日々のつれづれ

日々うららかでありますようにと願ったけれど、平穏な日々は続かない。
穏やかな老後は訪れるか。

退院ののち

2008-08-29 | 実家に関すること
27日に退院した父。
医師の話ではとにかく栄養不良
もともとが少食なのに入院してさらに食べなくなったよう
このままではいずれイロウの決断も必要になる
そう言われて施設に戻りました。

とにかく食べさせなければと思って、昼食時に合わせて施設に通う事にしました
栄養は二の次。とにかく少しでも量を多くと、父の好きそうなタラコやウニをご飯にのせてやると食べます

病院の血液データは施設にいた時と比べてかなり下がっていたと聞きました。
食事量の少なさが結果となって表れたのでしょう。

病院では食事の時に食べるようにと勧めてはくれませんが、施設ではスタッフがよく声をかけてくれます。
声をかけてくれなければ終わってしまう食事も、勧めてくれることで一口でも二口でも余計に口に運ぶこともあります。
少しでも食べてくれることで最低限の機能の維持は出来るように

まだ暫くは父のもとへ通う日が続きそうです
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

急な退院そして従兄の訃報

2008-08-28 | 実家に関すること
昨日27日、父が退院しました。
父が入院したのは7日の木曜日ですから3週間の入院でした。

当初の予定では1週間くらいという事でしたから、病院が地下鉄駅から徒歩圏内にあることもありバスと地下鉄を乗り継いで通う事にしたのでした。

その後、誤嚥性肺炎を併発し入院が長引きそうだと思い車で行こうかなと考えたのですが、16日の医師の説明でこれから1週間くらいならと、公共の乗り物を利用してきました。
今日は退院の話が出るだろうかそう思いながら通い続けてきたのですが何も言われないまま26日も帰宅の途に。
それでも25日には導尿していたのが26日は管がはずされていたのでもうじきかなとは思いました。

26日、帰宅途中に病院からケータイに着信が駅に着いてかけなおすと、相談員さんからのようでしたが在席していないとのことなので「いま帰宅途中だけれど家に着くまであと40分くらいかかる」旨を伝えバス乗り場へ向いました。
帰宅すると留守電にメッセージが
施設からで明日のお父様の退院の件でお話があります

えーっ!何も聞いてないよ
すぐに施設に折り返しの電話をかけました。
私が何も聞いてない事にケアマネさんも驚いたようでしたが、一度電話を切って病院の相談員さんに電話
退院は間違いありませんでした。帰宅途中の電話は退院の連絡だったようです

毎日病院に通って、看護師さんに会わない日は無いのに退院について何も言ってくれない
仕事の線引きが出来ていて、施設に戻る父の退院は相談員さんの担当なのだからってことかもしれないけれど、私は看護師さんに遠いので毎日来るのは大変という話もしていたのに

父は病院の生活に順応して(導尿していたので)トイレに行くことさえ無く、何もせずにベッドにいる生活が楽で退院したいという気持ちも無くなってしまったようでした
そんな父も心配だったし、私も遠くまで通わない分楽になるので、退院出来る事になったのは突然の連絡に不信を持ったけれども嬉しい事でした

26日はそんな連絡で一時間もあちらこちらへの電話
弟宅にも明日、退院することになった旨の連絡を済ませたところでまた電話が鳴りました
父方の従姉からで従兄が亡くなったとの知らせでした。
「お宅の長男さん(弟)と話したことがないから、悪いけど連絡してもらっても良い?」と私に掛けてきたものでした。

弟宅に電話したばかりでまたという思いがよぎりましたが、父が参列できる状態ではないのですから名代としての弟への連絡はしないわけにはいきません。従妹もそう思ったから連絡をくれたに違いないのですから。
何度も御免なさいねと、事の次第を話したところ
お義母さんのときにお香典頂きましたか
どうだったかしらね。ウチは身内だけでやったからね
頂いてなければ、○○さんだったら「ほっとけ」って言うかもしれない


弟個人としてなら放っておいても良い。けれど父が存命しているのだから、弟は父の名代という立場。父にすれば甥の葬儀です。
実際に弟がどう言うか分からないうちによくそんな言葉が出るもんだ
しかも父が出すべきものは父の預金から出るのです。弟が出すわけではありません。

電話を切った後、香典帳を調べてみて思い出しました。
母が亡くなったあと、件の従姉から聞いて弔問に来てくれた従兄でした。
近い身内だけで葬儀を済ませていたにもかかわらず、わざわざ弔問に来てくれたことがとても嬉しかった。父の名前でお香典を出すだけでなく、私からも出したい

翌朝、また弟宅に電話
母の時にお香典は頂いてたわね
○○さんが今日行ってくれるって
いとこだし、私もお香典を出そうと思うのだけど。一応知らせたほうが良いと思って。


その日、父の病院へ行く途中の郵便局から電信為替で送るつもりだったのですが、民営化を機に電信為替は取り扱わなくなったって
父が退院するので病院や施設の手続きもあり、その日送ることが出来なかったので翌日現金書留で自宅あてに送らせて頂きました。
結局、私がお香典を出すと言ったので弟も自分の名前でも出したようです。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビがやってきた

2008-08-26 | 家計を考える

子供が小さい時によそ様のものを壊したり傷つけたりした時のためになんて言われて入った損害保険。5年毎に更新して5回目かな、その更新日が今年12月に到来します。
5回目で25年。一度も保険金の請求をすることはありませんでした。
何事もなかったのだからと言われればそうなのですが

当初は景気も良く、更新時には配当金がつきました
ところが次第に景気は減速。配当金がつくどころか元金も割れる状態に
前回の更新時は当初より5万円も少ない45万円
10年ほど前、子供も成長してよそ様のものを壊す心配も無くなったことでもあり解約しようと言ったのですが、保険代理店は夫の知り合いで、使う予定が無いのだから置いておこうと言う夫に押し切られ今日に至りました。

その更新をしないという事になったのは「そのお金でテレビを買おう」と私が言ったから
夫はすっかりその気になり、フルセットで買うつもり

先日、ヤマ○電機に行ったのはCD-Rを買うためでしたが、夫はTV売り場に直行しました
買うと言った時からメーカも大きさも決めていて、あまりTVを見ない私が口をはさむ余地はありません。
店員さんの明日までなんですが、ポイントが高く付きますよの言葉に夫は即決
更にDVDとテレビ台も決めて、私に相談しようなんて気は全くない。
保険金は全て自分のものだと思っている

しかも5年前、更新時の金額は45万なのに購入金額は〆て46.5万
ポイントを付けずに現金値引きをしてもらえば10万以上安くなりますが、そのポイントは息子のカードに付けてやるという約束です。

保険金はそんなに戻っては来ないと言う私の言葉に耳を貸さず、ボーナス払いで購入したTVが我が家にやってきたのは日曜日の午後のことです

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

期待する心

2008-08-21 | 実家に関すること
父の退院が近いということは弟に連絡しなければならない、そう思って電話をしたのは医師の話があった夜
夫には余計なことは言うなよと強く釘を刺されました

まずは心配掛けて悪かったねと言ったのは礼儀というものです。
病名と経過、検査はしないことにした旨を伝え今後もこうやって決断を迫られることがあると思うけれど、私が決めても良いの?と聞いたのは今後も繰り返すという医師の言葉が念頭にあったからです。

けれど弟はハッキリとした返事をしません。
何かあったら連絡してくれなくては困る。まあ、連絡してくれると思うけどみたいなことを言う
弟はどうしたいの
そういう時は出来るだけ駆け付けるから連絡がほしいのか
時間が無くて駆け付けることは出来ないから事後連絡でも良いのか

ただ単に私にすべて任せるって言いたくないだけなのかと思ったのは今までの経緯もあるから

私はいつも、イヤだなって思いながらも連絡はしている
でも私が連絡しても何も返事はないじゃない


夫に釘を刺されていなければこっちが連絡しても何も言ってこないじゃないと言いたいところでした。

何日か腹立たしい思いを抱え込んでいましたが、時間とともにやっぱり弟だということで私の中に甘い期待があったんだろうなと思うに至りました。
どこかで時間が無くて自分は何も出来ないけど、頼むねみたいな言葉を期待していたのでしょう。
そういう言葉ひとつで私の気持ちは治まるのだけど
でも、今までの経過を考えればそんな期待をしても無駄だって分かるはず

まったく自分の甘さが悔しい


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いのちを預かる

2008-08-18 | 実家に関すること
土曜日の夕方、父の病室へ行くと顔色はずいぶんと良くなっていました
そしてもう(施設の名称)に帰れると言います。
しばらくして医師に呼ばれ病状の説明を受けました。
カメラを入れたわけではないから、との前置きで虚血性腸炎と推定されるということ。肺炎を併発したが多分誤嚥性肺炎であろうということでした
高齢でもあり、今後も繰り返す懼れが強いだろうとも言われました。

そして検査をしないことで今後何があっても病院にも施設にも責任は無いが、それでも検査はしないで良いのかと確認されました。
顔色も良くなり、重湯ではありますが食事を摂れるまで回復してきている父に、やはり検査は受けさせたくない。
検査はしないでください
もし、出血があった場合はどうしますか
・・・・
入院中に胃や腸から出血した場合ですね、どうしますか
・・・その場合は黙って見ているという訳にはいかないでしょうから処置をお願いします

検査はしないということで、これから一週間ほど抗生物質の投与を行って退院となること、今後こういった状態を繰り返していくと思うので、人工呼吸器をつけるかという選択を迫られることも考えておいたほうが良いと言われて医師の話は終わりました。

父にはもう少し点滴しなきゃならないので、あと一週間くらいかかるからねと話しました。
ちょっとガッカリした様子の父に一週間したら帰れるからね、良かったね重ねて声をかけましたが自宅には帰れない、自分の帰るところは施設なのだから、そこに帰りたいと父が理解しているのは切ない事です
けれど父を引き受けて在宅介護をするという覚悟は持てないのですから、切ない思いをするくらいは仕方のないことなのでしょう

それでも、一時はもう二度と施設に戻ることは出来ないのではないかと思ったのです。
退院の目途がついたのは本当に嬉しい事です


父が退院となれば弟に連絡しないわけにはいきません。
そう思って、その夜電話したのですが

その件については別にアップすることにします。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の状態

2008-08-16 | 実家に関すること
7日に入院した父の、CT検査の結果は虚血性腸炎。
腸を休めるために絶食とし点滴で抗生物質の投与も行うということになりました。
診断名がついたのならカメラの検査はしなくても良いのでは思ったのですが、医師は必要ですと言います

入院して4日目の日曜日(10日)のことです。
9時半のバスで出かけました
病院に着いて、病室に入る前にナースから医師から話があると呼び止められました。
腸炎の治療のために抗生物質を投与していたにも拘らず肺炎になったと言うのです。
最善は尽くすけれどお年もいっているし、もしもの事もあると思ってください

トイレに通うのが大変なので9日に導尿カテーテルを入れた父ですが、その日は鼻に酸素の管が
体がだるいようで、私が付いていた3時間半の間、時々目を開けるものの殆どうつらうつらとした状態でした。それでも声をかけるとちゃんと応えてくれます。
帰ろうかなと思ったころ、父がナースコールを押しました。
痛み止めがほしいと言います。
施設にいても、お昼に痛み止めを服用するのですが1時間もすると服薬したのを忘れて痛み止めをほしがるのです。その日も看護師さんがお昼頃に痛み止めですよと言って呑ませてくれたのですが

42歳の時に事故で頚椎損傷の大怪我を負い、何度も大きな手術に耐えてきた父がこのままでは車椅子の生活になると言われ、最後の大手術に踏み切ったのは15~6年ほど前のことです。病院開院以来初めてといわれるほどの大手術でした。
転倒するまで屋内では杖を使っての歩行が可能だったのはその手術をしたからかもしれないのですが、手足の痛み・痺れは強く残ったように思います。
長い間痛みと闘ってきた父の、さいごに聞く言葉が痛いなぁというのではあまりにも切ない


その日はとても辛い夜を過ごしましたが、翌日行ってみると少し顔色が良いようでホッとしました
少し良くなった父を見たので13日は安心してお墓参りに行くことができました。
そして14日、一緒に行ってくれた夫が病室の入り口で笑顔になりました
父が笑顔で迎えてくれたようです

今日は17時から医師のお話があります。
14時のバスで出かければ15時過ぎに病院へ着きますが、帰宅は19時を過ぎるだろうと思います。
時間もかかりますが、交通費も往復すれば900円になるので家計への負担も大きい
父が快方に向かってくれば、それまで感じる余裕がなかったことにも気が回るようになって、受診の時にもう少し強くいつものT病院にお願いしたいと言うべきであったと思っています
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入院しないという選択

2008-08-08 | 実家に関すること
父の膝はお皿にヒビが入っていました。割れていたのなら手術になり入院も長くなります。ヒビですんだのは不幸中の幸いと言うべきでしょうか。
入院から2週間経った8月5日、父はギブスを付けたまま退院しました。
医師はギブスが取れてからと思ったようなのですが、施設との兼ね合いもあり、またリハビリしかすることが無く、それなら施設でも可能との判断でした。

退院の翌日、父を訪ねた時はまあ元気でした。
ところがその次の日、午後はゆっくりしたいと9時過ぎに施設に行ったところいま電話しようかと思っていたんですよ
夜中から下痢気味になった父の便に、かなりの血液が混じっているという話です。
施設の医師は提携している消化器専門の病院を受診するようにと言います。
いつものT病院ではないのですか言いましたが、専門の病院で診てもらったほうが良いという判断は変わりません。
そのK病院に行くには高速を使って40分くらい。
その日は施設で車を出してくれたので、私も同乗して行くことになりました。

診察の結果は腸炎
少し入院して詳しい検査をと言われましたが、出来れば検査はさせたくない
施設側は、そう言われたのなら入院させてほしいと言います。

施設側がそう言うのなら、入院しないという選択をすることは即ち在宅介護をするということになります。そうなればこの次に施設入所を希望してもすぐに入所はできないでしょう。
施設に暮らすという事は入院せずに自然に任せたいという選択が出来ないということなのですね。

結局父には入院してもらう事になりました。
私が父のために出来たことは忌避が強いようだったら無理に検査しないでくださいとお願いする事だけ。

その日、帰宅したのは19時。そして今日は父の下着や日用品をもって病院へ行ってきました。
道路も良く分からないし、高速を走る自信もないのでバスと地下鉄を乗り継いで一時間以上かかりました。往復するだけで二時間半近くかかりますが、地下鉄駅から徒歩圏内でもあるし、入院は10日くらいの予定なので今回は公共の乗り物を利用して行くことにします。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国の作家

2008-08-04 | 趣味の時間
ロシアの作家であるアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏が亡くなったという記事をネットで見ました。
20代のころ読んだのは確か「煉獄のなかで」
あまりにも難解で、残っているのは読んだという記憶だけ

ロシアは偉大な作家を多く生み出しました。
ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、それにツルゲーネフなんていうのもいましたね。
私が好きだったのはドストエフスキー。
ちょっと自慢ですが、私の時代でも読破する人の少なかった「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を読んだのは短大時代。
でも読んだというだけで、覚えているのはダイジェストを読んだのと変わりないくらいです

年を経て、もう外国文学を読むのは大変になりました。
それでもマイクル・クライトン氏の作品は好きで、図書館で読んでいない作品を見つけると借りてきます。
あの「ジュラッシク・パーク」の作者ですが、息つく暇なく読ませるストーリーテラーだと私は思っています。
何年か前に読んだ「プレイー獲物」なども、結構なページ数だったのに一気に読み終えました

かつて中学生だった頃、可愛がってくれた国語の教師が言ってくれたことを思い出します。
今のうちに外国の作品をたくさん読んでおきなさい。大人になったら読めなくなるから
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

然別へ向けて

2008-08-03 | 趣味の時間
コッタロ展望台から、その日の宿泊地の然別へ向けて車は走ります
然別に行くには阿寒・摩周方面に向けて走ることになりますが、昨年娘夫婦とともに摩周に寄った時は霧が深く湖面を見ることはできませんでした。
なので婿さんのために今回も立ち寄ることにしました。

摩周湖が近付くにつれて山の上のほうに霧が立ち上ってくるのが分かります
今回もダメかもね~言いながらわずかに見える湖面を見ているうちに霧が晴れてきました



摩周湖を後にして、然別に着いたのは18時。
実は然別に宿泊するのは私たちも初めてです。
何度か来たことはあるものの、いつも通過するだけ。

ホテルは湖畔に2軒ありますが、どちらも古いものです。
私が予約したのは全室レイクビューで、口コミ評判の良かったホテルHでした

夕食は湖の見えるレストランでのセットメニューでしたが、以前から鹿肉を食べてみたいと言っていた夫のために鹿の串焼きと鹿肉のタタキを頼んでみました
タタキ1人前と、串焼きは一皿2本なので二皿頼んで5千円
串焼きは一人一本のノルマで何とか食べましたが、肉が固くて美味しいものではありませんでした。

翌日の予定は、婿さんのもう一つの希望である「びばいろ」に行くこと。
旅行雑誌などに取り上げられた隠れ家的お蕎麦屋さんなのだそうです。
帯広駅から車で30分の距離というので、時間はたっぷりありますから遊覧船に乗ってみました。
山にかかっているのは霧ではなく雲だそうです。なかなか風情が感じられました。


お昼前に「びばいろ」に着くだろうと思ったのですが、住所だけが頼りの、何も目印になるものが無いような畑の中の一軒家。
そこへ入って行く道路を通過しようとしたところで娘が案内板を見つけました。危うく行き過ぎるところでしたが12時過ぎに無事に到着することができました
それぞれお蕎麦を頼み、私と娘はほかにわらび餅、婿さんはおにぎりその日運転を婿さんに任せた夫はお酒を頂いて5千円でお釣りが来ました。




この後はどうしようか言いましたら、夫は美瑛に回ろうと。

以前立ち寄った美瑛が気に入った婿さんは釧路に行けなかったら美瑛に行きたいと言っていたので、二泊目は白金温泉にしようかと思ったのですが、今はラベンダーが見ごろでどこも満室仕方なく然別に泊まることにしたのですが、それを踏まえての夫の言葉でした。

富良野の、ラベンダーで有名なファーム富田は15時近いというのに入園待ちの車がびっしり
それをやり過ごして美瑛のほうに入って行きました。


ラベンダーの時季というので心配していたのですが渋滞もなく、高速の混雑もなく・・・ガソリン代高騰の影響なんでしょうか
帰り着いたのは20時近かったので、自宅近くの居酒屋に出かけて今回の旅行は終わりました
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釧路へ

2008-08-01 | 趣味の時間
娘が来たのは7月17日、木曜日。
その夜は我が家で食事をしましたが、翌日の夜は友人たちと飲み会で娘は出かけました。
土曜日の朝、8時過ぎの便で到着する娘婿を迎えに空港まで行き、そのまま釧路に向けて出発しました
熊しか走らないと言われたあの高速道路を走り、一般道に降りて建設途中の開通済み部分高速道路へ。未開通部分は長かった

お昼を過ぎても食事できそうなところは無く昼食は当たらないかもと思いはじめたころ海岸沿いに道の駅
食後、海岸の空気に触れてみました。


釧路に着いたのは14時半過ぎ。
予約したホテルは駅前のビジネスホテルでしたから、まずは駐車場に車を入れました
湿原を走る列車ノロッコ号は14時50分過ぎで、それに乗れなければ翌日の10時50分過ぎになります。14時50分過ぎのに間に合いそうなので釧路駅へと急ぎました


この時、最終駅の塘路まで行くか、ベストビューといわれる展望台に行くために途中降車するか迷いましたが、婿さんの希望で展望台に行くことにしました。
駅舎から歩くこと15分くらいで展望台へ。



まあ、こんなものかと思った風景です。

時間があれば塘路まで行って帰りに展望台に寄るという事も出来たのですが、その時間がないのは残念でした。

今回の旅行で婿さんが希望したのは二つ。
釧路の炉端焼きが食べたい
出来れば帯広近くにあるお蕎麦屋さん「びばいろ」に寄りたい

炉端焼きはネットでも調べて行ったのですが、結局ホテルのフロントで聞いたお店に落ち着きました。
魚貝類やアスパラ、ジャガイモなどを焼いてもらいました。地元の人も来ているようなお店で、味も良かったです。

朝はあの有名な和商市場で勝手丼を食べようと思っていましたのでホテルは食事なしで申し込んでいました。
市場はホテルから徒歩5分の場所です
まずご飯を買うのですが私と娘は小、男性二人は中を求め市場の中に何軒もあるお店を覗いて好きなネタを乗せてもらいます。代金はそこそこで支払います。


最後にお味噌汁を買って、市場の真ん中に用意してある席で頂きました


この日の宿泊地は然別温泉ホテル
途中、ホテルにあったお奨め観光案内の釧路市湿原展望台・湿原散策路コースに寄ってみることにしました。
登ったり降りたり、一周一時間のコースでしたが、湿原ウォークと言うより森林ウォーキング
湿原も乾いてきているとは聞いていましたが、湿原らしき場所を歩くことはできませんでした。

今夜の宿に向けて走っていく途中コッタロ展望台の標識が
コッタロ湿原の名前は聞いたことがあるので、そこに寄ってもらうことにしたのですが一番良い眺めでした



長い木の階段を上って行くのですが、苦労して上ったかいがありました

                              to be continued
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする