普賢象桜
先日記録しました御衣黄桜(ギョイコウザクラ)は江戸時代に、京都の仁和寺で栽培されたのがはじまりと言われているそうだ。
そして今回記録の普賢象桜(フゲンゾウサクラ 普賢象・普賢堂)は室町時代から京都市上京区千本閻魔堂にあったとされています。
千本ゑんま堂の普賢象桜を紹介されている 教野弘孝様「青りんご」のページ
普賢象とは、二本ある葉化した雌しべが、まるで普賢菩薩が象(象の牙)に乗っているように見えることから名がついたといわれているそうです。
柄が長く花が垂れる気品あるやわらかな色合いの普賢象桜。
今回美しいなと思い、京都の長岡天神で撮影した普賢象桜ですが、私には全く知識がありません。
ですから全体ばかりを撮り、普賢象桜の花正面の拡大を写してませんでした。
まるでピントのずれた大向こうのようです。
京千年伝説の散歩路さんの「千本閻魔堂の普賢象桜(フゲンゾウサクラ)」によると、次のように説明されていました。
千本閻魔堂の普賢象桜(フゲンゾウサクラ)
ところ 上京区千本通蘆山寺上ル閻魔前町34番地
小野篁の開基で、定朝作と伝える閻魔王を本尊とし、俗に千本閻魔堂と呼ばれている。境内の狂言堂で毎年五月下旬に大念仏狂言が行われ、京都の代表的な年中行事となっている。観音堂は精霊堂ともいわれ、毎年八月九、十の両日、盂蘭盆の六道会が行われ精霊迎えをする人で賑わう。
境内に多層石塔の紫式部供養塔(重文)をおおい包むようにしなやかな細い枝が寒風に耐え春を待っている毎年白い可憐な桜が人々を喜ばしてくれる千本閻魔堂の普賢象桜(フゲンゾウサクラ)である。
百人一首の歌人として知られる小野篁卿(802~853)は、この世とあの世を行き来する神通力を有したとされており、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕えたとの伝説を残しています。篁卿は、閻魔法王より現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法で、後に我が国の伝統習慣である「盂蘭盆会(お盆行事)」へと融合発展する法儀「精霊迎えの法」を授かりました。
その根本道場として、朱雀大路(現・千本通り)の北側に篁卿自ら閻魔法王の姿を刻み建立した祠が当ゑんま堂の開基です。
また、この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁卿が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土します。ゑんま堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれています。篁卿の後、寛仁元年(1017)、藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覚上人が、ここを「諸人化導引接仏道」の道場とすべく「光明山歓喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山しました。「引接」とは「引導」と同義語です。「引接寺」という正式名称より、「通称の千本ゑんま堂」としてより親しまれているのは、この地が開山以前から、人々にそう呼ばれ、神仏や宗旨宗派を越えた信仰を集めていたからにほかなりません。
往古の朱雀大路頭(すざくおおじがしら)船岡山の刑場の麓に植えられた当山発祥の桜です。一ひら二ひらではなく、花冠のままぼとりと落ちるこの桜の散り様が、さながら斬首される囚人の姿に似てるため、中世の所司代は、この花を獄舎の囚人に見せ、仏心を起こさせたとも伝わっています。応永15年(1409)、後小松天皇の薦めで当山を参詣した将軍・足利義満は、境内に咲き誇ったこの桜に感服したそうです。
みなさま、見て下さいましてありがとうございます。
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