私達はこの世に生を受けた瞬間から、自分の時間を生きている。意識しないまま時間を感じ、泣き、要求し、笑い、怒り、満たされてきた。それはすべて自分のものだった。
そして自分を意識し始めた頃から、他者の存在を知り他者によって生かされている自分も発見する。そこから他者の欲望、他者の要求を自分の時間に組み込もうとしながら、それが自分の望みと拮抗する矛盾に苦しむことになるのだ。
私が元夫と生活していた頃、私の頭の中は常に元夫で一杯だった。なぜか。
例えば私が元夫と話したい、と思い話しかける。そうすると元夫は「おまえの日本語はおかしい」「俺がテレビを見ているのがわからないのか?」「そんなつまらない話しはどうでもいい」と反応する。すると、私はそのことで頭がいっぱいになってしまうのだ。ちゃんとした日本語を話さなくては…こういう言い方で大丈夫だろうか(まず言いたいことを復唱する)。今はテレビとか新聞を見ているから黙っておかなくては。この話題は話したら嫌がられるかもしれない…。こんな思いに囚われ続けることになる。
この料理はおいしいし私も好きだ。だから夕食に作ろう、と思って夕食を用意する。すると元夫は「なんだこれ、まずそうだな」「食べたくない」「臭いが変、いらない」「俺にこんなモノを食わせる気か」と拒絶反応が返ってくる。するとまた私の頭はそのことでいっぱいになってしまう。このメニューで大丈夫だろうか…なるべく夫の好みのメニューを作ろう…。また怒るだろうか…。不機嫌になって怒鳴るかもしれない…。
今日は職場の忘年会があり、元夫に帰りが遅くなることを了承してもらった。でもその時の元夫は不機嫌な顔をしていた。忘年会の最中も夫の顔色が頭に浮かび時計ばかりが気になってしまった。とても盛り上がっているが、そろそろ帰らないと元夫が大変なことになる。先に帰らせてもらおう…。
このように、モラ元夫は私がよかれと思うこと、やりたいと思うことをことごとく否定することで、モラ元夫自身の考えや感情に私が支配されるようにし向けた。その方法は功を奏し、私は何をするにもまず元夫が何を考えるか、何が好みか、どのようにすれば機嫌を損ねることがないか、ということで常に頭をいっぱいにしていた。そしてそうすることで、元夫の機嫌を良くし、元夫からの愛情を受けようとしていたのだ。しかし、それを喜んでするのではなく、元夫への恐怖から、何とか元夫が怒らないように、と怯えながら元夫の望むものを必死に探っていたのである。
私は元夫と生活しているときは、常に元夫のことに時間を費やしていた。何をするにも、どんな時間を過ごすにも、「夫だったらどう思うだろうか。こんなこと言ったら怒るだろうか」「出かけたいけど、夫が反対するだろうからあきらめよう」「夫はこの料理を食べてくれるだろうか」「また夫が無視した…なんでだろう」「こんな時間になってしまった…夫にまた怒られる」「夫はなぜ怒るのだろう」「夫にいつ話しかけよう…」「夫の足音が怒っている…どうしたら機嫌が戻るのだろう」
こうして、私は自分の時間の殆どを、元夫のために使っていた。私は次第に自分を見失い、自分をおざなりにし、不毛な夫との関係に自分の時間を消耗していた。自分の時間…それは自分の人生だった。そう、私は自分の人生を自分のためにではなく、夫への愛情のためにでもなく、元夫から与えられる恐怖を必死でコントロールするために消耗していた。元夫の過去の言動を気にし、今日の言動に怯え、明日の言動について想像し不安になり…そう、私はまったく私自身のために時間を使えず、私自身を生きることができなかったのだ。だからもちろん、私自身の感情も想いも、希望も…押し殺し蓋をしていた。
人は様々な人との関係の中で生きている。多分自分のためだけに時間を使っている人は殆どいない。家族のために時間を使い、仕事のために時間を使い、友人と過ごすため自分の時間を使う。しかしそれは、自分自身も必要としている時間なのだ。家族と心地よい生活を送るために自分と家族の分の料理を作る、家の中を掃除する。仕事のために時間を使っているのは、自ら選んだその仕事を通してお給料をもらって生活し、自分が社会で役割を持ち、仕事を通した様々な人間関係の中で自らが成長するため、でもある。誰かのために生きている、と言う時には、その人自身がその誰かを必要としているから、自ら欲しているから、その『自ら』を生きているのだ。
それがもし、その『自ら』がなく、全く他者の欲望、他者への恐怖で自分が全く望まないのにロボットのように動かされているとしたら…あるいは自ら望んでいるのだと錯覚させられているとしたら…その行き先には自らの魂の死が待っている。
私がモラ元夫と生活していた最後の方では、私の魂はかなり末期症状を呈していた。元夫の意味不明な不機嫌、罵詈雑言、に戸惑い、苦しみ、何とかいい関係を取り戻そうと努力したものの、私自身は繰り返されるモラハラにすっかり疲弊していった。そして常に暗い表情になり、常に怯え、恐怖に突き動かされながら日々を送り、そのうちに私自身の中にも夫への憎しみが生まれ、増幅し殺意をも抱いた。その先は破滅しかなかった。自分を見失うとは、ほんとうに恐ろしいことだ。
先日、私は友人夫婦と一緒に花火を見た。少し前から約束をし、仕事が終わってから友人宅に向かった。そして友人夫婦と花火を見ながら、興奮し、手を叩き、花火への感動を思い思いに言い合い、食事をしながら時間を忘れて世間話をした。
その時改めて思ったのだ。私は心から望んでこの場にいるのだ、と。誰に気兼ねもせず、誰に怯えることもなく、友人とともにこの時間を楽しんでいる。これが私自身の時間を生きる、ということなのだ、と改めて強く実感した。そうだ、思い返せば私は元夫と別居して以来、少しずつ自分の感覚を取り戻し、「私」が望むことを少しずつ実現していったのだった。そこで、はじめて自らを生きる、ということが少し理解できた気がするのだ。
他人と過去は変えられない、と言う。変えられるのは自分と未来だ、と。
過ぎ去った昨日のことはいくら思ってもどうしようもない。明日だって、実際に明日がくるかわからない。私達は常に「今」しか生きられないのだ。その「今」を精一杯生きるしかない。だから今、自分なりにできることをすることが大切である。それが明日へつながっていくのだ、とある人が話していた。これはお釈迦様の教えらしいが…。
やはり自分自身を生きている、という感覚がなければ「今」を実感できないように思う。よりよい「今」を生きるには、「自分」が主体でなければならない。誰かのことで頭がいっぱいだったり、常に未来ばかり不安に思っていたり、過去のことばかり思っていても、それは「今」を生きていることにはならない。
私達は「今」しか生きられない。その「今」は、常に私達の手の中にある。「今」はいくらでも変えられる。そして「今」はいつも私自身のものなのだ。
モラやそのしがらみと離れた今、心から自分自身の「今」を感じている。
絶えず恐怖に怯える「今」、あるいは他人のことで頭をいっぱいにして「今」を生きるのか。自分で行動し満足し誰からも脅かされない「今」を生きるのか。
そしてきっと誰もが自分の「今」を生きることがきる。気づきさえすれば…
そして自分を意識し始めた頃から、他者の存在を知り他者によって生かされている自分も発見する。そこから他者の欲望、他者の要求を自分の時間に組み込もうとしながら、それが自分の望みと拮抗する矛盾に苦しむことになるのだ。
私が元夫と生活していた頃、私の頭の中は常に元夫で一杯だった。なぜか。
例えば私が元夫と話したい、と思い話しかける。そうすると元夫は「おまえの日本語はおかしい」「俺がテレビを見ているのがわからないのか?」「そんなつまらない話しはどうでもいい」と反応する。すると、私はそのことで頭がいっぱいになってしまうのだ。ちゃんとした日本語を話さなくては…こういう言い方で大丈夫だろうか(まず言いたいことを復唱する)。今はテレビとか新聞を見ているから黙っておかなくては。この話題は話したら嫌がられるかもしれない…。こんな思いに囚われ続けることになる。
この料理はおいしいし私も好きだ。だから夕食に作ろう、と思って夕食を用意する。すると元夫は「なんだこれ、まずそうだな」「食べたくない」「臭いが変、いらない」「俺にこんなモノを食わせる気か」と拒絶反応が返ってくる。するとまた私の頭はそのことでいっぱいになってしまう。このメニューで大丈夫だろうか…なるべく夫の好みのメニューを作ろう…。また怒るだろうか…。不機嫌になって怒鳴るかもしれない…。
今日は職場の忘年会があり、元夫に帰りが遅くなることを了承してもらった。でもその時の元夫は不機嫌な顔をしていた。忘年会の最中も夫の顔色が頭に浮かび時計ばかりが気になってしまった。とても盛り上がっているが、そろそろ帰らないと元夫が大変なことになる。先に帰らせてもらおう…。
このように、モラ元夫は私がよかれと思うこと、やりたいと思うことをことごとく否定することで、モラ元夫自身の考えや感情に私が支配されるようにし向けた。その方法は功を奏し、私は何をするにもまず元夫が何を考えるか、何が好みか、どのようにすれば機嫌を損ねることがないか、ということで常に頭をいっぱいにしていた。そしてそうすることで、元夫の機嫌を良くし、元夫からの愛情を受けようとしていたのだ。しかし、それを喜んでするのではなく、元夫への恐怖から、何とか元夫が怒らないように、と怯えながら元夫の望むものを必死に探っていたのである。
私は元夫と生活しているときは、常に元夫のことに時間を費やしていた。何をするにも、どんな時間を過ごすにも、「夫だったらどう思うだろうか。こんなこと言ったら怒るだろうか」「出かけたいけど、夫が反対するだろうからあきらめよう」「夫はこの料理を食べてくれるだろうか」「また夫が無視した…なんでだろう」「こんな時間になってしまった…夫にまた怒られる」「夫はなぜ怒るのだろう」「夫にいつ話しかけよう…」「夫の足音が怒っている…どうしたら機嫌が戻るのだろう」
こうして、私は自分の時間の殆どを、元夫のために使っていた。私は次第に自分を見失い、自分をおざなりにし、不毛な夫との関係に自分の時間を消耗していた。自分の時間…それは自分の人生だった。そう、私は自分の人生を自分のためにではなく、夫への愛情のためにでもなく、元夫から与えられる恐怖を必死でコントロールするために消耗していた。元夫の過去の言動を気にし、今日の言動に怯え、明日の言動について想像し不安になり…そう、私はまったく私自身のために時間を使えず、私自身を生きることができなかったのだ。だからもちろん、私自身の感情も想いも、希望も…押し殺し蓋をしていた。
人は様々な人との関係の中で生きている。多分自分のためだけに時間を使っている人は殆どいない。家族のために時間を使い、仕事のために時間を使い、友人と過ごすため自分の時間を使う。しかしそれは、自分自身も必要としている時間なのだ。家族と心地よい生活を送るために自分と家族の分の料理を作る、家の中を掃除する。仕事のために時間を使っているのは、自ら選んだその仕事を通してお給料をもらって生活し、自分が社会で役割を持ち、仕事を通した様々な人間関係の中で自らが成長するため、でもある。誰かのために生きている、と言う時には、その人自身がその誰かを必要としているから、自ら欲しているから、その『自ら』を生きているのだ。
それがもし、その『自ら』がなく、全く他者の欲望、他者への恐怖で自分が全く望まないのにロボットのように動かされているとしたら…あるいは自ら望んでいるのだと錯覚させられているとしたら…その行き先には自らの魂の死が待っている。
私がモラ元夫と生活していた最後の方では、私の魂はかなり末期症状を呈していた。元夫の意味不明な不機嫌、罵詈雑言、に戸惑い、苦しみ、何とかいい関係を取り戻そうと努力したものの、私自身は繰り返されるモラハラにすっかり疲弊していった。そして常に暗い表情になり、常に怯え、恐怖に突き動かされながら日々を送り、そのうちに私自身の中にも夫への憎しみが生まれ、増幅し殺意をも抱いた。その先は破滅しかなかった。自分を見失うとは、ほんとうに恐ろしいことだ。
先日、私は友人夫婦と一緒に花火を見た。少し前から約束をし、仕事が終わってから友人宅に向かった。そして友人夫婦と花火を見ながら、興奮し、手を叩き、花火への感動を思い思いに言い合い、食事をしながら時間を忘れて世間話をした。
その時改めて思ったのだ。私は心から望んでこの場にいるのだ、と。誰に気兼ねもせず、誰に怯えることもなく、友人とともにこの時間を楽しんでいる。これが私自身の時間を生きる、ということなのだ、と改めて強く実感した。そうだ、思い返せば私は元夫と別居して以来、少しずつ自分の感覚を取り戻し、「私」が望むことを少しずつ実現していったのだった。そこで、はじめて自らを生きる、ということが少し理解できた気がするのだ。
他人と過去は変えられない、と言う。変えられるのは自分と未来だ、と。
過ぎ去った昨日のことはいくら思ってもどうしようもない。明日だって、実際に明日がくるかわからない。私達は常に「今」しか生きられないのだ。その「今」を精一杯生きるしかない。だから今、自分なりにできることをすることが大切である。それが明日へつながっていくのだ、とある人が話していた。これはお釈迦様の教えらしいが…。
やはり自分自身を生きている、という感覚がなければ「今」を実感できないように思う。よりよい「今」を生きるには、「自分」が主体でなければならない。誰かのことで頭がいっぱいだったり、常に未来ばかり不安に思っていたり、過去のことばかり思っていても、それは「今」を生きていることにはならない。
私達は「今」しか生きられない。その「今」は、常に私達の手の中にある。「今」はいくらでも変えられる。そして「今」はいつも私自身のものなのだ。
モラやそのしがらみと離れた今、心から自分自身の「今」を感じている。
絶えず恐怖に怯える「今」、あるいは他人のことで頭をいっぱいにして「今」を生きるのか。自分で行動し満足し誰からも脅かされない「今」を生きるのか。
そしてきっと誰もが自分の「今」を生きることがきる。気づきさえすれば…
モラ人間の支配の構造が見事に描き出されている、いつもながらのウメさんの素晴しい文章力につい引き込まれるようにロムしました。
多分モラ人間を相手にしている(していた)殆どの方がこのような心理状態に陥っている(いた)のではないでしょうか。かく言う私も全く同じ状態でした。
ただ気付いていてもモラと同居している限り、頭の中はモラと切り離す思考にはなりませんでした。
全ての人間性を否定し尽くされた最後には犯罪という名の乗り物が待っていたと思います。
モラ人間が通った後にはいろいろな残骸が飛び散っているのでしょうね。
気付く事、そして離れる事、それがモラ支配から逃れる最大の解決法だと実感しています。
ウメさんの最後の一言が、とくに胸にじーんとしみました。
ちょうど自分のブログでも、「気づき」について書いた
ところだったので、なおさらなのかもしれません。
そうなんですよね、気づくことがいかに大切なことか。
「認識していないものは変えられない」というのは、
米国のある心理学者の言葉ですが、ほんとうにその
とおりだと思います。逆に言えば、認識さえすれば
変えられる。大変な作業になるかもしれませんが、
変えることはできる。
気づくことは、わたしにとって大きな一歩でした。
世の中には、パソコンを使える環境ではなく、モラハラ
という言葉も知らずに、地獄の苦しみを味わいつづけて
いる人が少なくないでしょう。それを思うと、胸がいたみます。
もっともっとモラハラという言葉が普及して、誰もが
知っている概念になるといいですね。
今年になってモラハラということを知りました。
まさに主人がそうだ!と。最近、umenokiさんの
ブロッグにたどり着きました。
今の私の状況とにてる。。。と思いなんとも言葉が出ない状態です。umenokiさんのようにもっと
自分を変えていかなくてはと思ってます。
勇気をありがとうございます。
暑い毎日ですが、お元気にされていましたか?
モラと生活している限り、
モラは絶えず自分のことをアピールし
妻はそれに支配され振り回され続けますよね…。
そしてよーにゃんさんの言われるとおり
それがモラハラなんだと気づいても
モラから離れない限りは、その支配から逃れることはできないと
私も強く思います。
モラとまともに向き合おうとし続ければ
ほんとに、病気で倒れるか、犯罪が勃発するか、
自分自身を見失いモラの奴隷ロボットになるか…
という悲劇が待っているだけのように思います。
私もまさにそうでした。
よーにゃんさん、ある時モラハラに気づき
掲示板で言葉を交わしながら
お互いに勇気を送り合い、こうして厳しいモラ支配から
決別できたことを思うと…感無量です(涙)。
ウメより
暑い毎日ですね。。。
気づく、その意味を知る、ということは
とても大切だと思います。
私も、モラハラについて知る前は
元夫の言動の意味を知ろうと躍起になっていました。
それが、モラハラという言葉を知り
元夫からモラハラのサインを理解したときに
私は自分の人生を変えようと決意したのです。
気づく、というのは解決に向けた第一歩ですね。
気づくことで、モラハラから心理的に距離も置けると思います。
マーチさんのブログ、いつも拝見しています。
応援しています!
ウメより
拙いブログを読んでいただきありがとうございます。
私のかつての結婚生活と似た状況がおありであれば
sjiroさんもきっと、苦しくお辛い日々をお送りなのではと
お察しします。
ただ今まで意味不明だった夫の言動が
モラハラだと知ることによって、
これからの生き方が自ずと示されてくると思います。
モラ被害関連のブログを読むと
たくさんの方の涙と勇気が自分に力を与えてくれますし
モラハラから離れる方法もたくさん掲載されています。
どうかそれらを参考にされ、
sjiroさんが、自らの人生を取り戻すことができますように
心からお祈りしています。
ウメより