tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

飲み込まれるということ(2)

2005年11月26日 23時47分26秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(使用テキスト:マックス・ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄訳 岩波書店 1936、1980改訳
浅羽通明 前掲書)

前回のブログでは、まるで小林よしのり氏がまるで何もわかっていない人のように描かれている(引用した部分では)が、そもそも、こんな強い自立した「個人」の追求は小林氏のオリジナルな発想ではない。少なくとも私の知見では、その流れの一つは、1919年1月にドイツのミュウヘンでマックス・ウェーバーが行った講演に由来すると見なすことが出来る。その内容は、現在岩波書店の『職業としての学問』で読むことが出来るのだが、表紙の解説にあるような内容になっていないように思われる。その解説を引用してみよう。

第一次大戦後のドイツ。青年達は事実の代わりに世界観を、認識の代わりに体験を、教師の代わりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバーはこうした風潮を鍛えられるべき弱さだと批判し、「日々の仕事に帰れ」と彼らを叱咤する。

とあるが、どう読んでも、ウェーバーは、自分たち教師が指導者でないことを証明しても、各個人の「日々の仕事へ帰」ることまでは発言していないように思われる。ちなみに本書は、現在、ジェンダーの観点から見た場合、かなりの問題を含んでいる。ご確認願いたい。

さて、誰を指導者とするのか。この人選と言う微妙な行為はある人間にとっては、容易く行うことも出来るし、そうでない人もいる。もっとも、宗教の勧誘に誘われて入っていく若い人々に、あのオウムのような「極端な」指導者を欲する部分があったのかどうかは定かではないが。

ところで、大学時代における私個人の指導者は大学の教授であった。しかし、大学の学部生の頃に触れた文学研究は、大学院までいってやることではなかった。「講読」「作品研究」「演習」などと多くの授業名称を用いるが、読んで訳すだけの日々。卒論の時期になってようやく浮上する別な能力としての解釈と論の創作。この乖離は、教員の提供する授業を通じて見た文学研究の世界に対して不信感を募らせるのに充分であった。そこで、大学院では教育学を勉強していた。

大学院に入ってしばらく、修士論文用の関心を聞かれるが、どれだけ言説分析の方法を力説しても「教育の現場へ入れ」の一点的な圧力。これに従わなかったので、論文の指導は受けられないことになった。形式上は私の方からの指導拒否となっている。またもや指導教官に対する不振。そのとき思った、指導教官は研究の何に関心を持っていた人なのか。本は何冊か出しているが解放教育関連の本ばかり、この出発点は、20世紀初頭のシカゴにおける都市問題の調査を源流におく「シカゴ学派」の手法だと聞いた。だったら、その関連の社会学的論文がどこかの研究雑誌に転がっているはず。

図書館の書庫で延々論文を探した。しかし、出てきた答えは、論文など存在せず指導教官が大学院で書かれた修士論文の題名のみ。その時始めてわかった。論文らしきものを書かなかった人なのだと。偶然にも今の地位に就いている人だとも。
ところで、学者の世界は「指導教官は誰ですか」と聞かれることが多い。その場に立つ人間の能力以前に、出自が非常に重視される世界なのだ。私も聞かれた。そして「知らないなあ」と笑われることが多かった。指導教官に論文が無い以上、笑われて当然である。そのような人物を指導教官に選んだ私の「自己責任」が問われただけであった。

そもそも、教育の社会学を専門にしていた人であるだけで、選んだ指導教官だった。

解放教育には関心が無かった。昔、差別者を糾弾する集会を見たことがある。「差別は悪いぞ」の一言で、他者の意見を封殺(圧倒)しているだけの集会であった。啓蒙という手段を用いて野蛮に墜す。そんな光景だった。
しかし、ここからが本論なのだが、自ら拒否した人物に対して、何らか信じたい部分もあった。実は、このアンビバレントな感情に対して、うまく説明できなかった。この大学院を出た後、他の大学へ聴講生の身分で入り、そこで尊敬できる新しい「指導教官」に出会えたが、根本的に私の中では自分のせこさ故に、指導教官を変えて出直すという部分を否定できなかった。
この点において、新たに大学院に誘ってくれた、新しい「指導教官」に泣いて土下座してでも謝るしか無かった。
でも、事実に向き合うために元の大学院に戻ることは無かった。そして私は大学という組織を後にして、社会に出た。

当時の私(同時にココロに余裕などなかったのだが)にとっては、指導教官の方針に従い、言われるままに調査し、その方面で書くというのが、ただ「飲み込まれる」という行為に思えた。そうやって「飲み込まれる」ようにして書いたものに対しては責任をおえない人もいるし、修士論文だけ書いてその後何も出て来ない人間だっている。だったら、これから先も追求できる(同時に半永久的に責任の取れる)課題と方法論で書くということを考えていた。それはとりもなおさず、異質な部分から出発し、正統性のポジションを揺さぶり、自らが新たなる中心に立つことの普通の行為のように思えたし、それが成功するかどうかで、既に将来が決まるとも思えた。あくまで思えただけだが。
しかし、そうした感情もまた誰かを振り向かせたいという意思が働いていたのだ。
この感情そのものが、実は私をここ数年悩ませてきた本質であった。
最後に、浅羽氏が小林氏を批判した別な文章を引用しよう。

『新ゴーマニズム宣言 第6巻』第75章は、そんな彼の困惑(若者が別な運動に組み込まれていくことに対して・・・ブログ執筆者注)を見て、「小林さんはつくづく普通の人の気持ちがわからないのだな」といった私、浅羽通明の慨嘆とそれに対する小林の反応を描いている。小林はこう書いた。「その一言がわしにはショックだった/反省して視点を変えるきっかけになった/そうだった!普通の人々が/個を安定させ/美しいたたずまいを/つくれる思想が/必要なんだ/そこからわしは/「個の確立」という/考えを捨て/『戦争論』を描く/モチベーション/を高めていった」と・・・

先の指導者不在こそが、常態であることを喝破したウェーバーは本質的に専門的職業性に裏打ちされた「真の自立した人間」であったのかというと、私はこの問いにたいして否定する。おそらくは本質的に弱い人間であって、責任が負えないことを告白した、または自分の弱さをも吐露した文章なのではなかったかと考える。
結局のところ、ウェーバーもまた、本来は「指導者」を待望する可能性を多くもった個人であったのだ。「強さの裏返しは弱さ」であって、また「弱さの裏返しは強さ」でもある。

だとすると、小林氏もまた本質的に「弱い個人」であったことを指摘しなければならない。実は「普通の人の気持ちがわからない」という言葉にショックを受けたことよりも問題とするべきなのは、自分と「普通の人」を分けていたことへ反省し、「普通の人」へ近づいていくことで、既存の決してリベラルとは言えない思考へ接近していく危険性の方ではなかったのかということである。

実際には、その後小林氏は弱い個人と彼らに対してアイデンティティを供給する集団の賛美肯定へと向かうのだが、ここではこの程度にしておく。なぜなら彼の肯定した集団にはオウムや新しい歴史教科書の団体も含まれるため、今話したいことからずれていくからだ。ただし、こういった集団と次以降で話す内容とは、それほど大きなずれも無いので、少し念頭に置いておいてほしい。それは、こうした集団からアイデンティティを与えられた人間の行動と私を比較するからである。

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