日々のつれづれ

日々うららかでありますようにと願ったけれど、平穏な日々は続かない。
穏やかな老後は訪れるか。

保存していた古文書

2019-11-04 | 実家に関すること
母が存命の時に見せてくれたので、実家に古文書があるのは知っていた。
けれどその由来について聞かなかったので、両親ともに亡くなった今は知るすべがない。
両親が亡くなったあと、私はそれを保管していた。
ちょっと見てみたところ尼港事件についての記録で、戦死した人の名前の記述もある。十数枚の原稿が綴じられ、原稿の綴じ目には日本陸軍と書いてあるのが分かる。もしかしたら貴重な資料であるかもしれない。どこかで調べてもらったら良いのではないかと思い、何年か前に街まで出たついでに新聞社を訪ねてみた。
昔は案内嬢がいてしかるべき部署につないでくれたものだが、その時は警備員がいるだけで案内もしてくれなかった。
これはまだ手放す時期ではないという事かもしれない。そのまま帰宅した。

それから数年が経った今年、いつも利用している隣市の図書館で「古文書相談」をしていると知って、お盆が過ぎたころ本を借りるついでにカウンターに立ち寄った。
が、そこでは地域の古文書を主にしているとの事で北海道資料館を紹介してくれた。
北海道資料館は道庁赤レンガ内にあるが、改修のため9月いっぱいで閉館、資料館は移転すると言う。
たまたま9月に友人とランチの予定があり、その時に立ち寄ろうと資料館に電話して約束を取り付けたのだが、夫の体調が悪くなり友人との約束はキャンセル、資料館にもキャンセルの電話をした。
資料館に出かけたのは改修のために閉館間近となった9月末。
10日ほど経って
館内で検討したところ、貴重な歴史資料でありぜひ当館に寄贈していただきたい、との合意を得ました。そこで資料をご寄贈いただけるかお伺いする次第です。
との連絡があった。
親が遺したものが有意義に活用されるのであればと思って私は寄贈を申し入れた。
何度かメールでのやり取りがあったあと、寄贈資料受領書面が送られてきたので必要事項を記入して送り返したところ、10月25日に知事の名前で受領書が送られてきてこの件は終了した。
「何分にも役所なので手続きに時間がかかるかもしれない」と言われていたが、一か月ですべての手続きが終わった。素早い対応であったと思う。



尼港事件とは
ロシア革命後の1920(大正9)年3〜5月、アムール川河口の港町ニコラエフスク(尼港)で、駐留していた旧日本軍や在留邦人約700人、資産家階級のロシア人数千人がバルチザン(不正規軍)に虐殺された。旧ソ連政府は事件後、責任者を処刑。賠償を求めた日本は北樺太を保障占領した。
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叔母の四十九日法要

2019-07-18 | 実家に関すること
5月に亡くなった叔母の四十九日の法要が15日、月曜日に執り行われた。
式場は車で約一時間の距離。
気温は25度くらい。曇り空で暑くもなく、寒くもない過ごしやすい日となった。

母のきょうだいは七人だったが母と4人の兄弟は既に亡くなり、今回次女である叔母も亡くなって三女に当たる叔母ひとりとなってしまった。

参列したのは40人くらい。
叔母の義理の関係、ご近所の方。きょうだいでは三女である叔母と長男の連れ合い、姪・甥と、その配偶者。

そこで叔母の長男から個人的に話を聞くことができた。
叔母が出立するとき、親しくしているご近所の方が車で空港まで送ってくれた。
搭乗までは車いすを使い、スタッフさんの世話で機内へ。到着した時も車いすを押してもらってゲートまで来たようだ。
その時まで長男は母親がそんなにひどい状態だと知らなかったと言う。
「行くのは面倒なんだよね」
と言ってはいたが どうしても行かなきゃ という思いで息子の元へ向かったらしい。
きっとひどく体調が悪く、一人でいるのは無理と考えたのかもしれない。息子のところへ行かなければという一念だったのかと思うと切ない。

母親を看るのは自分しかいない。
母親の移転手続きをするために長男は一人で来道するつもりでいたが、叔母が一人でいるのは不安だから一緒に行くと言い出した。
その時は家の処分は考えていなかった長男だが、戻ってきた際に、叔母が家も処分すると言って不動産業者に頼むことになった。

叔母がどうしようもなく悪くなったのは亡くなる3日前だったと言う。
和室に寝ていたけれど起き上がれなくなり介護ベッド手配をしたその夜、トイレに起き、転んで立ち上がれなくなった。どのくらいの時間か腹ばいになったまま息子が起きるのを待っていたらしい。
明け方トイレの前で息子を見上げる母親を見て息子はこれまでと思ったと言う。

病院ではいつでも入院できるようにしておくと言ってくれていたのでその日入院させた。
翌日の午後、母親はスースーと寝息を立てていたが、脈が下がり終にはフラットになった。
苦しまずに逝ったと思う と。

叔母の人生も決して平坦ではなかったけれど
https://blog.goo.ne.jp/urara_rararara/e/ea3ceecf656b47f220b8f1184c865796 亡くなる前日まで息子と一緒に過ごすことが出来たのは何よりだったと思う。


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突然の知らせ

2019-06-20 | 実家に関すること
年に一度、4月末から9月頃まで横浜の長男のところへ行っていた叔母は、大儀だと言いながらも今年も4月末に長男宅へ向かった。
いつも長男と温泉に出かけ、行った先で私へ名産品などを送ってくれていた。
その叔母から電話があったのは5月16日の夜。私が白内障の手術を受けた翌日の事だった。発信元は叔母宅が表示されたので親せきに不幸があったのだろうか?と思いながら電話に出た。

けれど違った。
叔母は長男のところに身を寄せることに決め、家の整理や、こちらでしなければならない事を済ませるために長男と共に戻って来たと言う。
叔母も高齢なのでいつまでも一人暮らしという訳にはいかない。
長男は今年リタイアの予定で、その後こちらへ戻ろうかという話もあったらしい。
口には出さなかったけれど、長男には向こうで築いた付き合いもあるだろうし、叔母が長男のところに行くのが良いのではないかと思っていた私は、いよいよ決心したんだと思ったのだが。
 
けれど、叔母はあちらに行ってからひどく体調を崩し、病院で診てもらったところ末期のがんだと言われた。全身が侵されていて手の施しようがないと。
羽田までは息子が迎えに来るが、行く時は一人で飛行機に搭乗して行ったのに。それから半月しか経っていないのに。
会いたいと思ったけれど、翌日には長男宅に向けて発つと言う。

あまりの事にその時は言葉も無かったが、翌日短い手紙を書いて送った。
その後何も連絡が無かったので(体調が)悪いのかなとは思っていた。
 
四十九日法要の案内が届いたのは一昨日のこと。
叔母は5月28日に亡くなり、長男と次男の遺族で葬儀を行った。
ついては長く生活していたI市で四十九日の法要を執り行うので臨席頂きたい との案内を読んで涙が
回復は望めないと思ってはいたが、まさかこんなに早いとは
 一度神奈川に行って、と思っていたが叶わなかった・・・
 
叔母さん、もう一度会いたかったよ。
 
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6年が経って

2017-12-12 | 実家に関すること

今月15日で父が旅立ってまる6年になる。

つまり今年は七回忌。

母の時は姉弟で読経をお願いしてお参りしたので、今回も弟から連絡があるかと思っていたけれど、12月に入っても何も言ってくることは無かった。

まあ、良いんだけどね。

 

それなら私たちだけでもと思い、いつもより豪勢なお花とお供物を準備して夫と二人で墓苑に行ってきた。

墓前で読経して頂いている時に、あれ 涙が

 

人生の半分を痛みと闘った父。

最期の時も「この痛みによく耐えられました」との言葉をDr.から頂いた。いまでも思い出すと心が痛くなる。

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売りに出た

2017-12-08 | 実家に関すること

11月下旬から真冬並みの寒気が入り、札幌では水道管凍結が100件に上ったという記事を今朝の朝刊で読んだ。

実家を処分するにあたり、

業者買取にすると価格は仲介で売る場合の60~70%になるが早く売れると言うのは、数社の業者さんとの話の中で知った。

冬になって除雪の心配や水道凍結の心配をすることを考えたら、早くに業者さんに買い取ってもらった方が良いと判断したのだが、こうも厳しい寒さが続くとその選択をして良かったのだと思う。

 

10月に売買契約を済ませた実家はリフォームが終わり、いま売りに出ている

もう私のものではないので中に入ることは出来ないが、ネットで確認してみた。

部屋の壁紙を張り替え、浴室、トイレ、洗面所、台所は新しくなった。
和室と洋室があった2階は、和室を洋室に変更したらしい。


買い物の際、通りがかりにちょっと見てみたら、屋根は塗装し外壁も新しくなって今流行りの良い感じになった。

近くに商業施設もあり、病院も近い。バス停まで5分、地下鉄駅まで徒歩16分という立地だ。

ただ土地が広いのでその分価格が高い。

 

業者さんも早く売りたいだろうけど、私も早く入居者が決まると良いなと思っている。

 

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私の手を離れて

2017-10-10 | 実家に関すること

旅行から帰った一週間後、不動産売買契約を済ませて実家は私の手を離れることになった。

お盆過ぎに動き出して、2か月経たずに終わった。

冬になる前に決めたいと思って、価格が安くなるのを承知で業者さんに売却することを選んだのだったが、こんなに早く決まるとは思っていなかった。

住宅はリフォームして売りに出すようだ。

良い人が住んでくれるといいな~。

 

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仮契約の日

2017-09-22 | 実家に関すること

実家の売却に向けて動き出して一ヶ月半。依頼する業者さんを決めたのは9月11日だった。

金額については『駆け引き無しで、全部出そろったところで一番高いところに決める』と言っていた。いつまで待てるかとの問いに『10日まで』とは言ったものの、9月に入ってすぐにM社から提示があってから最後の見積もりが出た10日までが長かった。

三社目の返事が出たあたりでこれ以上の金額は出ないだろうと思ったが、10日まで待つと言ったのだから待たないわけにはいかない。最後の返事は10日の18時過ぎに届き、翌日に一番高い金額を出してくれたM社に連絡した

それから10日あまり。自分たちで片付けられるものは片付けた。自分で処理できないものについてはM社が仲介してくれる業者さんが安く請け負ってくれることになった。

境界石が見えなくて心配したけれど、それもあった。

ここまで来るのに本当に疲れたが明日仮契約を交わし、10月には本契約となりそうだ。

 

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実家の売却

2017-08-30 | 実家に関すること

実家の売却に向けて動き出したのはUちゃんが帰った日の夕方だった。

これまで新聞に入っていた折込チラシやポスティングされたチラシを取っておいたので、何社か選んで一斉にFAXした。

翌日は夫と二人で庭の草刈り、木の剪定をした。

お盆が明けた17日から業者さんからの連絡が入り、27日までに一通り家を見てもらった。

一日に二社の対応をすることもあり非常に忙しかったが、あとは金額の提示を待つだけとなった。

 

売却となれば家の中のものは処分しなければならない。

親が亡くなったあとの片付けは業者さんにお願いしたもの、リフォーム工事の際に一緒に処分してもらったもの、自分で処分したものと、結構な時間と費用がかかった。

それから見れば残っているものは少ないのだが、まさか再び片付けなければならなくなる日が来るとは思っていなかった。

 

 

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義妹の父親が亡くなった

2016-11-29 | 実家に関すること

先週、義妹の父親が亡くなった事を新聞の訃報欄で知った。お通夜に行かなければならないと思い、お供物を準備するために出かけ、帰宅後夕食の準備も済ませた。

寒い日が続いていて、その夜も冷え込んだ。

斎場に入った際にあちらのお姉さんが私たちに気が付いて挨拶してくださって「(私の)弟に色々助けられて有難い」と言われたが、お姉さんのご主人もいる。社交辞令とは思ってもどう反応したら良いのか分からず、ただ頭を下げて席に着いた。

故人は92歳。3年くらい入院生活を送り、その間に家を継いでいた息子さんを亡くした。喪主である奥様の姿は見えなかったのだが、体調を崩して入院中であると最後の挨拶で知った。

帰り際に義妹に労いの挨拶した折に、お姉さんが「親の事では妹が大変だった」と口にされたのにも戸惑った。これは彼女の妹の事だから社交辞令とは受け取れない。妹が大変なら姉だって大変だろうに。

 

    

三日後に弟からお礼の電話が入って、もう少し詳しくお母さんの様子が知れた。

お父さんが亡くなる少し前に入院したと言う。来週にはその病院を出て、系列の病院に転院しなければならない。そこも2か月しかいられないが、退院しても一人暮らしは無理だろう。施設入所を考えても介護認定は要支援で入所は難しい。

 

佐藤愛子氏の「九十歳。何がめでたい」という本が売れているらしいが、長生きの行きつく先はめでたいとは言えない。

 

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予定がいっぱい

2016-09-15 | 実家に関すること

急遽、旅行に行くことが決まったのは8日のことだ。

図書館から借りている本の返却期限は18日で、旅行に行くとなると今週中に図書館へ行って返却してこなければならない。髪も伸びて美容室にも行きたいと思っていた。

13日は出かける用事があるし、14日は夫が休み。15日はHちゃんの通う幼稚園の祖父母参観だ。←終わって帰宅したところ。

旅行へは17日に出発なので、空いているのは12(月)と16(金)しかない。

私の髪を担当してくれている人は月曜日は休みだと言うので、金曜日に美容室に行こうと予定を立てた。

 

日曜日(11日)21時ごろに電話が鳴った 携帯からで、知らない番号なので出なかった。留守電に変わったらざわざわとした音が聞こえる。そのまま切れたが、またすぐに架かってきた。間違い電話か?と思って出ようとしたら切れた。

そして三度目の電話。出たら母方の叔母だった他の人に携帯を借りたそうだ。

O市に住む伯父が亡くなった。母の、一番上の兄だ。

伯父のきょうだいで存命なのは二人の妹だけ。三人の弟と妹ひとり(私の母)は既に亡い。

伯父の訃報を伝えようと、両親の名代となる弟に連絡を試みたけれど何度電話しても繋がらなかったのだと言う。

故人の弟たちの連れ合いは誰も参列しないそうで、甥・姪も参列しない。だから名代とは言え甥である私の弟に連絡が付かないのなら仕方がないと考えたらしい。

けれど叔母は「連絡したのに来ないのは仕方がないけれど、何も連絡しないのは違うんじゃないか」と言って私に連絡してきたものだった。

その日がお通夜で、もう式は終わっている。それでも告別式には間に合う。月曜日は8時に家を出てJRでO市に向かった。

義理の叔母やその子たちは参列しないと聞いてはいたが、故人の子供たちのほか従兄妹は列席していない。叔母も故人の連れ合いのほかは二人だけ。夫が亡くなってしまったら、夫の兄弟姉妹との関係は切れてしまうのが普通なのだろうか。

帰宅は18時ごろになって疲れたけれど、それでも参列出来て良かった。連絡してくれた叔母には感謝だ

 

* 今週は忙しくていつも読ませていただいているブログを訪ねることができません。週が明けたら読ませてください。

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