飄(つむじ風)

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『終わりの日の預言』の周辺情報!!②

2008-04-28 10:27:55 | 預言

『終わりの日の預言』の周辺情報!!
ハナンエルの よい知らせ!!②

 ここに至って、『主の聖所』の由来が明らかになった。先の『終わりの日の預言』の記述からは、『主の聖所』の経緯について明らかではなかったが、想像はついていていた。故に大祭司であったのか。<ブラック・マリア:最悪の偶像>Photo

 しかし、大いなる転身である。変容と言うべきか。宗教心は内在しながら、偶像崇拝はどうもという、御仁は少なくないと思う。かく言う投稿者も、その一人である。『鰯の頭も信心から』という言葉も、好きではない。鰯の頭は、所詮、鰯の頭に過ぎない。十字架も、ペンダントも、お札も、お守りも同じ類であって、とうてい信仰とは本質において異質の存在である。例えてみれば、乳児に与える『おしゃぶり』くらいの意味合いは持つであろうが、母親の乳房では決してない。

 偶像をあながち否定することは、乳児の『おしゃぶり』を否定することと同じであって、暴論過ぎはしないかとの論もあるであろう。それも否定しないし、容認しよう。しかし、その論は、乳児と言う前提を肯定するところからきている。さすれば、大の大人は、『おしゃぶり』を必要としないのであって、真の信仰には偶像を必要としないと言う論理も全く正しい。

 認識力の欠如を補う上の偶像は『方便』として、肯定するとしても、本質において偶像は信仰の対象であってはならないとする。これはもっともな理屈である。従って、偶像崇拝は、真の信仰ではない。むしろ、信仰上、迷いの段階であって、ともすれば詐欺、ペテン、悪鬼のつけいる隙を与える危険を伴う。

 現在のあらゆる宗教、既成、新興を問わず、偶像に頼らない宗教はきわめて少ない。その意味でこの変容は、限りなく大きい。モーセが、イエスが、ブッダが偶像をもって信仰の説いたか。

 偶像崇拝の最大の宗教は、バチカンである。バチカンはキリスト教に偶像を持って食い入ったサタンの巣窟である。

【転載開始】主の聖所の造営

 「衆生救済」と説いた宗門門主は、事件後、拘留中に病気となり腹部を「人」という字に切り裂く手術を受けました。同宗門の教団幹部ら、僧侶らは「自己正当 化」に奔走しました。私は生きて働かれる神は煌びやかな聖堂や堂塔伽藍の中にはおられないことを痛感することとなりました。
 神は、その御目に相応しい人々に、その霊を注がれ、真に「生きるもの」とされるのです。私は「大いなる存在」を求める人々を偶像崇拝に導いた罪を、神に よって裁かれました。単なる人間を「師」として無条件に信じ、崇敬の念を抱き、その言葉を頼りとし善行と信じてきた私たち僧侶は、その行為が大いなる存在 とは全く無関係であるばかりか、明らかな悪行であることを知るところとなりました。「師匠」と呼ばれた人は、人々を偶像に導く行為を「宗教名目に金員を集 めさせる陰謀」に利用し、神とこの世の法においても裁かれたのでした。
   平成9年秋、私は主の住まいである「幕屋」を造営することを命じられました。そしてその「幕屋」は「主の聖所」と名付けられました。そして主はこのように言われました。

 「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこに行きなさい。献げものをそこに携えて行き、あなたたちの神、主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。

   あなたの神、主はあなたを祝福されているからである。

      あなたをこの世に創造し、母の胎内に宿らせ形づくり、今また霊的胎内である主の聖所に宿られた、あなたを助ける主なる神はこのように言われる。

    『恐れるな、わたしは僕(しもべ)よ、わたしの選んだ者よ。
あなたがたの真の主なる神であるわたしは、乾いている大地に水を流れさせ、魂の乾いている人々には、真に生きるための《命の水》(御言葉=預言)を注ぎ、 主の民の住む地と主の民たちに祝福と繁栄を与える。主の聖所に集う者らは、草の生い茂る潤った地に主の種として蒔かれ、彼らは水のほとりの柳のように育 つ。主の民のある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名乗り、またある者は手に『主のもの』としるし、『イスラエル(=主の民)をその名と して命の書にその名が記される。

  わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。誰か、わたしに並ぶ者がいるなら、声をあげ発言し、わたしと競ってみよ。わたしがかつて、主の民と契約を交わしたあの日から、来るべき日に至るまでを告げてみるがよい。


   
あなたたちを妬んだり、敵対する人々の言動に恐れ、おびえるな。すでにわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちは、わたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか。わたしはそれを知らない。

 偶像を形づくる者は皆、無力で、偶像崇拝者らが慕うものは役に立たず、助けにならない。偶像は見ることも、知ることもなく、恥を受ける。役に立たない偶像 を鋳る者はすべて、偶像崇拝者らと共に恥を受ける。彼らは寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似 せて作り、神殿に置く。そしてそれにひれ伏し、それを拝む。

    わたしは高く聖なる所に住み、打ち砕かれてへりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた人に命を得させる。わたしが顧みるのは、苦しむ人。霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。

 偶像をたたえる者が自分たちの道を選び、その魂が忌むべき偶像を喜ぶなら、わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び、彼らの危惧することを来させる。彼ら は呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされる事を行い、わたしの喜ばないことを選ぶのだから。
   わたしの言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者、わたしの名のゆえに、あなたたちを追い払った者が言う、『主が栄光を現されるようにお前たちの喜ぶところを見せてもらおう』と。
   彼らは恥を受ける。」

 すべては拘留中のYから送られた「不思議な言葉が記された手紙」からはじまりました。教団内の「隠されていた真実」はすべて明るみに出されました。そては 誰1人として予想もしなかった「事実」でした。人生の重荷を背負い、その苦悩の解決を神仏に求める人々を神は救い導き出そうとされました。ある者はYを通 して伝えられる『預言』を確信し、宗門を離脱し真の信仰を築く道を選択しました。ある者は自らの計らいを信じて去って行きました。そしてある者は人の言葉 の罠にかかって行きました。それはかつてエジプトからモーセによって導き出された主の民、イスラエルたちの姿と同様でした。私はいつの時代にも変ることの ない人間の選択と、彼らを神から引き離そうとする『存在』を知りました。
   平成11年1月10日、消え去ったかつての『イスラエル12部族』の根は、21世紀の現代に根づこうとしていました。そして、これまで固く封印されていた聖書の幻が現代に明かされようとしていました。【転載終了 続く】


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