tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

書評:杉本淑彦『文明の帝国』(山川出版社 1995)

2005年12月17日 23時01分28秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(副題:ジュール・ヴェルヌとフランス帝国主義文化)

あまり知られていないが、今年はジュール・ヴェルヌがなくなって、100年が経つ。今年のお正月あたりに、ドラマかなんかの特集をBSで行っていたと思うが見ていない。というよりも、彼が亡くなって100年というのを知ったのは、11月も終わりであった。そこで良い機会だから、夏場に買っておいた本書を読んでしまおうと思った。古書市で買った本であり、この事は確か6月か7月のブログでも書いたと思う。

定価が非常に高い本(5300円)だから、本屋で買う事もためらっていた、一度大学の図書館で借りて読んだ事があるが、非常に良い本だと思った。若かったのと出たすぐという時期的なものがあったのかも知れない。

しかし、今読み返してみると、知識の浅かった(今もそれほど変わらないが)当時、本当にこの本の持つ本質が理解できたのかどうかわからない。少なくとも、当時関心を持っていた、ヨーロッパの「社会史」の観点から「面白い」と思ったに違いないのである。その後、大学院を出て多少なりとも、勉強していると、本質的な問題点とその問題点を明らかにするにあたって自分の姿勢や立脚点をどこにおくのかという倫理の問題にぶち合った。言い直せば、それまでただ、現象を素朴に理解し解釈する研究風潮の中で、「この文章はこうした問題点を持ちます」という「問題性の突き上げ」あるいは「提示」が研究者の新しい方法論であった時代はとうに過ぎ、その問題とどう向き合っていくのかということでもあった。

具体的には「この文章のこの部分には、ジェンダーの観点から見て問題があります。」という事をただ報告する時代から、「この文章を間違った解釈のまま放置していていいのですか」という行動(アクション)の部分を重視する時期へと移行していったと言えるのである。

本論から外れた。

大学の2,3年次になると、仏文科においてどのような作家を卒論として取り上げるかという質問を受ける。かっちりとした作家を挙げるものもいるが、友人の一人はジュール・ヴェルヌを挙げていた。比較的冒険小説や童話で卒論を書く者が私の周りでは多かったが、彼は最終的にアレクサンドル・デュマの『三銃士』で書いた。ざっと見渡してみてもヴェルヌで書く人間はいなかったし、ルブランの『アルセーヌ・ルパン』で書く人間もいなかった。子ども向けの冒険小説と思われているようだ。

書評として取り上げた本の作者の杉本先生(大阪大学教授を経て現在、京都大学大学院教授。一度授業を受けてみたかった・・・)も子どもに読ませる本を選んでいるうちに、その内容の問題性に気づいたところから、分析が始まったそうだ。

本書の視点は、イギリスに比べ質や量のにおいて劣る部分が多かったフランスの「帝国主義的支配」が国家政策のレベルから一般大衆の認識に移行する課程に使われるいくつかの「装置」をジュール・ヴェルヌの小説に見いだし、その内容面にわたる分析を行う。

そもそも、ヴェルヌの小説には、旅行ものが多い。『気球に乗って五週間』や『80日間世界一周』、あるいは『地球の中心への旅』や『地球から月へ』など。こうした世界を舞台とする内容である事は、既に世界を把握(支配)したい心性の発露でもあるが、そこから踏み込んで、表象の中に現れる人種差別について言及している。白人を中心に据え、黒人やアフリカ人を周縁に位置し、その人種の本質を考えないまま、アフリカ人は、白人に劣り、野蛮であり、啓蒙すべき人種として考えられている。中には、カニバリズム(人を食べること)も描き出されている。特に分析の中で納得したのは、『二年間の休暇』だ。あれは日本では『十五少年漂流記』というタイトルで出版されており、その少年の一人が、黒人なのだが、仲間で行う勉強会に参加させてもらえないばかりか、台所番として食事の用意をさせられ、寝るところも台所という扱いを受けている。とても他の白人少年とは同じ扱いを受けているとは言い切れず、少なくとも白人の少年達の間では、黒人が劣る人間だという認識があったのだ。また、本書では、イギリス人やフランス人の少年たちの所帯で、「勇気も知恵もある」存在が、フランス人であり、他方イギリス人の少年は、やや陰気な役どころを与えられている。

ヴェルヌの小説は、フランス人に多く読まれた。と、判断するのも、同じフランスの童話集であるラ・フォンテーヌの『寓話』(1670年代に成立、文体は韻文調、tyokutakaの友人が卒論で取り上げた事から知っているような本)が50年で最大75万部しか出ていない事に対して、ヴェルヌは、その生涯の間に、160万部も売ったと言われている。いわば、子どもの本で、この数字は、時代を考えても「お化け」的であると言われている。またヴェルヌの本は、クリスマスのプレゼントとしてよく使われたそうだ。

また、ヴェルヌは、同時代への言及を常に作品の中で漏らしている人でもあった。イギリスがフランスを出し抜くような政策を行えば、作品の中のイギリスの表象は、それまでどれほど好意的であっても、悪意に満ちたものになるし、これはロシアやドイツに対しても同様であった。他にも、カトリックとプロテスタントの違いも差別的である描き方を行い、科学への姿勢も同様だ。
しかし、こうした差別への心性が、国家指導層のレベルにとどまらず、大衆の中に降りてきている事を指摘して本書は終わっている。

本書の内容は、フランスの植民地主義成立過程にも言及しているが、実質的にはヴェルヌの作品が発した「帝国主義的側面」の分析に多くの部分が割かれている。もう少し発展性を望むならば、「帝国主義的側面」発した作品やヴェルヌ以前の問題、すなわちヴェルヌがどのような方法で、人種や科学の知識を得ていったかというメディアの側面にも広がっていくであろう。ここから歴史学と社会学の協力が生まれていく。

いずれにせよ、19世紀に対するノスタルジーを喚起する存在(私自身が社会史として提示される研究結果にノスタルジーを感じていたのだが)として読むと失望するかも知れないが、ヴェルヌの作品の魅力が併せ持つ悪意に関して解説された本としては一級である。発刊から10年近くたち、少なからず研究の視点の部分では新鮮さを失ったが、その反面、初心者が押さえなければならない本としての重要性が高まった希有な研究書であると私は考える。

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