tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

飲み込まれるということ(3)

2005年12月04日 23時07分43秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(使用テキスト:橋川文三「昭和超国家主義の諸相」(筒井編『昭和ナショナリズムの諸相』名古屋大学出版会 1994 所収)、
宮本又郎『日本の近代11 企業家たちの挑戦』中央公論新社 1999)

1999年10月初旬。東京都文京区本郷。
私は、学会で東京へ来て、午後から始まるその会に出席する前に、東京大学の安田講堂を眺めていた。印象とは異なり、かなり低さを感じるが、間近で見るその威風にただ圧倒される。

1969年1月。すでに閣議は大学紛争で混乱した東京大学の入試は不可能であるため、東京大学に対し、入試中止の勧告を行っていた。東大側は、これに反発。総長代行であった加藤一郎教授は警視庁にバリケードの排除を要請。警視庁は警備部(機動隊)を投入し、これの排除に取り掛かった。各学部の校舎の排除は比較的よういであったが、東大の象徴ともいえる安田講堂の封鎖の解除に際し、強力な抵抗が行われる。あのテレビの映像でもよく見かける攻防戦である。1969年1月19日午後5時46分、安田講堂の封鎖を解除。多数の逮捕者を出した。世に言う東大紛争の終結である。ただし、翌20日の閣議了承として、官房長官は1969年度の東大入試の中止を決定している

ところで、この安田講堂こそが東大の象徴であり、同時に日本資本主義の象徴でもあった。しかし、そのような巨視的な部分から研究するように、「ナショナリズム」もまた、見ていくと見逃すところに注目し、別な視点を切り開いた研究者の論に注目したい。

ところで、なぜ、東大の安田講堂から話を始めたのか?

権威の象徴として見なされた安田講堂は、その設立計画の当初から資本主義的権力の手垢にまみれた存在であった。

そもそもこの講堂そのものが、安田財閥の創始者、安田善次郎の寄付で作られた。安田の事業は金融業であり、この事業はその後、安田銀行や安田明治生命保険などの事業に発展していくが、その人間性すらも捨てた合理的な手法、特に今日の不況下で銀行が行っている手法は、当時の評者の間ではもっぱら不評であった。その帰結かどうかは、少なくとも経済学者の間では判断の埒外におかれる結末として、1921年9月28日、安田は大磯の別邸で朝日平吾という青年右翼に刺され横死する。享年84歳。朝日もまたその場で自殺している。経済学者の宮本又郎はこの時の状況を以下のように書いている。

朝日は社会的義憤のため事に及んだと見られたが、善次郎に寄付を申しこんで拒絶されたという金銭的トラブルもあったらしい。後年、プロレタリア作家の宮嶋資夫は善次郎をモデルとして『金』という作品を書いたが、大正デモクラシーの代表的文化人吉野作造は『中央公論』誌上にこの感想を書き、善次郎の生き様に批判を加え、朝日平吾の行為に一定の理解を示した。吉野にしてみても善次郎的企業家は私利のみを追求する伝統的商人としか映らなかったのである。

ところで、都市文化が栄えた1920年代から30年代にかけて、その華やかな文化の反面で、暗殺や暴力が多く起こった。そのその流れの最終的な終着点として、日本ファシズム、すなわち戦争を行うという思想へとたどり着くのだが、その初期とも言える時期に起こったこの事件を、朝日本人の心理的な部分から分析を行った政治学者がいた。橋川文三(1922ー1983)である。橋川の朝日を分析する前提にあったのは、社会的義憤と金銭トラブルによる怨恨の二分化によるどちらか一方の取捨選択ではなく、むしろ両者の折衷型であった。それによると朝日のパーソナリティは不幸な人生(実母と死別し、継母には冷遇された。)を送る事で作られたと言われる、感傷性とラジカルな被害者意識の混合であった。そして、彼の不幸感はしばしば周囲の人に対して理不尽異常な攻撃衝動となった。

しかし、朝日自身のライフコースを見る限り、決して貧しいだけの人ではなかった。それは当時の人間としてはかなりの高学歴指向であったことである。学資が続かず、多くは中退しているが、鎮西学院、早大商科、日大法科などの学校へ入学している。そして同時にコテコテの思想に固まった過激派とは異なった「生半可なインテリ」が政治と思想の、そしてテロリズムの最前線に浮かび上がる先駆的な存在であった。

その半面で、彼の行動の一つには有名人に異常なまでに近づきたいという欲望があった。彼は当時の実業家の多くに面談の申し入れを行い、渋沢栄一などはこれを受けいれた。勿論朝日が傾倒した実業家であったことは言うまでもない。しかし、多くは断られ、その結果として朝日の勝手までの好意が憎悪に転換する事が多かった。安田の暗殺はその延長線上にある。ちなみに、彼は事件を起こす少し前に、名だたる右翼の指導者達に対して、遺書を送っている。その一部が漏れる事によって、感化された人間、すなわち模倣犯(テロに走る人々である)が生まれるのだが、今のところこれらに対する言及は見送る。

その上で、こうしたテロに走る若者の背後にある心理的な部分はどのように構成されているのか。
政治学者ラスウェルは、政治的暗殺や類似行動の分析を行う際に用いるのが、「父親への憎悪」という概念である。
今までのところをまとめて、橋川の論文から引用してみよう。

(父親憎悪とは)例えばある少年が母を失い、継母が来てからその学業成績が悪くなり、家庭の期待を裏切るような兆候が現れたとする。その場合、少年の意識にはまず継母を憎むという反応が生じる。しかし、「深層レベルでいえば、実母が死んだのは父のせいという意識が認められる。」しかも父と権威への反抗は(精神分析学の公理にしたがえば)少年期において罪障感を呼び起こす最大の原因である。そこへ「少年は自分の気持ちをうまく処理できないという事に猛烈に気がとがめ、無意識のうちに自らを懲罰しようと感じる。」
(中略)
報いられない父への愛から生じる憎悪は「君主とか、資本家のような身近とは言えない抽象的なシンボルに向かって置き換えられ、その破壊へと駆り立てる」ことが多いとされる。
(pp.,14-16)

しかし橋川は、朝日がどのような感情で事件を起こそうとも、安田刺殺前に書き、その後のテロリズムに大きな影響を与えた「死の叫び声」という一文と朝日の行動の背景とは、全く相容れないものがあると結論つけている。言い直せば、その文章を公開されることによって、本来、朝日個人の本当の目的であった父親殺し(パリサイド)を、社会的正義から行った暗殺というように塗り替えてしまったのである。朝日が昭和ファシズムの先駆的存在として考えられる所以である。しかし、加害者の自殺によって、朝日の暗殺にいたる動機は上記のようなわかりやすい理由にまとめられた反面で、きわめて難解な部分を持つ。それは、少なくとも動機という点で、朝日自身が最も説明しにくかったものではなかったのだろうか。そのうえで、この動機を分析した橋川の視点は非常に斬新である。

大学院にいた当時の、わたし個人の心情もまた、朝日の行動に似たような部分もあった。指導教官に対する造反と迎合の入り混じった感情。何故大学を出たのかと言う理路整然とした理由を探していた。これは、「生半可なインテリ」であるところの朝日がしたため、その後のテロリズムに大きな影響を与えた「死の叫び声」を作る課程に良く似ている。そして、そこに書かれた理由とはまったく違う動機を抱きながら、朝日は暗殺に向かった。橋川の説明によれば、思想やイデオロギーとは全く異なった理由や背景を背負ったテロリズムである。そして、精神心理学の答えに見られるような「父親殺し」の代替行為としての暗殺。言い直せば、その行動を用いて、自らの存在を誇示するようなまったく私的な理由から出た行為。私の感情に直せば、指導教官に対する好意と憎悪の入り混じったあの感情だ。単に「父親殺し」の視点は、心理学の研究ではもはや一般化した概念である。しかし、それは同時代の社会的背景が重なる事によって、より多くの他者に対する牙を持つようになる。

現にここにいる私は指導教官やその他の有名人に危害を加えることなく、すごしている。だが、私と朝日はそれほど違わない。
しかし、華やかな都市文化の栄えた1920年代から30年代の日本においては、貧しさがその傍らに存在し、そこから反社会的、反政府的な活動を胚胎していた。この二者は「同時代的」とさえ言えよう。
私は幸いにもテロにも宗教にも沈む事無くやり過ごす事が出来た。

すなわち、飲み込まれると言うことがなかったのだ。

だが、今の状況はあの時代と大きく変わるものではないし、人間の弱さにつけ込むような社会的な危険性という点に関しては、より危険度が増していると思うのだ。

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