食後、食器の後始末を前に、ミカは葛藤していた。
野営の食事後は各自が後始末をするので問題はない。
航海中は船に立派な厨房が備わっていることもあって、ヒロとミオがそれなりに食事を作る。
ならば役割分担として、後始末はウイとミカに振り分けられるのが自然の成り行きで。
当然、その役割分担に異議があるわけでもない。
だがしかし、これはなかなか。
と、厨房で一人、やる気が一ミリグラムも湧いてこない状況に不動を貫いていると
「はーい、お待たせ―!これで全部だよ」
残りの食器を集めて運んできたウイがそれを流し場に積み重ねる。
フルコース並みの食事だったわけでもないのに、4人分ともなると結構な汚れだ。
それらを視界に入れるのも拒否反応があり、流し場から距離を取ったまま動かないでいるのをウイが不思議そうに振り返る。
「どうしたの?」
「いや、うん」
ここまで旅をしてきて、一番に自分の潔癖さが度々障害になることはもう嫌というほど解っていたつもりだったが、そしてそれを何とかねじ伏せ、その場を乗り切ってきたと思っていたが、…まだ完遂には程遠い現実に絶望感さえもある。
そんな逃げ口上を長々述べたが。
ウイには、虚勢をあっさり見抜かれるのが常。
「食器洗うの、やなんだね?」
「…うん」
端から見抜かれると解っている以上、虚勢を張ることもなく、ただ素直にそれを肯定すれば。
ウイは笑った。
「いーよいーよ、じゃあウイが洗うから、ミカちゃんは綺麗になったのを拭いて片づけたらいーよ」
いつもウイが言うことだ。出来る事は出来る人がやれば良い。ミカ自身も、そのことに反対はない。むしろその方が効率がいい。
だが、旅をしてきて仲間意識は高まり、運命共同体ともいえるような間柄での生活部分に直結する役割分担で、それは通用しないのではないかという考えが芽生えてきたのも事実だ。
「いや、待て。覚悟を決めるから」
もう少し時間をくれ、と言うミカをあっさり無視して、ウイは食器の汚れを大きな葉で拭って落とす、という作業を始めてしまった。
「そんなの、待ってたら夜が明けちゃうよ」
とからかい気味に言われては何も言えない。
確かに自分で感じている以上に拒否感があるのか、ウイを手伝おうという気にもならない。
そんなミカを、ウイが振り返る。
「ウイはねえ、ミカちゃんのそういうところは好きなんだけど」
自分の事は自分で出来るようでなければ、というのは幼いころから課されたものだ。
そして自分の意志で下町に出てきたからには、その風俗や習慣に合わせなければ、というのも当然の事なのだが。
ウイは、それを指摘する。
「本当なら、ウイとしてはそういうのは応援しないといけないのかもしれないんだけど」
今はちょっと違う気がするんだよね、と作業を続けながらミカに語り掛ける。
「出来ないことがある、ってすごく大事だと思うんだよ」
「大事?出来ない事がか?」
思わず聞き返したミカに、ウイは頷いた。
なんでも出来て、誰の助けもいらなくて、全部が完璧な人間にならなくちゃ、って構えてるのがミカちゃんだけど。
「そんな完全完璧人間だと、他人に感謝したり、他人を尊敬したりする心が育つ隙が無いよ?」
その言葉は衝撃すぎる。
「心?!心って、育てるものなのか?!ていうか育つのか?!」
「そうだよ、体と一緒だよ。体が育つみたいに、心だって育つんだよ」
「はあ?!どこにあるんだよ、心!!」
そんな…体が育つように、身長が伸びるように、体重が増えるように、「育つ」などと言われても納得できない。
育つってなんだ、育つって。
「うーん、と、心が難しかったら、精神でもいいんだけど」
「精神だって見えねえじゃねーか!」
「あーん、えーと、…じゃあ脳」
「…脳、…脳か、うん、脳はあるな」
医学図鑑で見た。うん、ある。あれが育つ。…育つか。まあそうだな、髪が伸びるんだからまあ脳もなんかそれなりに…何か変化があってそれを育つ、と言う、…かな?
と一人で深刻に悩んでいると、ウイが笑った。
「ミカちゃんは見えるものが大事だからねー」
それはからかう響きではなく、少し困っているようにも感じられたので、言い返すことはしなかった。
黙ってウイの話に耳を傾ければ、ウイは子供に言い聞かせるように話し出す。
「ウイが汚れた食器を洗って、ミカちゃんはそれが出来ないって思ったら、代わってくれてありがとう、で良いんだよ」
それだけの事。それが感謝する心を育てるという事。
「自分では叶えられない事を叶えた人がいたら、すごいね、って称えれば良いんだよ」
それだけの事。それが尊敬する心を育てるという事。
出来ない事を卑下する前に、叶わない事で卑屈になる前に、まずは他人がいる世界を受け止めて賛美する。
世界は自分一人の物ではなく、自分は世界の一部なのだから。
「そうやって心を育てていかないと、すっごくギスギスした生きにくい人になっちゃうよ」
心を育てることを疎かにすれば、人はいつか暴走してしまう。
人は、一人ではないのだ。
「ご飯たべたり、鍛えるために運動したり、賢くなるために勉強したり、そういうのと一緒。心だってちゃんと自分で育ててあげるんだよ」
人に関わって多くの感情に揺さぶられて弱くも強くもある心、その根底にあるものを育てるのは、身体で鍛錬することと何ら変わりはないのだとウイは言う。
それは教師が言う事と同じようにも思えた。
自分を律し、自分を制する事ができるようであれ、と教育されてきた事が。
「今、ミカちゃんに必要なのは、それなんだと思うよ」
足りなかったという事か?
「俺の心が育てられていないと?」
「ミカちゃんだけじゃないよ、ヒロもミオちゃんも同じだよ」
育てられているかどうかは重要じゃないの、とウイはミカに言い聞かせる。
「今ここで、四人が一緒にいることが重要なんだよ」
自分以外の誰かがいる。誰かが手助けをしてくれる。困ったときに助けられる。助けられた事実に、心は感謝を育てる。
繰り返し繰り返し他人に感謝できる心はやがて大きく育ち、何の衒いもなく素直に他人を助ける。
「それを四人でやるんだよ」
四人で、と言って、立てた指をぐるぐる回して見せた。
「例えば勝ち負けだってそう。勝つことばっかり頑張って、勝つためだけに全力出して、勝つことしか考えない、それって凄く簡単なんだよね」
本当に難しいのは、負けることに向き合う事だ。
勝つことに費やした時間と同じだけ負けることに向き合う時間を費やすべきなのに、勝者ばかりが正しい世界では、敗者になる事から逃げて勝つことに執着する。
勝てばいい。どんな事をしても勝てばいい。敗者となる自分と向き合うのが恐ろしいからどんな手を使ってでも勝たなくてはならない。そんな風に世界が歪む。
「たぶん、ヒロが勝負事を苦手としてるのは、そういう所なんだと思うよ」
だから得意なミカちゃんと苦手なヒロが上手にぐるぐる回したらいい、とウイが言う。
それこそがヒロとミカが一緒にいる意味であり、お互いから学ぶべきところがあるはずなのだ。
「二人でできないところはミオちゃんも一緒にしたらいいし、ウイも混ざるし」
そうあるからこそ、ここに4人が必要なのだ。
まずは言葉が届き、手を繋げる相手がいる世界から、すべてが始まる。
「そうしてたら、ミカちゃんにも見えてくるよ」
心。
「……」
そう言われても、素直に納得できない。
心が見えるはずもない、という概念はそう簡単には崩せそうもない。
だが、今のミカに必要だ、というウイの話は解った気がする。
4人でいる事の意味。
貴族社会の中では体験することのできない重要な世界に身をおいて、それを助けてくれる仲間がいる意味。
出来ない事をできるようにならなくては、と一人心を無にしてできるようになったところで、得るものなど皿洗いの克服だけ。
皿洗いが必要になる未来など、ミカの生涯には不要だ。そんなものよりも目の前にある大事なものを見ろ、とウイは言うのか。
人は、一人ではない。嫌でも他人がいる。それらすべてを排除して生きていく事が出来るはずもない。
だから。
心を育てろ、と、今、指し示されている。
「わかった」
「あ、わかった?ふう、良かったー」
わざとらしく、ふう、とか言うそれは、今度はからかいの意味合いが強くて、さて何と言い返してやろうか、と思ったが。
「ありがとう」
と言ってみた。
「どういたしまして!」
とウイは笑顔を見せる。
「じゃあ出っ来るウイがテキ・パキと洗ってしまいますのでえ、後はよろしくぅ♪」
調子はずれな歌を歌うように軽く請け負いミカに背中を向けて、本格的に皿洗いの体勢に入るウイを見て、ミカは傍の椅子に腰かけた。
従者がいれば任せてしまえば良い事。
それらを従者ではない仲間に任せてはいけないと考えていたことが、覆される。
従者ではない仲間だからこそ、任せて頼らなくてはならない時もある。それに感謝と、尊敬を忘れないで。
自分にできない事を成す人間が集まって創り上げているのが世界であるという事を忘れないで、生きていく。
それが、今のミカに必要な事だ、と言ったウイの背中に光を見た時。
「ああー…、だからなんでウイ一人にさせるかなー…」
と、厨房を除きに来たヒロがぼやくのが聞こえた。
それにウイが答える。
「ダイジョーブ!今、ウイのターンだから!」
「ええー?そうなの?」
「ウイ無双!」
「ミカのターンはいつくんの?」
「このあとすぐ!お見逃しなく!」
ああそういう事、とヒロが笑う。
世界はぐるぐる回されている。
船旅が始まったころのお話