している大賀一郎先生は、東大の出身で理学博士の称号も東大から授かっています。その縁もあって、千葉市旧検見川町の発掘地に隣接
していた「農学部附属緑地植物実験所」で、1965(昭和40)年ころから観賞用ハスの収集と栽培が始められました。その後、観賞用ハス品種の書物を執筆した
り、新たな品種の育成にも取り組んできました。2010(平成22)年には、西東京市にあった附属農場とともに改組され、新たに設立された「生態調和農学機構」
となり、ハス見本園も検見川から西東京フィールドへ移転し、今日に至っています。(東京大学 大学院農学生命科学研究科附属生態調和農学機構のHPより)

真蔵院での参拝と撮影を終えて花見川沿いのサイクリングロードを上流に向かい汐留橋を渡り変電所横の坂道を上った先のT字路を右折す
ると右手に子安神社があります。自宅からも徒歩10分余りで参拝でき以降園、現在地に居を構えた後、
初詣を欠かすことなく行っております。 


(千葉市花見川区 : 2009.11.03 撮影) 


千葉さわやか散歩 その7 ①

2018年08月18日 06時50分40秒 | 写真

甘藷試作地から大賀ハス発掘碑へ

江戸時代、飢饉時の救荒食として甘藷(サツマイモ)の栽培を、8代将軍吉宗に奏上した青木昆陽。それが認められ享保2年(1735)、この地で甘藷の試作を
始めました。後に幕張でも栽培が増え、天明・天保の大飢饉には、この辺りで餓死するものはなかったと伝えられています。そんな昆陽の功績をたたえ、昆
陽神社を建立しました。試作地跡には記念碑が建てられ、現在、県の指定史跡になっています。

甘藷先生こと青木昆陽が幕張の地に作った甘藷(さつまいも)の試作地によって、天明の大飢饉にあってもこの地が救われたことを顕彰する目的で建てられ
た神社である。青木昆陽は江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の信任厚い南町奉行大岡忠則
に飢饉対策として甘藷の栽培を進言し、武蔵国小石川、下総国
幕張村、上総国不堂村の3ヶ所の甘藷の試作地を設けた。この試みは大成功し、全国に甘藷の栽培が広がり、飢饉対策に大いに貢献した。
昆陽神社は火の神の秋葉神社の地に隣接し、青木昆陽は、「芋神様」として今も土地の人々から信仰を集めている。

千葉介平常胤の四男、大須賀四郎平胤信が、父よりこの幕張の地を譲り受けて城を築きました。建久四年(1194)五月、源頼朝の命により富士の御狩場に
赴く際に当社へ祈願し、良い成果が得られ、
その御礼として社殿を造営し、胤信の次男、中須加神太夫平正胤をその社司神家とし、武運長久、五穀豊穣、
郷中家内安全並びに氏子家内安全諸祈願。
 

「三山の七年祭り」は、夫婦がに二宮神社と子安神社、子守役が子守神社、一族郎党が八王子神社、大原神社、菊田神社、高津比咩神社、時平神社という
ように地縁的結合して行われる珍しい神事。三代王神社は乳母として参加する。三代王神社と子安神社からは神輿が出される。

真蔵院境内にある波切不動堂を見上げる。1259年(正元元年)12月10日、武石胤盛の曾孫、武石新左衛門長胤が建立した。
胤盛が守り本尊とした一寸八分の金仏の不動尊が祀られているという。

 

806年(大同元年)、興教(こうぎょう)大師による開山と伝えられる。『千葉県千葉郡誌』(1926年)によれば、「千葉常胤の三男武石三郎胤盛、母の菩提を弔
いて建久八年(1197年)柳地蔵菩薩を祀って、真蔵院を造営した」。和田茂右衛門1984はこれを中興開山と解する。

          

今回のコースは、自宅から半径5キロ圏内に点在する。JR幕張駅下車。JR線に並行する京成線幕張駅まで歩き左折すると門扉の奥に
青木昆陽甘藷試作地の碑があり、道路を隔てた反対側に昆陽神社がある。JR線沿いを歩き古い家並みの残す通りを右折した先に子守
神社が右手にあり参拝を済ませ踏切まで戻り渡り、民家の間を抜け、マンション前で右の道を入ると三代王神社も近い。右側には遠く幕
張の高層ビル群が見える。道は車の通りも少なく、のんびり歩くと真蔵院がある。 

(千葉市花見川区 : 200911.03 撮影)
 


千葉さわやか散歩 その6 ②

2018年08月17日 04時38分36秒 | 写真

浅間神社から稲毛海浜公園へ

JR京葉線 稲毛海岸駅(JE15)の北東約700m。細長い稲岸公園の南端に飛行機の翼をかたどった塔(記念碑)が建っていて、側面に「民間航空発祥之地」の
文字が見える。塔の高さは9m、横幅も9mだという。
奈良原三次男爵は海軍で飛行機の研究を行い、1910(明治43)年に自ら設計した『奈良原式』飛行機を自費で完成、高度4メートル・距離60メートルの飛行
に成功した。1912(明治45)年にはここ稲毛海岸の干潟を飛行場に利用し、民間初の飛行練習場とした。同時にこの飛行場を本拠に全国巡回飛行会を開催
した。このためこの地は民間航空発祥の地といわれる



千葉市美浜区、稲浜中学校に隣接する公園です。スポーツも楽しめ、親子の休日を1日満喫できる遊具が充実しています。野球場は少年野球で利用、
予約が必要ですが、ボールを壁に当てる壁当て板やバスケットゴールもあり、体を思い切り動かすことができます。
師匠
遊具は、アスレチック風の遊具と、大きな複合遊具があり、子供たちには大人気。鉄棒や砂場もあります。

稲毛海岸が日本の民間航空の発祥地であることから稲毛海浜公園に建てられた記念館。稲毛飛行場を本拠地にして活躍していた奈良原式4号機「鳳」号
の復元機などを展示。   

国道14戦の歩道橋を渡ると、右手に緑の芝が美しい稲毛海岸公園。園内には、蒸気機関車や遊具。民間航空発祥の碑がある。

稲毛海浜公園は、海浜ニュータウンの前面、東京湾沿岸に位置する長さ約3km、面積約83haの総合公園です。園内には我が国初の人工海浜「いなげの浜」
や三陽メディアフラワーミュージアム、プール、運動施設、ヨットハーバーなどがあり、四季を通じて楽しむことができます。

稲毛記念館は、昭和43~59年(1968年~1984年)の間に行われた、稲毛海浜ニュータウン造成事業の完成を記念してそのシンボルとして建てられました。
2階には文化活動にご利用いただける施設として市民の文化・教養向上を目的とした社交の場として大広間・茶室などが、そして3階には展望室があります。 

国道14号線の歩道橋を渡ると、右手に緑の芝が美しい。園内には蒸気機関車や遊具、民間航空発祥の碑がある。さらに広い一直線の道
をたどる。高架になっている稲毛海岸駅をすぎ、高層団地を左手にさらに進むと正面に人工
海浜がある、稲毛海浜公園がある。園内には、
稲毛記念館、民間航空記念館、花の美術館、野外ステージや松林やさまざっまな広場や遊具があり、休日など親子ずれで賑っております。  

(千葉市稲毛区 : 2009.10.30 撮影)