こだわりの生活

ヒゲオヤジの何でもやってみよう、見てみよう挑戦日記

ゆく年・くる年

2007-12-30 20:07:47 | ブログ

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ハケンの品格

2007-12-28 23:00:55 | 日記・エッセイ・コラム

「えーっ、マジ? そっちへいってないんだ、信じらんなーい。」

電話での相手女性の応答にこっちが信じられない思いで絶句してしまった。

これは個人的な用件で知り合いの女性に電話しているのではなく、会社対会社の公的な用事で電話した時のことで、相手の女性が誰だか知らないし、一面識もなかったのにタメ語の連発であきれ返ってしまった。

長い間サラリーマンをやってるがこんな電話応対を受けたのは後にも先にもこの時が初めてだった。

仕事で必要な書類がいつもFAXで来ているのに、この日に限って来てないので、催促するつもりで電話したのだが、こんな調子の応対を受けては調子が狂うばかりだった。

この女性はFAXの送付先を間違えた事が原因だったと途中で気がついたようだったが、大声で笑い出す始末で反省の色は無さそうだった。

結局、この後直ぐに送り直してもらったので、トラブルにはならなかったものの感じの悪さだけが残ってしまった。

同僚に愚痴るとそれは”派遣社員”に違いないから仕方ないよと慰められたが、そこまで”派遣社員”の質が落ちてるとは、ただ驚くばかりだ。

確かに正社員だけで会社経営が成り立つほど今の日本社会は余裕があるわけがないのは百も承知だったが、電話応対も満足に出来ないとは言語道断であろう。

派遣社員でなくただのバイトだったとしても、最低限のマナーは教育すべきだし、それが出来ないんだったら電話を取らせるなと言いたい。

少なくともウチの会社では”ハケン”に電話は取らせてない。

女子高生あたりが友達とくっちゃべってる次元と同じにされてはかなわない。

人件費節減はやむなき課題であろうが、安かろう悪かろうでは会社の信用まで損ないかねない。

何を隠そう私の勤める会社も正社員はここ5年くらいは一人も採用してない、というより出来ない状態が続いている。

一番若い社員が30歳前後で私のいる部署に至っては35歳目前である。

会社としては派遣や下請けに出来ることは全て任せたいと考えているらしく、定年退職で去っていく先輩方のアナを次から次と派遣社員が埋めていく。

勿論、派遣を管理・監督するのが社員の仕事であるが、何とも味気ない状態になっていくばかりである。

それでも会社が倒れて無くなり、職を失う事を思えば、文句も言えるはずもなく、粛々と業務をこなしていくしかないのだ。

まあ、こんな女性であっても使い方一つでそれなりに役に立つのは間違いないだろうし、全ては、使う方の正社員にかかっているわけで、正社員の実力も試されているとも言える。

ドラマ「ハケンの品格」みたいに実力が正社員より上なんて事が本当にあり得る時代がもう直ぐそこまで来ているのかもしれない。

クワバラ、クワバラ・・・。


ハラハラドキドキ

2007-12-26 10:57:16 | 日常生活

ヤフーオクションに初挑戦してみた。

子供の頃は勿論、大人になってからも一時期ハマっていたプラモデルを久々に作ってみようと思い立ち、その塗装には不可欠のエアーブラシとコンプレッサーをネットで探してみた。

が、セットにすると2万円から3万円前後するようでその高さに改めて驚いた。

過去の自分には全く手が出なかったエアブラシだが、大人の今の私にしてみれば出そうと思えば出せる金額であるし、綺麗な塗装を目指すには欠かせないアイテムで是非欲しいと思った。

しかし、そのプラモ作りも長続きしなけりゃ無用の長物になってしまうし、一級品である必要もないので安ければ安いにこした事はない。

場合によっては中古でもいいやと思い、ものは試しとヤフーオクションを覗いてみた。

するとまあ、驚くほど沢山安価な商品が出品されていた。

しかも、新品ばっかりだった。

無名ブランドの中国製であろうが、新品には違いなく、価格は魅力的だった。

機能が価格に比例するほど複雑で精巧な製品ではないので、出品者が高い評価を得ているのなら商品も信用できそうだった。

とにかく圧倒的に業者らしき人の出品が多い。

使っていたものを使わなくなったから、誰か買いませんかというフリーマーケットのネット版の延長みたいなノリを期待していたからちょっと驚いた。

Airbrsh初体験なので良く分らず、戸惑いながら出品リストを見続けていると、何となく自分の欲しいターゲットが絞れてきたので入札してみた。

オークション期間が6日くらいあるので、最初はあまり大きな値動きはない。

自分が入れた格安の金額で落札できると楽勝ムードが漂っているが、オークション残り5時間を切ったくらいからせわしくなってくる。

誰かが知らない内に最高価格を入札をしてくるので、油断も隙もない。

ある程度の幅を持たした金額で入札しているケースがあって、その場合はその上限価格まで自動入札という形で競り合う事になる。

最低入札価格単位も終盤変わってくるケースがある。

今回私が入札した場合、最初100円単位だったのが、いつの間にか250円、そして500円単位になってしまって、終盤あれよあれよという間に金額が吊り上がっていった。

とにかく終盤の1時間はハラハラドキドキの連続だった。

他人の入札に煽られて1万円を超えて払うつもりもなかったし、でも欲しいし、誰も私を超えて入札するなって祈りながらオークションの終了のタイマーと新規入札記録を交互に見守っていた。

土壇場の5分前に私の9050円を超えて、9550円が入札され、このままだと誰かに持ってかれる危機が訪れた。

応札すると最低単位が500円だし10050円となって一万円を超えてしまう。

ウー欲しいが予算がと悩んでいても時間は刻々と残り少なくなってくる。

相手がもっと金額に含みを持たせていれば10050円で入札しても自動入札で応酬してくる。

その場合はやめるつもりで、10050円を入札してみた。

幸いに自動入札の応答はない。

再び私が最高価格入札者に返り咲いた。

あとは時間切れを狙うだけだ。

残り1分を切った。

ここで、また入れられたらどうしようかと仮想の動きを想像して思い悩む。

残り30秒を切ってカウントダウンがさらに遅く感じられる。

5,4,3,2,1、終了!

こうしてオークションでの競り落としが無事成功し、私の初体験が終了したのだった。

まあ、5、6千円で買えると目論んだ私が甘かったが、ノーブランドの新品で1万円ならオークションでは相場だ。

欲しいものを手に入れられたことより、どちらかというと緊張感を持ってオークションを楽しめたという喜びの方が大きかった。

これが出品者側で思わぬ高値でモノが売れたとなるともっと喜びも大きくなるのかもしれない。

オークションにハマル予感がしないでもないが、売る側の方がもっと気を使う感じがした。

さて、何のプラモデル?ということだが、純粋に作りたいというより、最近あるモノに心を奪われていて、それを手に入れる前に先ずは模型からという気持ちから思い立ったことだった。

それはブログネタとして、おいおいまた書いていこうと思っているところだ。


もう一つのひめゆりの塔

2007-12-19 01:10:27 | 旅行記

沖縄の旅行記もいよいよこれで最後である。Kennji

さて、本当に表題のひめゆりの塔が複数あるわけではない。

沖縄の戦跡を訪ねて驚いたのは、余りにも有名なひめゆりの塔が看護要員として軍務につき散っていった全ての女子学生の霊を祀ってなかったことだった。

それぞれの出身校によって慰霊碑がそれぞれ別に存在し、別な名称で呼ばれている。

軍によって動員され、看護要員として働き、戦死したのは共通しているが、現地での祀られ方がまるで違っている。

もっと言えば男子も同様に学徒動員され、具体的には陣地構築、伝令や通信、さらに切り込み隊として急造した爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負って米軍への自爆攻撃を行ったりした。

伝令も、同じ文書を複数人に持たせ、そのうち1人がたどり着けばよいという状態であったらしい。

いずれも内地の学徒とはまるで違う過酷な戦況の真っ只中でまさに兵隊並みの働きをして戦死していったのだ。

そんな17から19歳くらいまでの少年少女が戦争に駆りだされ同じように命を捧げたのに、ひめゆりだけが有名で、他にもいたなんて話は殆ど知られていない。

Himeyuriさすがに、ひめゆりの塔は誰でも知ってるし、有名なせいか、ダントツ人気で、おりしも修学旅行シーズンと重なって、次から次へと大型観光バスがやってきては観光客を吐き出していた。

平和記念資料館も併設してあって、いわゆる観光客受けするせいもあろうが、他の慰霊碑との差があり過ぎた。

私もひめゆりの塔に行くまで、学校別にそんな慰霊碑があるなんて全く知らなかったのだ。

他の慰霊碑はおしなべて、ひっそりとしていわゆる関係者が訪れて献花してあるくらいで本当に静かなたたずまいを見せていた。

犠牲になった方々に感謝し、彼らに黙祷をささげるには却って相応しいとは思ったものの、とても寂しげでもっといろんな人に知ってもらっていいと感じた。

慰霊碑は元々生き残った人々が犠牲になった方々を偲んで、それぞれ母校の仲間の為に建てたわけで、そこに差別があったわけではないのだが、どうしてこんなに取り上げられ方や観光地化に差が出てしまったのか、とても不思議に思った。

聞けば”ひめゆり学徒隊”は県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部とで構成されていて、県下一の難関を誇る才媛達の集まりだったとの事。

こんな所まで学歴社会の陰が見え隠れしているのかと不謹慎に邪推したが、そうではなくて生き残った方々が懸命にこの悲惨な戦争を後世に伝えよう、戦争を失くそうと必死で努力された事が結実した結果なんだろうと思い直すことにした。

ひめゆりが他の学校よりその熱意もPRも上手だったというところか。

Kyanmisaki_01_2 「ひめゆりの塔」の見学を終え、ほど近い喜屋武(きゃん)岬にて、潮風に当たりエメラルドに輝く美しい海を眺めていると、62年前に米軍に追い詰められた人々が次々と海に身を投げたサイパンのバンザイクリフと同じような事がここ喜屋武岬でも起きていたなんて到底信じられなかった。

無理に想像しようとすると、さっきまでいた平和記念史料館で聞いた、修学旅行の女子高生達が”っていうか、ココどこ?”とはしゃぎながら展示物には一瞥もくれず、殆ど素通りしていく様が思い起こされ、なんだか無性に腹立たしくなった。

お金と時間をかけて授業の一環としての修学旅行なのに、沖縄の戦跡なんて思い出作りのの観光地巡りの1シーンにしか過ぎず、通り過ぎる窓外の景色程度の認識しかないんだなーと残念に思った。

もう少し大人たちが少しでも興味を持たすような事前のレクチャーなり出来なかったのか、学校も戦争の悲惨さや恐さを風化させないような努力をもっとすべきではなかろうか。

護憲だけ唱えていれば、平和を維持できるという幻想は捨て、日本の未来を託す子供達に多くの日本人が戦争で犠牲になって、そのお蔭で今日の繁栄の礎となった事をもっと訴え続ける必要があるように思えてならない。


沖縄・戦跡巡り

2007-12-15 23:59:37 | 旅行記

沖縄と言えば一般市民を巻き込んだ日本で唯一地上戦が行われた場所としても知られる。

その戦闘は日米双方で20万人を超える戦死者を出していることでも分る通り、過酷を極めたとされている。

Okinawa1戦死者の内、米兵は1万2千人、沖縄県の住民は戦争協力者を含めて何と14万人にも上るというから凄い。

当時の沖縄の人口が50万人弱だったというから、約4人に1人がこの戦争で命を落とした計算になる。

ただ、東京大空襲で8万から10万人が犠牲になっているし、原爆の被害では広島で14万人、長崎で7万人の民間人が尊い命を落としている。

そういった数字から見れば、沖縄の民間人の犠牲者数は数字だけ見れば、決して突出しているわけではない。

しかしながら、沖縄は基地問題も戦後一人で背負ってきたような面があるせいか、戦争や軍隊への反発は相当なものがあると思われるし、平和への希求も半端じゃないような気がする。

日本全体でそういった傾向があるものの、沖縄のそれとは比較にならない感じがしていた。

沖縄の声はもっと悲痛で生々しく心の叫びに聞こえていた。

過去に3回沖縄を訪れているが、戦跡巡りはむしろ積極的に避けてきた。

3b38737r_sこうした背景を踏まえると、余りにも悲惨で、戦闘に巻き込まれて死んだ住民達の苦しげな声が聞こえてきそうで、とても行く気がしなかったのだ。

何も知らないのなら、ともかく、充分な知識を持っている自負もあるし、楽しい旅行という観点からも、気持ちがブルーになってしまうのが嫌だったからだ。

しかし、今回父を連れて行くにあたり、戦跡巡りをメインイベントにせざるを得なかった。

61年前に海軍による学徒動員で大分・海軍航空工廠で零戦整備をしながら、米艦載機の機銃掃射や爆弾投下を掻い潜ってきた父は戦場へ行ってなくとも立派な戦争体験者であり、多くの級友たちを実際に亡くしている。

父は入ろうとした防空壕が満員の為、断られたが、その満員だった防空壕に直撃弾が落ちて全員が即死したという体験を持つ。

別な壕に滑り込んで助かったが、戦争とは常に死と背中合わせにあるといっていい。

空襲警報が鳴り響く中、雲の子を散らすように級友達が逃げ惑う中、艦載機が攻撃してくる様は戦場そのものだったらしい。

避難した”たこつぼ”(小さな一人用の防空壕)から外の様子をこわごわ窺ってると、米パイロットが風防を開けて地上の様子を確認しながら、さながら獲物を追い詰めていくハンターのようにニヤリと笑って舌なめずりする様は、とても恐ろしく強烈な印象があって、今でも脳裏から離れないと言う。

そんな父にとって、沖縄で同じように軍令によって学徒でありながら、軍に協力して戦争で逝ってしまった少年・少女の事はとても他人事とは思えず、そういう人たちの礎なくして自分達の繁栄はあり得なかったと考えるのはとても自然な事だ。

どうしても現地へ行って慰霊碑の前で手を合わせたいという気持ちが人生の終盤において自然に湧いてくるのも分る気がした。

そんな事情があったので、初めて沖縄の戦跡を訪ねることになったのである。

実際に行ってみると、自分の知識の浅さにすぐ気づかされる事になった。

そしてもっと大きな沖縄県民の心の痛みが分ったような気がした。

言い換えるとそれは「琉球民族の痛み」といっても良いだろう。

今でこそ日本国・沖縄県だが62年前はどうだったんだろう?

当時は本土よりそんなに人口の流入はなく、まだ沖縄県というより琉球といった方が相応しかったのではなかろうか。

Okinawa_flamethrower大本営の唱える「本土決戦」に備え、作戦らしい作戦もない単なる持久するためだけの「捨て駒」として沖縄が使われた感じがありありで日本軍はそもそも県民を守るという気は全くなかったらしい。

それだけでなく、降伏勧告書を持っているというだけで日本軍に殺された住民は1000人は下らないし集団自決させられたのは800人程いるらしい。

一日でも長く食い止めて死を以って米軍の占領を阻むべしが課せられたようだ。

たとえ民間人でも自分の領地を攻めて来る奴には自衛のために戦っても良いわけだが、それ相応の武器もなく対抗手段もなく、降伏はするなとされれば犬死するより他ない。

「1億総玉砕」とか何とかいって、日本人が絶滅するのもナンセンスな話だが、結果としてそれが回避されたことで、余計「沖縄の悲劇」が強調された感が強い。

二度とこんな悲劇を繰り返さないように、新しい世代へ語り継いでいかなくてはならないと痛感した。

そして、今までもこれからも、犠牲になった方々を忘れることなく、またその死を無駄にすることなく、平和維持のために日本人は全力を尽くすべきだと改めて思った。