沖縄と言えば一般市民を巻き込んだ日本で唯一地上戦が行われた場所としても知られる。
その戦闘は日米双方で20万人を超える戦死者を出していることでも分る通り、過酷を極めたとされている。
戦死者の内、米兵は1万2千人、沖縄県の住民は戦争協力者を含めて何と14万人にも上るというから凄い。
当時の沖縄の人口が50万人弱だったというから、約4人に1人がこの戦争で命を落とした計算になる。
ただ、東京大空襲で8万から10万人が犠牲になっているし、原爆の被害では広島で14万人、長崎で7万人の民間人が尊い命を落としている。
そういった数字から見れば、沖縄の民間人の犠牲者数は数字だけ見れば、決して突出しているわけではない。
しかしながら、沖縄は基地問題も戦後一人で背負ってきたような面があるせいか、戦争や軍隊への反発は相当なものがあると思われるし、平和への希求も半端じゃないような気がする。
日本全体でそういった傾向があるものの、沖縄のそれとは比較にならない感じがしていた。
沖縄の声はもっと悲痛で生々しく心の叫びに聞こえていた。
過去に3回沖縄を訪れているが、戦跡巡りはむしろ積極的に避けてきた。
こうした背景を踏まえると、余りにも悲惨で、戦闘に巻き込まれて死んだ住民達の苦しげな声が聞こえてきそうで、とても行く気がしなかったのだ。
何も知らないのなら、ともかく、充分な知識を持っている自負もあるし、楽しい旅行という観点からも、気持ちがブルーになってしまうのが嫌だったからだ。
しかし、今回父を連れて行くにあたり、戦跡巡りをメインイベントにせざるを得なかった。
61年前に海軍による学徒動員で大分・海軍航空工廠で零戦整備をしながら、米艦載機の機銃掃射や爆弾投下を掻い潜ってきた父は戦場へ行ってなくとも立派な戦争体験者であり、多くの級友たちを実際に亡くしている。
父は入ろうとした防空壕が満員の為、断られたが、その満員だった防空壕に直撃弾が落ちて全員が即死したという体験を持つ。
別な壕に滑り込んで助かったが、戦争とは常に死と背中合わせにあるといっていい。
空襲警報が鳴り響く中、雲の子を散らすように級友達が逃げ惑う中、艦載機が攻撃してくる様は戦場そのものだったらしい。
避難した”たこつぼ”(小さな一人用の防空壕)から外の様子をこわごわ窺ってると、米パイロットが風防を開けて地上の様子を確認しながら、さながら獲物を追い詰めていくハンターのようにニヤリと笑って舌なめずりする様は、とても恐ろしく強烈な印象があって、今でも脳裏から離れないと言う。
そんな父にとって、沖縄で同じように軍令によって学徒でありながら、軍に協力して戦争で逝ってしまった少年・少女の事はとても他人事とは思えず、そういう人たちの礎なくして自分達の繁栄はあり得なかったと考えるのはとても自然な事だ。
どうしても現地へ行って慰霊碑の前で手を合わせたいという気持ちが人生の終盤において自然に湧いてくるのも分る気がした。
そんな事情があったので、初めて沖縄の戦跡を訪ねることになったのである。
実際に行ってみると、自分の知識の浅さにすぐ気づかされる事になった。
そしてもっと大きな沖縄県民の心の痛みが分ったような気がした。
言い換えるとそれは「琉球民族の痛み」といっても良いだろう。
今でこそ日本国・沖縄県だが62年前はどうだったんだろう?
当時は本土よりそんなに人口の流入はなく、まだ沖縄県というより琉球といった方が相応しかったのではなかろうか。
大本営の唱える「本土決戦」に備え、作戦らしい作戦もない単なる持久するためだけの「捨て駒」として沖縄が使われた感じがありありで日本軍はそもそも県民を守るという気は全くなかったらしい。
それだけでなく、降伏勧告書を持っているというだけで日本軍に殺された住民は1000人は下らないし集団自決させられたのは800人程いるらしい。
一日でも長く食い止めて死を以って米軍の占領を阻むべしが課せられたようだ。
たとえ民間人でも自分の領地を攻めて来る奴には自衛のために戦っても良いわけだが、それ相応の武器もなく対抗手段もなく、降伏はするなとされれば犬死するより他ない。
「1億総玉砕」とか何とかいって、日本人が絶滅するのもナンセンスな話だが、結果としてそれが回避されたことで、余計「沖縄の悲劇」が強調された感が強い。
二度とこんな悲劇を繰り返さないように、新しい世代へ語り継いでいかなくてはならないと痛感した。
そして、今までもこれからも、犠牲になった方々を忘れることなく、またその死を無駄にすることなく、平和維持のために日本人は全力を尽くすべきだと改めて思った。
現在は広大な米軍基地を抱えて米兵の犯罪にも泣き寝入り。
のうのうと暮らしている私はいつも沖縄の方々へ自責の念を感じています。
今の国の方針は未だに沖縄を捨て駒としか見ていないような気がします。
昔「東京に原発を!」という言葉が流行りましたが、もしこれからもアメリカ追随政策を続けるならば、沖縄の米軍基地を東京の真ん中へ移転したらどうでしょうか?
嫌なものを地方へ押し付けるのは誠に失礼ですもんね。
沖縄の米軍基地は沖縄経済をそれなりに支えてきた一因でもあるので、その事を考慮すると急に歯切れが悪くなるのも確かです。
基地あっての沖縄という側面も決して無視できないのです。
とはいえ、これからの沖縄は多角的に経済を活性化する方策を見出す必要があるし、脱基地へ向けて新しい一歩を踏み出すべきですね。
それには国のサポートや国民の理解も必要でしょう。
過去の苦しみを乗り越えて、沖縄がさらに発展するよう祈りたいものです。
そのすさまじさに何とも言えない気持ちになります。
夜寝る前に読むとうなされるので、止めたほどです。
「軍隊に自決を強制された」という事実は無いとした政府の
歴史ねじ曲げにあれほど反発する気持ちがほんの少しですが分かります。たまったモンじゃないですよね。
白黒をつけられる資料は少ないので、自決強要があったかどうかはハッキリしてないようです。
両方を裏付ける資料がそれぞれありますが、真実は分りません。
でもそんなことはどうでもいいことで、自決せざるを得ない方向へ住民達を巻き込んでいた事は間違いのない事実だったわけですから。
戦って死ぬのなら分りますが、軍隊の都合や美学まで住民に強要せざるを得なかった当時の日本軍とは狂気の軍隊であったと言えますね。
それほど精神的に追い込まれていたとしか思えません。
持久戦に持ち込み玉砕して時間稼ぎをして、勝利できる材料でもあったのなら立派な戦死とも言えますが、「滅ぶ」という事を目指すなんて全く理解できませんし犬死だったとしか表現できません。
我々に出来ることは彼らの死を無駄にせず後世に伝える事しかないと思います。
ボクも祖父やその友達、近所の人から戦争体験を聞きました。今はみな故人ですが。祖父の友人は頭にヘルメットを突き抜けて当たった銃弾の痕があって、このお陰で帰って来れたと笑っていたけど、本当に生々しかったです。それからボクが小学生の時に教わった習字の先生は特攻隊の生き残り。昔はこうした戦争経験者がたくさんいましたが、今は本当に少なくなりました。夏になるたびにテレビで特集される太平洋戦争関連の番組を見ていても、どこか形式になってきている気がするんですよね。
今、生きた話を伝えることが本当に重要だと思います。
実際に体験した私にはその怖さは良く判ります。
私達は空爆でしたが、それでも人はゴロゴロと焼け死んでました。
実際米軍が上陸された沖縄県民の心は計り知れません。
ひめ百合の塔・・・どれだけの若い女性が弾頭に倒れ、そして自害をも強いられた事か・・・
あの頃の日本人は洗脳されてました。お国のため、お国のためとどれだけの人が命を落としたか・・食べるものも無い着るものも無い時代を過ごした私達には、今の若者は平和の上に胡坐をかいて座ってますね。
この方たちの犠牲の上に今の日本が有ると思います。
悲惨さは目を逸らさないでシッカリと見つめる事だと思います。
そして後世までも語り継ぐべきだと思います。
大和ミュージアムで見た、あの特攻隊員の遺書は、私の心から離れません。彼等には青春は皆無だったのですね・・・
やっぱり見せ方や語り方で相当変わってきますよ。
経験者の語りこそ、迫力があるし、心に響くはずです。
そういう意味で私の父の経験も私だけでなく息子や娘にもっと聞かさなければと反省しきりです。
テレビなどで取り上げられる戦争の番組は死ぬという事だけクローズアップしていてますが、戦争の恐さや悲惨さは単純に死ぬことだけでなく、その殺され方や死ぬまでに物凄い傷を負って苦しむことが恐ろしいのです。
そういう意味で当時のむごたらしいビデオや実写真も時には見せる必要があると思います。
さすがにテレビでは無理でしょうが、そういうモノが残酷なホラー映画と同列にされて隠すようにしてしまうのはどうかと思います。
仰る通りです。
実際に経験されているだけに話に迫力があります。
戦争のむごたらしさや残酷さは機会あるごとに語り継いでいかないとすぐに風化してしまいます。
今の日本の繁栄は過去の犠牲者の上に成り立っている事を若い世代にもっと知らしめる必要があるでしょう。
韓国だって中国だってその辺の所は徹底してます。
過去の反省も大事ですが、起きた事実を正面から見つめ、決して逃げたり避けたりしてはいけないと思います。
特攻隊員にも青春があったはずですが、死ぬ事を前提にした特攻攻撃でお国に殉じた事が青春だったというのは余りにも悲しすぎます。
名誉ある戦死ならいざ知らず、今の自爆テロを繰り返すアルカイダと何ら変わらなかったと思うと空しさを感じてしょうがありません。