2011年5月6日(金)
宇和島城の次に向かったのが大洲城である。
大洲市民会館
大洲城の目と鼻の先にある。
明治時代の民家が並んでいる。
大洲城天主閣が目の前だ。
手前に見えるのは、重要文化財の高欄櫓(こうらんやぐら)である。
下台所
大洲城に残る当時の建造物は4つの櫓とこの下台所のみである。
城内の食料庫としての機能を果たしていたと伝えられている。
県の有形文化財に指定されている。
大洲城の4つの櫓
高欄櫓、台所櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓の4つの櫓が重要文化財に指定されている。
三の丸南隅櫓は本丸から少し離れた民家の宅地内にあるため行かなかったが、見ておくべきだったと悔やまれる。
天主閣と高欄櫓を望む。
大洲城天主閣の礎石
全部で16個あったと想定されているが、発見されたのは6個のみであとは抜き取られている、そうだ。
近江聖人 中江藤樹先生像
名は原、通称与右衛門。
生家は近江の小川村で屋敷内に大きな藤の木が生い茂り、その下で学問を積み、敬い集まる人々を導いたことから、
藤樹先生と呼ばれ、後の世の人々からは近江聖人と敬慕されてきた。
大洲では10歳から27歳までを過ごした、立志・感恩・勉学の地であることから銅像が建てられた。
暗り(くらがり)門跡
天主に至る最後の城門で、城内で最も大きい櫓門であった。
かつては、門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていた。
通常の櫓門と異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていた。
大洲城本丸
左から、高欄櫓、天守閣、台所櫓
天守閣、台所櫓
台所櫓が天主閣への入口になっている。
大洲城天守閣
天守閣内部
天守閣内部
鯱瓦の見本
天守閣建設のジオラマ
天守閣からの眺望(その1)
天守閣からの眺望(その2)
天守閣からの眺望(その3)
天守閣からの眺望(その4)
高欄櫓
高欄櫓内部
苧綿櫓(おわたやぐら)
肱川(ひじかわ)の土手に突出して造られ、旧二の丸の東南隅にあたる。
大洲市民会館のすぐ横に建てられている。
この後、大洲城からほど近い「おはなはん通り」にある料理屋「旬」で昼食を摂り、
明治時代の建物を眺めながら「臥龍山荘」に向かい、庭園を見学したが、ここでは割愛する。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
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宇和島城の次に向かったのが大洲城である。
大洲市民会館
大洲城の目と鼻の先にある。
明治時代の民家が並んでいる。
大洲城天主閣が目の前だ。
手前に見えるのは、重要文化財の高欄櫓(こうらんやぐら)である。
下台所
大洲城に残る当時の建造物は4つの櫓とこの下台所のみである。
城内の食料庫としての機能を果たしていたと伝えられている。
県の有形文化財に指定されている。
大洲城の4つの櫓
高欄櫓、台所櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓の4つの櫓が重要文化財に指定されている。
三の丸南隅櫓は本丸から少し離れた民家の宅地内にあるため行かなかったが、見ておくべきだったと悔やまれる。
天主閣と高欄櫓を望む。
大洲城天主閣の礎石
全部で16個あったと想定されているが、発見されたのは6個のみであとは抜き取られている、そうだ。
近江聖人 中江藤樹先生像
名は原、通称与右衛門。
生家は近江の小川村で屋敷内に大きな藤の木が生い茂り、その下で学問を積み、敬い集まる人々を導いたことから、
藤樹先生と呼ばれ、後の世の人々からは近江聖人と敬慕されてきた。
大洲では10歳から27歳までを過ごした、立志・感恩・勉学の地であることから銅像が建てられた。
暗り(くらがり)門跡
天主に至る最後の城門で、城内で最も大きい櫓門であった。
かつては、門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていた。
通常の櫓門と異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていた。
大洲城本丸
左から、高欄櫓、天守閣、台所櫓
天守閣、台所櫓
台所櫓が天主閣への入口になっている。
大洲城天守閣
天守閣内部
天守閣内部
鯱瓦の見本
天守閣建設のジオラマ
天守閣からの眺望(その1)
天守閣からの眺望(その2)
天守閣からの眺望(その3)
天守閣からの眺望(その4)
高欄櫓
高欄櫓内部
苧綿櫓(おわたやぐら)
肱川(ひじかわ)の土手に突出して造られ、旧二の丸の東南隅にあたる。
大洲市民会館のすぐ横に建てられている。
この後、大洲城からほど近い「おはなはん通り」にある料理屋「旬」で昼食を摂り、
明治時代の建物を眺めながら「臥龍山荘」に向かい、庭園を見学したが、ここでは割愛する。
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