飄(つむじ風)

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アメリカ炎上!!21

2008-03-17 08:35:45 | 日本

『アメリカ炎上』転載弟21弾!!
     小石 泉(牧師)著


最後の審判<o:p></o:p>

Photo_3  

  今年五月末、私は家内とイタリヤ旅行に行った。その中でローマのバチカン美術館とシスティーナ礼拝堂に入り有名なミケランジェロの「最後の審判」の絵を見た。その大きさ、その見事な筆裁きにさすがに圧倒された。私はもしキリストが再臨されて、この絵の前に立ったらどんな感想を持たれるだろうと考えた。それまであるかどうか判らないけれど。

 最後の審判、そんなものあるわけがない、と思われるだろうか。いや、絶対に無ければならない。世の中には死刑では終わらない犯罪がある。本人の命だけでは済まされない罪悪がある。

池田小学校児童殺傷事件の宅間 守、奥多摩の幼女殺人遺棄事件の宮崎勉、八ヶ月の赤子にナイフを突きつけた男、彼らが本人の死刑で事が済んでたまるものではない。それどころか、歴史上数限りの無い戦争犯罪、中でも全く不必要で、すでに降伏を表明していた日本の意思を無視して広島、長崎に原爆を落とし、数十万人を虐殺し、意味も無くベトナムやユーゴスラビアやイラクで殺戮の限りを尽くしたアメリカの指導者たち。これらのものが裁かれもせずむしろ英雄として讃えられていいものだろうか。これらの戦争の残虐非道が裁かれもせず永遠に放置されて済むことだろうか。そこに完全な正義があって正しい裁きが行われるという思想はもっと尊重されるべきではないのか。そこに人類の本当の正義の基準があり、希望があるべきではないのか。聖書はこの神の最後の審判を簡潔に記している。<o:p></o:p>

「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」黙示録20:11~15<o:p></o:p>

 あえて説明は要らないし、第一説明できるわけがない。カトリック教会はここから多くの脅迫を行ってきた。無数の絵が描かれ、彫刻が彫られた、ミケランジェロはもとよりロダンの「地獄の門」もこの箇所が主題である。しかし、どんなに空想を逞しくしても、事実には程遠いだろう。そしてこれは本当に起こるだろう。Photo_2

 ここにある「いのちの書」とは別名を「小羊のいのちの書」という。小羊とはキリストのことである。人は善行や修行によって神の国に入るのではなく、キリストの身代わりの死を受け入れたものだけが神の国の民となるというのがキリスト教の教えである。人間はありとあらゆる方法で自分を磨き、清め、神または神々のお気に入ろうと試みてきた。しかし、そこには必ず自己満足、自己義がへばりついている。自らを清いと称する人間ほど醜いものはない。クリスチャンとは徹底的に自己に失望し、他者すなわちキリストにのみ期待する者の事である。キリスト教は徹頭徹尾、他力本願であってそれ以外ではない。言い換えれば、人間が到達し得る義や清さでは、神の国にはふさわしくないのである。神の基準は人間の基準とははるかにへだたっている。もし、人間が自らを清いとか正しいと考えるならそんな義は便所の手拭よりけがれている。聖書はこう言っている、

「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」イザヤ64:6<o:p></o:p>

 ここに言う「不潔な着物」とは、女の月経のナプキンという意味である。何という表現か!それほど人間は罪に染まっていてどこにも神の義にふさわしいものは居ないということである。あなたは失望するだろうか。失望する必要はない、だからあなたのためにキリストがとりなしてくださるのである。キリストはあなたの身代わりとして十字架に掛かり、あなたは清められた。もし彼を信じるなら、あなたも「小羊のいのちの書」に書き加えられる。ただへりくだることだけが条件である。高慢はサタンの性質、謙遜はキリストの性質なのだ。

 そしてついに世界は新しい時代を迎える。<o:p></o:p>

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。黙示録21:1~4<o:p></o:p>

「都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」21:25~:27  現在の宇宙と地球は消え去るとある。 えー! 消え去るのか? <o:p></o:p>

聖書には別にもこの天地の消滅が書かれている。<o:p></o:p>

「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」Ⅰペテロ3:10<o:p></o:p>

ここに言う天体とはギリシャ語でストイカイオン、諸原素という意味であるから、それこそ原子の単位まで焼け崩れ、崩壊するのであろう。そして新しい天地、宇宙が生まれる・・・・・・。これが私には判らない。最後の審判が終わって、神の国に入るもの、火の池に投げ込まれるものが決まって、そのような霊的世界で終わるのかと思ったら、また新しい物質的な世界が出来て、そこに地球があって、またアダムとエバが生まれて・・・・・また罪を犯して・・・・・まさか。<o:p></o:p>

 結局、それは神の国に行ってみなければ判らない。判らないことは判らなくて良い。<o:p></o:p>


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