説経節 2 説経節の歴史の続き (前回の内容も有り)
前回の説経節の歴史 1
説経の歴史
説経節の源流
唱導(説経)文学
鎌倉時代末期に虎関師錬によって著された『元亨釈書』巻二十九(「音藝志七」)には、本朝音韻を以て吾道を鼓吹する者、四家あり。経師と曰ひ、梵唄(ぼんばい)と曰ひ、唱導と曰ひ、念仏と曰ふ。
とあり、音声をもって日本の仏道を隆盛たらしめるものとして「経師」すなわち説経師、梵唄(声明)、唱導、念仏の4種があったことが示されている。
これは、鎌倉末期にあっては、説経と唱導がたがいに異なるものと把握されていたことを示している。
虎関師錬『元亨釈書』(1322年)巻二十九(一部)
「経師」(説経師)について記されている。
ところが「説経」も「唱導」も本来は、仏法を説いて衆生を導く営み全般を指しており、仏典を講じてその教義を説くことを意味していたのであって、それ自体は文学でも芸能でもなかった。
しかし、従来仏教の保護者であった朝廷や公家の衰退が著しい中世にあって、文字の読み書きのできない庶民への教化という動機から、しだいに音韻抑揚をともなうようになったものである。
それはまた、比喩・因縁など説話の部分が庶民にとっては親しみやすく、そこから文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学」と称している。
「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫であるが、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べているように、唱導文学はむしろ芸能としての説経に多大の素材をあたえた。
「唱導文学」(説経文学)のおもな担い手は、高野聖その他の廻国聖、山伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女など下級の宗教家であり、その意味では折口の指摘する通り「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」であった。
その内容は、寺社の縁起、高僧伝、神仏の霊験譚、インド・中国起源のものもふくめた仏教説話など多岐にわたるが、かれらがその信仰を民衆の心底深く伝えるためには、地方の民衆のなかにあった固有の信仰・口碑を取り入れ、それと習合していく必要があった。
南北朝時代、安居院流の唱道者(安居院唱導教団)の手によって成立したとみられる『神道集』は、こうした唱導のテキストを集成したものと考えられる。
なお、文学史的にみれば、『神道集』は室町時代の御伽草子や説経節の先駆的性質を有していると指摘される。
ささら乞食
説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた。
ささらとは、楽器というより本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである。
0現存する説経正本(テキスト)で最古のものは寛永8年(1631年)の「かるかや(苅萱)」、太夫(座元・演者)の名が記されている最古は寛永16年(1639年)頃の説経与七郎を太夫とする『さんせう太夫(山荘太夫、山椒大夫)』であり、いずれも江戸期に入ってからのものである。
そのため、中世における説経がどのような芸能であったかについては不明な点も多いが、唱導者による「語り」は、それをいっそう効果的なものにするため、音曲、さらには舞踊をともなうものとなり、しだいに芸能化していったものと思われる。
観阿弥作と伝わる謡曲『自然居士』(じねんこじ)に登場する自然居士は、鎌倉時代末期に実在する説経者であるが、この作品では、かれは説法のさい聴衆の眠りを覚ますべく高座の上で舞い、また、両親の供養のために我が身を売った娘を、人買いの手から取り戻すために舞を舞い、ささらを摺り、さらに鞨鼓を打ってみせている。
能楽の『自然居士』には脚色が含まれている可能性があるものの、芸能化した唱導者(説経者)のあり様の一端を今日に伝えてる。
『自然居士』ではまた、ささらの起源として、「扇の上に木の葉のかかりしを、持たる数珠にてされされと払ひし」ことより始まったと記している。
なお、自然居士は、その当時から乞食と称されていたようであり、また、自然居士を主人公とする能楽には他に『華自然居士』『聟入自然居士』がある。
さらに、同類の説経者を主人公にすえたものに『東岸居士』『西岸居士』がある。
蝉丸神社(滋賀県大津市)
中世芸能の徒にとって自らの祖神と仰いだ盲目の僧、蝉丸法師を祭っている。
近世にあっても、街頭や寺院の境内、門口で演じられた説経でもささらを楽器として使用する場合があったが、これを伴奏に用いる「ささら説経」は、鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられている。
永仁4年(1296年)成立の『天狗草紙絵巻』には、粗末な着古しをまとい、ささらを摺る乞食僧が描かれ、いっぽう13世紀後半期に編まれたと推定される説話集『撰集抄』にも、「ささら乞食」にまつわる説話が収載されている。
上述の『自然居士』もさることながら、廃曲となった世阿弥の謡曲のなかに『逢坂物狂』という曲があり、そこには「蝉丸」という人物が登場し、ささら・鞨鼓を鳴らしながら謡い狂うようすが演じられる。
近江国逢坂山の蝉丸神社に祀られる蝉丸大神は平安時代の歌人蝉丸に由来し、江戸時代の文献にも蝉丸法師は説経の徒にとっては彼らの祖神と仰がれる存在であったとの記録がある。
蝉丸神社では『御巻物抄』を発行して、これを説経者の身分証明書、説経口演の許可証とした。
現存する説経節の正本は、上述のようにいずれも近世に属するが、このように説経節のテキストが比較的新しいのも、説経が長きにわたって乞食芸であったことと強い連関をもつものと推測される。
たとえば、イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本大文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しているところからも、説経節が乞食芸として把握されていた事実を知ることができる。
八坂神社所蔵『洛中洛外図』(元和年間)にみえる屋外での説経節
土佐派絵師の手になるものといわれる。
大傘をかざし、むしろの上でささらを摺って説経語りをしている。
ひしゃくで投げ銭を集めている人物、聴衆の泣き伏しているすがたなどが確認、群がった乞食をさす言葉であったといわれている。
説経節の歴史 2
『人倫訓蒙図彙』(元禄年間)にみえる門説経 ささら、胡弓、三味線の3人組による門付芸として描かれている。大傘はなく、演者は菅笠をかぶっている。
『北野社家日記』の慶長4年(1599年)1月24日の記事に、説経者が京都北野の経王堂(現大報恩寺)の脇で説経語りをおこないたい旨、北野天満宮に申し入れたことが記され、あるいは、元和年間(1615年-1624年)制作の『洛中洛外図』(八坂神社本)や江戸時代初頭の絵巻物『采女歌舞伎草紙』(徳川美術館蔵)にはむしろの上に立って、長い柄の大傘(おおからかさ)をかざし、月代を剃り、羽織を着た人物がささら説経を語るようすが、『洛中洛外図』(西村家本)や元禄年間の『人倫訓蒙図彙』には門付する説経者(「門説経」)のようすが描かれている。
このことから、説経節がもともと野外芸能(大道芸・門付芸)として発展したことがわかる。
大傘とむしろ(茣蓙)は、大道芸としての説経芸を成り立たせる大道具であり、むしろをもって舞台となし、長柄の大傘をもって非日常的な演劇空間を創出したのではないかとも考えられる。
いっぽう、大傘については、営業中のしるしであった。
大傘を、田楽を専門に踊る田楽法師が傘をもった伝統にちなむとし、傘のかたちをした松を「神様松」と称する地域もあることから、神の依り代であることを表象するものとの見解もある。
『人倫訓蒙図彙』では、「門説経」と掲げた図に「物もらいに種なきとはいへども、小弓引(こきゅうひき)、編木摺(ささらすり)はわきて下品(げぼん)の一属なり」との説明が付されており、ささら説経の徒は乞食のなかでも最下層のものと見なされていたこと、説経を語るときの伴奏に胡弓が使用されるようになり、ささらと胡弓が説経には欠かせないものであったことを示している。
なお、この図では、一人がささら、一人が三味線、一人が胡弓をもった三人組が、屋敷の門口に立つ光景が描かれている。
元禄5年(1692年)の『諸国遊里好色由来揃』などでは「伊勢乞食」がささらを摺りながら語り歩いたものが「門説経」であると伝えており、『人倫訓蒙図彙』もまた説経の出所を伊勢国としている。
「伊勢乞食」の語は、のちに伊勢商人の吝嗇を非難する語となったが、元来は伊勢神宮に参宮した人びとを目あてとして群がった乞食をさす言葉であったといわれている。
北野天満宮、伊勢神宮、三十三間堂(『洛中洛外図』)といった大寺社は、中世から近世初頭の日本にあっては「アジール」の機能を果たしていたのであり、非日常的な空間としてさまざまな芸能活動がさかんにおこなわれる空間だったのである。
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