tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

書評:杉本淑彦『文明の帝国』(山川出版社 1995)

2005年12月17日 23時01分28秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(副題:ジュール・ヴェルヌとフランス帝国主義文化)

あまり知られていないが、今年はジュール・ヴェルヌがなくなって、100年が経つ。今年のお正月あたりに、ドラマかなんかの特集をBSで行っていたと思うが見ていない。というよりも、彼が亡くなって100年というのを知ったのは、11月も終わりであった。そこで良い機会だから、夏場に買っておいた本書を読んでしまおうと思った。古書市で買った本であり、この事は確か6月か7月のブログでも書いたと思う。

定価が非常に高い本(5300円)だから、本屋で買う事もためらっていた、一度大学の図書館で借りて読んだ事があるが、非常に良い本だと思った。若かったのと出たすぐという時期的なものがあったのかも知れない。

しかし、今読み返してみると、知識の浅かった(今もそれほど変わらないが)当時、本当にこの本の持つ本質が理解できたのかどうかわからない。少なくとも、当時関心を持っていた、ヨーロッパの「社会史」の観点から「面白い」と思ったに違いないのである。その後、大学院を出て多少なりとも、勉強していると、本質的な問題点とその問題点を明らかにするにあたって自分の姿勢や立脚点をどこにおくのかという倫理の問題にぶち合った。言い直せば、それまでただ、現象を素朴に理解し解釈する研究風潮の中で、「この文章はこうした問題点を持ちます」という「問題性の突き上げ」あるいは「提示」が研究者の新しい方法論であった時代はとうに過ぎ、その問題とどう向き合っていくのかということでもあった。

具体的には「この文章のこの部分には、ジェンダーの観点から見て問題があります。」という事をただ報告する時代から、「この文章を間違った解釈のまま放置していていいのですか」という行動(アクション)の部分を重視する時期へと移行していったと言えるのである。

本論から外れた。

大学の2,3年次になると、仏文科においてどのような作家を卒論として取り上げるかという質問を受ける。かっちりとした作家を挙げるものもいるが、友人の一人はジュール・ヴェルヌを挙げていた。比較的冒険小説や童話で卒論を書く者が私の周りでは多かったが、彼は最終的にアレクサンドル・デュマの『三銃士』で書いた。ざっと見渡してみてもヴェルヌで書く人間はいなかったし、ルブランの『アルセーヌ・ルパン』で書く人間もいなかった。子ども向けの冒険小説と思われているようだ。

書評として取り上げた本の作者の杉本先生(大阪大学教授を経て現在、京都大学大学院教授。一度授業を受けてみたかった・・・)も子どもに読ませる本を選んでいるうちに、その内容の問題性に気づいたところから、分析が始まったそうだ。

本書の視点は、イギリスに比べ質や量のにおいて劣る部分が多かったフランスの「帝国主義的支配」が国家政策のレベルから一般大衆の認識に移行する課程に使われるいくつかの「装置」をジュール・ヴェルヌの小説に見いだし、その内容面にわたる分析を行う。

そもそも、ヴェルヌの小説には、旅行ものが多い。『気球に乗って五週間』や『80日間世界一周』、あるいは『地球の中心への旅』や『地球から月へ』など。こうした世界を舞台とする内容である事は、既に世界を把握(支配)したい心性の発露でもあるが、そこから踏み込んで、表象の中に現れる人種差別について言及している。白人を中心に据え、黒人やアフリカ人を周縁に位置し、その人種の本質を考えないまま、アフリカ人は、白人に劣り、野蛮であり、啓蒙すべき人種として考えられている。中には、カニバリズム(人を食べること)も描き出されている。特に分析の中で納得したのは、『二年間の休暇』だ。あれは日本では『十五少年漂流記』というタイトルで出版されており、その少年の一人が、黒人なのだが、仲間で行う勉強会に参加させてもらえないばかりか、台所番として食事の用意をさせられ、寝るところも台所という扱いを受けている。とても他の白人少年とは同じ扱いを受けているとは言い切れず、少なくとも白人の少年達の間では、黒人が劣る人間だという認識があったのだ。また、本書では、イギリス人やフランス人の少年たちの所帯で、「勇気も知恵もある」存在が、フランス人であり、他方イギリス人の少年は、やや陰気な役どころを与えられている。

ヴェルヌの小説は、フランス人に多く読まれた。と、判断するのも、同じフランスの童話集であるラ・フォンテーヌの『寓話』(1670年代に成立、文体は韻文調、tyokutakaの友人が卒論で取り上げた事から知っているような本)が50年で最大75万部しか出ていない事に対して、ヴェルヌは、その生涯の間に、160万部も売ったと言われている。いわば、子どもの本で、この数字は、時代を考えても「お化け」的であると言われている。またヴェルヌの本は、クリスマスのプレゼントとしてよく使われたそうだ。

また、ヴェルヌは、同時代への言及を常に作品の中で漏らしている人でもあった。イギリスがフランスを出し抜くような政策を行えば、作品の中のイギリスの表象は、それまでどれほど好意的であっても、悪意に満ちたものになるし、これはロシアやドイツに対しても同様であった。他にも、カトリックとプロテスタントの違いも差別的である描き方を行い、科学への姿勢も同様だ。
しかし、こうした差別への心性が、国家指導層のレベルにとどまらず、大衆の中に降りてきている事を指摘して本書は終わっている。

本書の内容は、フランスの植民地主義成立過程にも言及しているが、実質的にはヴェルヌの作品が発した「帝国主義的側面」の分析に多くの部分が割かれている。もう少し発展性を望むならば、「帝国主義的側面」発した作品やヴェルヌ以前の問題、すなわちヴェルヌがどのような方法で、人種や科学の知識を得ていったかというメディアの側面にも広がっていくであろう。ここから歴史学と社会学の協力が生まれていく。

いずれにせよ、19世紀に対するノスタルジーを喚起する存在(私自身が社会史として提示される研究結果にノスタルジーを感じていたのだが)として読むと失望するかも知れないが、ヴェルヌの作品の魅力が併せ持つ悪意に関して解説された本としては一級である。発刊から10年近くたち、少なからず研究の視点の部分では新鮮さを失ったが、その反面、初心者が押さえなければならない本としての重要性が高まった希有な研究書であると私は考える。

記憶される身体の感覚

2005年12月15日 14時58分30秒 | Weblog
家の廊下の一部が、きしんだり、力を入れて踏むとベコベコしだすようになった。
これでは床が抜けるので、修理することになった。それで今、家に大工さんが入っている。裏側、すなわち床下から見てもらうと、湿気もなく、非常にカラッとした状態であると報告を受けた。柱などが腐っていないことを意味する。しかし、建てて25年もたてば、強度に不安が出てくる。

だから廊下の床に、新しい板を足すことになった。

その工事は昨日、終わった。
床を張り替えた人ならばわかるが、張り替えた当初は、それほど肌触りがよくないことが多い。ある意味、表面に木の粉がついているように思うからだろう。さっと掃除機をかけ、雑巾かけしても、なかなかなじまない。

しかし、実際には、廊下の板は冷たさとともに、足にその表面のつやさえも伝えてくれる。足の裏につくゴミなどは一切ない

ただ、床を足したわけだから、少し高くなっているのである。
見た目には、床が新しくなったのがわかるだけで、それほど変わらない。しかし、実際に歩いてみると、違和感と同時に、床が高くなったことがわかる。それを実感するのは、部屋から廊下に出た瞬間である。

畳の部屋と廊下とは段差があった。もちろん、廊下の方が低い。
床板は厚さにして、一センチ程度で、その分廊下が上がったのだが、
だいぶんと違うように感じる。

ずっと歩いていた廊下だが、その段差なども含めて、身体が記憶してきたのである。

ストーブ騒ぎの続編

2005年12月14日 15時26分30秒 | Weblog
このブログには毎日、書き込みたい上に、実際そのようにしているが、どうも滞るようになってきた。昨日は残業で帰ったら、11時を回っていた。この業界ではまだ早い帰りなのかもしれない。

さて、ストーブの話の続き。
ストーブの撤去によって、部屋の主たる父が一酸化炭素中毒で事故死する危険性は回避された。後は、本人が火鉢でも持ち込んで、がんがん焚くようなことをしなければ、この問題は起こらない。しかし、ストーブを持っていかれて「凍え死ぬ」という問題が浮上してきた。少々大げさかもしれないが・・・。

あのストーブは、配管を外に出すタイプだった。ここから煙などが出て行くから、空気が汚れることはない。そのため密閉した部屋では重宝するタイプなのだが、今回の事故は、その部分が裏目に出た。

父は、似たような設備のストーブをほしがっている・・・が、ほとんど雪国の設備のようなストーブだから、大阪・奈良周辺では手に入らない。奈良周辺の電気店に問いあわせたが、まずなかった。この時点で思ったのは、「もう生産していないのか?」。大手のメーカーが暖房器具の生産を取りやめることが多くなっている。少なくとも、ナショナルでは生産していない。

奈良では埒が開かないので、大阪のヨドバシカメラに行ってきた。展示はされていないが、店員に聞くと、取り寄せになるとのこと。壁に穴を開けるわけだから、設置工事が必要になってくる。結構厄介だ。そもそも、この店でも年に数件の取り扱いがあるかどうかということだ。

店員に今回のリコールでストーブがなくなった件を話すと結構びっくりされた。
ほかのリコール対象者はどうしているのだろう?

ストーブ撤去!

2005年12月12日 01時07分57秒 | ニュース
今朝くらいから盛んにナショナルのストーブがリコールのためCMを流しているのを見ながら、またまた「どこかで見たストーブだな」と感慨深くなっているtyokutakaです。みなさんお久しぶりです。

これまでにも書いてきましたが、tyokutakaの家にもこのストーブがおかれていて、その置かれてある場所がこのブログを書いている部屋にあったのですが、この騒ぎ以降、部屋に入れなくなって、ブログを書くことが出来なくなったのではなく、ストーブを撤去するためにパソコンを動かさなければならなくなり、接続をはずしたので、使えなくなりました。あれこれありましたが、今日の夕方復旧し、現在に至っております。

さてストーブですが、業者さんが来たときは、私は出かけていて家人に聞いたことですが、すぐに取り外せたみたいです。妹が車の中をのぞくと、同種のストーブが3台も載っていたとか。あちこちから改修しているみたいです。しっかり、5万円をいただくことが出来ました。

しかし、えらい騒ぎになったものですな。
時に、この部屋はきれいになったのですが、明日から玄関の改修工事をはじめるので、靴箱にあった、靴をみんなこちらの部屋に移しました。

おかげで、部屋のにおいが、
くっさー

ストーブのリコール

2005年12月08日 23時18分23秒 | ニュース
リコール後の交換ホース「抜けやすい」 温風器中毒事故 (朝日新聞) - goo ニュース

松下電器のストーブがリコールされている。モノが古く、バブルの頃に作られたものだ。初めて見たのはテレビのニュースだ。その後、死亡事故を多く引き起こしており、経済産業省も事態を重く見て、調査に乗り出した。

さっきも言ったように、初めてみたのはテレビのニュースだが、ストーブの写真が映し出されたとき、「あれ?、どっかでみたような」と思った。

それもそのはず、父の部屋においてあるものだ。形式番号もピッタリ。
しかし、このストーブ、ちっとも温かくない。がんがんつけてどうにかなるもの。
この部屋にパソコンが置いてあって、ネットに接続されているが、この部屋が寒いことは前にも紹介した。ちなみに現時点で、8度。室内の温度ではないと思うけど、現実だ。

メーカーに問い合わせたところ、あまりにも深刻な問題で、結局修理などというものではなく買い取ってくれるそうだ。5万円でということだ。めったにない話だ。だって、10年以上経っているんだから。

このストーブは壁に固定し、排気用の換を外に出す形式。だから正常ならば室内の空気が汚れないというもの。その排気換が外れて一酸化炭素中毒になるそうだ。

しかしうちの家に置いてある部屋が部屋だから、隙間風が入ってくるのか、むしろ安心なくらいだ。

ちなみにこれに代わる壁設置タイプのストーブを現在生産していないとのこと。

実際には困っている。

玄関上がったら古本屋

2005年12月06日 23時51分57秒 | Weblog
明日くらいから、仕事の量が増えて、それがいやというくらいの量になると聞かされたので、いつも行かない天神橋筋の古本屋へ行く事にした。以前行ったのは9月くらいだったか。大阪の南森町に南北にのびる商店街「天神橋筋商店街」。学生時代、この町に飲みにくると、決まって蘊蓄を語る友人がいた。その内容は「この商店街は日本一長い商店街だぜ」と。大学を卒業するまでにかれこれ3、4回は聞かされたと思う。この情報はその後確認を取ったから確かである。

しかし、日本中のどこの商店街も寂れ行く方向にあり、この商店街も、1日中シャッターの閉まっている店や、開店していても割と早くに店を閉めるところが多い。やはり、この商店街も例外無く寂れていっているのだ。

ちなみに、南森町の周辺は、WebやDTP関連といったデザイン関係の会社が多い。私もそうした会社のいくつかを志望したこともあるが、会社はもとより、私にはこの町と縁がなかった。今、そういった中心街の外れにあるデザイン関係に奉職しているのだが、これは現代のの大阪の繁華街に近く、かえって私自身の性格にマッチしているのかもしれない。というのも、天満宮を中心とする南森町は、大阪町奉行所などがあった土地であり、古くから開けた町であり、大塩平八郎の乱もこの近くで起こっているのだ。反面、梅田の周辺は大正から昭和にかけて発展した町だ。私には南森町よりも梅田の方になじめる風景があるのだ。

ところで、肝心の天神橋筋の古本屋が見つからない。狭い土地に軒を並べて店を出しているから、見落とす事もあるが、今日に限って見つからない。おそらく店を休んでいるか、あるいは店を閉めたのか。商店街のすべてが明るくなっている訳でもなく、外れにくると少し暗くなる。そんな所を歩いていると店の二階に古本屋があるという看板を見つけた。何となく階段を上り、店の戸口に立ったとき。しばし絶句した。

「靴を脱いでお入りください。」

おそらく個人宅を改造したのだろう。改造したのかどうかも疑問だが。で、整理されている訳ではない。むしろ無造作で、積んでおいてある分もあるくらい。すごく見にくい。帰ろうかと思ったが、既に店主にみつかり、入ってくださいと言われる始末。断るすべも無く入ってみる事にした。あとは、一冊あたりの単価がどのくらい付いているのかが心配だ。結構すごい本(興味が持てる物はなかった)があると思うのだが、相対的に高いという印象をもった。さあ、退散するのが大変だ。
店主が「あまり片付いていませんが・・・」と行った事が、突破口だった。こっちの退散文句は

「落ち着いたくらいにまた来ます」と。

しかし、少し世間話をしてきた。相手はこっちがナショナリズム関連の本を物色しているを知った上で、会社員をしている事に驚いていたのだ。学生かと聞かれたくらいだ。読む時間などないだろうとも聞かれたが、こっちにしてみれば通勤時間が長い、その他にもなんぼでも捻出できる。

でも靴を脱ぐのにはビックリした。

古ぼけた商店街のはずれで見た古本屋の話だ。

冬支度

2005年12月05日 15時08分38秒 | Weblog
もともと寒いことは寒かったが、
ついに寒くなった・・・というくらい冷え込んでいる。
ここ2週間ほど茶の間はともかく、自室にはストーブがおかれていなかったので、寒くてやりきれない。そこで土曜日にストーブを出して、使える状態(掃除する)にした。小型の温風ヒータである。すでに十年以上選手だ。

かつてはマッチで火をつけて、それを芯に点火するようなストーブだった。でもこれは、すごく手間がかかるし、部屋が暖かくなるのに時間がかかった。
そのうち反射式のストーブを出したが、これがすごく危ない代物で、ストーブの前で新聞を読むだけで、発火してしまうくらいきついものだった。今のストーブは奥のほうでボヤーッと火がついているのが見えるだけ。それだけでありながら、すごく性能がよくて、すぐに部屋が暖まる。外の気温しだいだが。

昨日の天気は雨。おりしも出かけなければならない用事があって、出かけたが、すごく寒い日だった。大阪では雷が鳴り、場所によっては雹が降ったそうだ。

もう、普通のブレザーとかで防寒対策などは不可能になり、衣装たんすからコートを出してきた。12月下旬の装備だと思っていたのだが、思ったよりも早く出さねばならないくらいになった。今、外は曇り空で雨か雪でも降りそうだ。

飲み込まれるということ(3)

2005年12月04日 23時07分43秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(使用テキスト:橋川文三「昭和超国家主義の諸相」(筒井編『昭和ナショナリズムの諸相』名古屋大学出版会 1994 所収)、
宮本又郎『日本の近代11 企業家たちの挑戦』中央公論新社 1999)

1999年10月初旬。東京都文京区本郷。
私は、学会で東京へ来て、午後から始まるその会に出席する前に、東京大学の安田講堂を眺めていた。印象とは異なり、かなり低さを感じるが、間近で見るその威風にただ圧倒される。

1969年1月。すでに閣議は大学紛争で混乱した東京大学の入試は不可能であるため、東京大学に対し、入試中止の勧告を行っていた。東大側は、これに反発。総長代行であった加藤一郎教授は警視庁にバリケードの排除を要請。警視庁は警備部(機動隊)を投入し、これの排除に取り掛かった。各学部の校舎の排除は比較的よういであったが、東大の象徴ともいえる安田講堂の封鎖の解除に際し、強力な抵抗が行われる。あのテレビの映像でもよく見かける攻防戦である。1969年1月19日午後5時46分、安田講堂の封鎖を解除。多数の逮捕者を出した。世に言う東大紛争の終結である。ただし、翌20日の閣議了承として、官房長官は1969年度の東大入試の中止を決定している

ところで、この安田講堂こそが東大の象徴であり、同時に日本資本主義の象徴でもあった。しかし、そのような巨視的な部分から研究するように、「ナショナリズム」もまた、見ていくと見逃すところに注目し、別な視点を切り開いた研究者の論に注目したい。

ところで、なぜ、東大の安田講堂から話を始めたのか?

権威の象徴として見なされた安田講堂は、その設立計画の当初から資本主義的権力の手垢にまみれた存在であった。

そもそもこの講堂そのものが、安田財閥の創始者、安田善次郎の寄付で作られた。安田の事業は金融業であり、この事業はその後、安田銀行や安田明治生命保険などの事業に発展していくが、その人間性すらも捨てた合理的な手法、特に今日の不況下で銀行が行っている手法は、当時の評者の間ではもっぱら不評であった。その帰結かどうかは、少なくとも経済学者の間では判断の埒外におかれる結末として、1921年9月28日、安田は大磯の別邸で朝日平吾という青年右翼に刺され横死する。享年84歳。朝日もまたその場で自殺している。経済学者の宮本又郎はこの時の状況を以下のように書いている。

朝日は社会的義憤のため事に及んだと見られたが、善次郎に寄付を申しこんで拒絶されたという金銭的トラブルもあったらしい。後年、プロレタリア作家の宮嶋資夫は善次郎をモデルとして『金』という作品を書いたが、大正デモクラシーの代表的文化人吉野作造は『中央公論』誌上にこの感想を書き、善次郎の生き様に批判を加え、朝日平吾の行為に一定の理解を示した。吉野にしてみても善次郎的企業家は私利のみを追求する伝統的商人としか映らなかったのである。

ところで、都市文化が栄えた1920年代から30年代にかけて、その華やかな文化の反面で、暗殺や暴力が多く起こった。そのその流れの最終的な終着点として、日本ファシズム、すなわち戦争を行うという思想へとたどり着くのだが、その初期とも言える時期に起こったこの事件を、朝日本人の心理的な部分から分析を行った政治学者がいた。橋川文三(1922ー1983)である。橋川の朝日を分析する前提にあったのは、社会的義憤と金銭トラブルによる怨恨の二分化によるどちらか一方の取捨選択ではなく、むしろ両者の折衷型であった。それによると朝日のパーソナリティは不幸な人生(実母と死別し、継母には冷遇された。)を送る事で作られたと言われる、感傷性とラジカルな被害者意識の混合であった。そして、彼の不幸感はしばしば周囲の人に対して理不尽異常な攻撃衝動となった。

しかし、朝日自身のライフコースを見る限り、決して貧しいだけの人ではなかった。それは当時の人間としてはかなりの高学歴指向であったことである。学資が続かず、多くは中退しているが、鎮西学院、早大商科、日大法科などの学校へ入学している。そして同時にコテコテの思想に固まった過激派とは異なった「生半可なインテリ」が政治と思想の、そしてテロリズムの最前線に浮かび上がる先駆的な存在であった。

その半面で、彼の行動の一つには有名人に異常なまでに近づきたいという欲望があった。彼は当時の実業家の多くに面談の申し入れを行い、渋沢栄一などはこれを受けいれた。勿論朝日が傾倒した実業家であったことは言うまでもない。しかし、多くは断られ、その結果として朝日の勝手までの好意が憎悪に転換する事が多かった。安田の暗殺はその延長線上にある。ちなみに、彼は事件を起こす少し前に、名だたる右翼の指導者達に対して、遺書を送っている。その一部が漏れる事によって、感化された人間、すなわち模倣犯(テロに走る人々である)が生まれるのだが、今のところこれらに対する言及は見送る。

その上で、こうしたテロに走る若者の背後にある心理的な部分はどのように構成されているのか。
政治学者ラスウェルは、政治的暗殺や類似行動の分析を行う際に用いるのが、「父親への憎悪」という概念である。
今までのところをまとめて、橋川の論文から引用してみよう。

(父親憎悪とは)例えばある少年が母を失い、継母が来てからその学業成績が悪くなり、家庭の期待を裏切るような兆候が現れたとする。その場合、少年の意識にはまず継母を憎むという反応が生じる。しかし、「深層レベルでいえば、実母が死んだのは父のせいという意識が認められる。」しかも父と権威への反抗は(精神分析学の公理にしたがえば)少年期において罪障感を呼び起こす最大の原因である。そこへ「少年は自分の気持ちをうまく処理できないという事に猛烈に気がとがめ、無意識のうちに自らを懲罰しようと感じる。」
(中略)
報いられない父への愛から生じる憎悪は「君主とか、資本家のような身近とは言えない抽象的なシンボルに向かって置き換えられ、その破壊へと駆り立てる」ことが多いとされる。
(pp.,14-16)

しかし橋川は、朝日がどのような感情で事件を起こそうとも、安田刺殺前に書き、その後のテロリズムに大きな影響を与えた「死の叫び声」という一文と朝日の行動の背景とは、全く相容れないものがあると結論つけている。言い直せば、その文章を公開されることによって、本来、朝日個人の本当の目的であった父親殺し(パリサイド)を、社会的正義から行った暗殺というように塗り替えてしまったのである。朝日が昭和ファシズムの先駆的存在として考えられる所以である。しかし、加害者の自殺によって、朝日の暗殺にいたる動機は上記のようなわかりやすい理由にまとめられた反面で、きわめて難解な部分を持つ。それは、少なくとも動機という点で、朝日自身が最も説明しにくかったものではなかったのだろうか。そのうえで、この動機を分析した橋川の視点は非常に斬新である。

大学院にいた当時の、わたし個人の心情もまた、朝日の行動に似たような部分もあった。指導教官に対する造反と迎合の入り混じった感情。何故大学を出たのかと言う理路整然とした理由を探していた。これは、「生半可なインテリ」であるところの朝日がしたため、その後のテロリズムに大きな影響を与えた「死の叫び声」を作る課程に良く似ている。そして、そこに書かれた理由とはまったく違う動機を抱きながら、朝日は暗殺に向かった。橋川の説明によれば、思想やイデオロギーとは全く異なった理由や背景を背負ったテロリズムである。そして、精神心理学の答えに見られるような「父親殺し」の代替行為としての暗殺。言い直せば、その行動を用いて、自らの存在を誇示するようなまったく私的な理由から出た行為。私の感情に直せば、指導教官に対する好意と憎悪の入り混じったあの感情だ。単に「父親殺し」の視点は、心理学の研究ではもはや一般化した概念である。しかし、それは同時代の社会的背景が重なる事によって、より多くの他者に対する牙を持つようになる。

現にここにいる私は指導教官やその他の有名人に危害を加えることなく、すごしている。だが、私と朝日はそれほど違わない。
しかし、華やかな都市文化の栄えた1920年代から30年代の日本においては、貧しさがその傍らに存在し、そこから反社会的、反政府的な活動を胚胎していた。この二者は「同時代的」とさえ言えよう。
私は幸いにもテロにも宗教にも沈む事無くやり過ごす事が出来た。

すなわち、飲み込まれると言うことがなかったのだ。

だが、今の状況はあの時代と大きく変わるものではないし、人間の弱さにつけ込むような社会的な危険性という点に関しては、より危険度が増していると思うのだ。

サービスらしきものが存在しない「公共交通機関のサービス」

2005年12月02日 23時09分19秒 | Weblog
小学生の頃は、自宅の近くのバス停からバスに乗り(変な表現だ)駅まで出て電車に乗って塾に通うという生活をしていた時期があった。しかし、この方法で出ると、電車の時間以上にバスの時間に拘束を受けることになる。仮に駅まで自転車で10分くらいの距離でも、バスに乗ると20分多めにかかるという具合になってくる。特に奈良は狭い道が多いから、混みだしたら動かないこともある。

だから、中学に入ると、時々自転車で駅まで出かけることにした。これによって、バスに乗るという行動がなくなっていく。だから今回の話は電車中心。

最近、こうした公共交通機関を「仕方なく乗っている」という印象を持っている。
帰りも、駅を出ると「携帯をかけるな」「マナーを守れ」「危険物を持ち込むな」
「体の不自由な人に代われ」「痴漢防止」とかのアナウンスをやたら多く行う。言っている車掌もやる気なさそうな声だ。つくづく社会が「学校化」されているのだと思うと、うんざりする。

最近、通勤で使う大阪市営地下鉄の料金システムが変わって、乗り継ぎのために梅田(大阪)でいったん改札を出て、30分以内に乗る継ぐ線の改札を通らなければならないというシステムに変わった。もともとはいったん改札を出て1時間でも2時間でもどこかに立ち寄ることが出来たのである。大方、運賃稼ぎの手段なのだと思う。

そういえば、近鉄線の途中下車システムもなくなって久しい。指定された駅ならば、切符を持ったまま改札を出ることが出来たシステムである。

こうした世知辛いまでに乗客から運賃を取ろうという制度を行う背景には、どこの鉄道会社も乗客数を減らしているというのがある。しかし、まだまだ日本の鉄道システムにおける「市場競争」は進んでいないと思う。デフレがあれほど進んでも、料金は安くなることなどなかった。そりゃあ、乗客も怒って乗らなくなるよ。

フォント購入計画

2005年12月01日 15時33分53秒 | DTP/Web
仕事以外のプライベートな課題で、DTP関連の製作を行うことになった。
しかし、フォントがこれというものを持っていない。
そこで、改めて手持ちのフォントを確認して、購入しようかと考え始めた。

DTPを習いに専門学校に在籍した当時、先生から、DTP・Web関連の材料を通販で取り扱っている業者を教えてもらった。その名はマルチビッツ
会社勤めの人でわかりやすい例を言うと、アスクルやカウネットなどの業者のことを指す。

会社にもカタログがあるが、請求すれば、個人でも送ってもらうことができる。
10月くらいに請求しておいた。昼休みに会社のをぱらぱらめくって、続きは家のカタログをめくる。このカタログ、結構重いから持ち運ぶにはしんどい。

フォントの業者のすべてを扱っているわけではないが、それでも主要な業者は抑えてある。

今買うならば、オープンタイプフォントである。フォントにも大きな分類枠があって、TURE TYPEやCIDなどといった種類があるが、本質的にはアドビ、マイクロソフト、アップルなどのコンピュータ会社が、どこと組むか(協力した)で決まった枠組みのようなもの。使用者にとっては長く意味のないものだった。おまけにフォントは本来、プリンターにもデータをインストールしておかなければならないものだった。

そこへマック、ウィンドウズの両方に対応し、プリンタフォントの要らないタイプが出て、最近ようやく普及してきた。それがオープンタイプフォントと呼ばれるものである。

フォントの価格相場が高いうえに、新型だけあってまだまだ高いが、それでも価格は落ち着いてきたみたいだ。

昔は明朝体が一番美しいと思ったこともあるが、それはワープロの文字だけ見慣れてからだ、フォントの本質というか、美しさの判断は私個人の場合、ゴシック、特に角ゴシックと思っている。今回もこれで購入の判断を行うつもり。