飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

不思議な少年!! その100

2011-06-25 14:25:31 | 物語

山上の垂訓一続き。イエス十二弟子に第九誠の精神的意味を明らかにす!! 


 最も好きな垂訓である。 

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<無題・・・・・・。

 

 クリスチャンではないから、十戒に深く拘ることはないが、至極、当然の戒律であるが、問題はその精神的意味が大切だ。そして、それはいつの間にか、精神性を離れ、表面的な字義に囚われ、目に見える世界に止まる。これをドグマ(教条)と言う。


 イエスは、ドグマ(教条)を排し、その本質を語っている。 


 人間は本質的に霊であり、精神そのものである。なら、十戒もそのように実践しなければ、何の意味もない。その事を説いている


 十戒に限らず、およそ宗教の本質は、宇宙の法則を示しているのが本義であるから、その本義を弁えていると、欺されることはない。ところが、宗教の戒律が、ドグマ(教条)と化すところに欺瞞が生まれる。これが宗教はアヘンと言われる所以だ


 聖書であれ、仏典であれ、それは全く同じだ。人間はそれぞれ了見が様々であるから、宗教的リーダーが了見が狭ければ、たちまちドグマと化す。そして、宗教奴隷を胚胎する。了見を広く、高くするのは、それぞれ各自の判断力に委ねられている。


 『単に事実を語る』と言うことの重みは、全てに通用する。嘘を吐くと言うことは、言葉に限らず、態度、所作にも顕れるということである。全ては、自己顕示性の成せる技だ。しかし、野に咲く花、空に飛ぶ鳥、・・・それらは、単に事実に生きているからである。人間の生き方の福音(良い知らせ)がそこにはある。


 

山上の垂訓一続き。イエス十二弟子に第九誠の精神的意味を明らかにす。



 律法は『なんじいつわるなかれ』(出エジプト二〇・十六)と言っている。しかし、律法の目から見れば、嘘つく者は真実でないことを言葉で言い現わさなければならない。


 さて、霊の律法の光に照らして見れば、いかなる種類のいつわりでも嘘に外ならない。人は顔つきでも行いでも嘘がつける。それのみか、沈黙によってもいつわれる。聖気の目から見ればこれも罪である。


 昔の人々に、『なんじ汝の生命にかけて誓うな』と言ってある。


 しかし、見よ、わたしは言う、一切誓ってはならぬ。頭によっても、心によっても、目や手によってもまた日月星辰によっても、神の名によっても、善悪の霊の名によっても、何事によっても誓ってはならぬ。誓いには何の得るところもない。


 言葉によって何かの誓いを裏付けしなければならないとする者は。神や人,の目から見て信頼するに足らない。誓いによって、一枚の葉を落すことも出来なければ、一筋の毛髪(かみのけ)の色を変えることも出来ない。


 立派な人物は単に事実を語るだけである。そして人々は彼がまことを語っていることを知る。


 まことを語ると人々に信じさせるために、多くの言葉をしゃべり出す者は、単に嘘をかくすために、煙幕を張っているのにすぎない。一見して二心(ふたごころ)ある人が多い。これは同時に二人の主人、しかも全く反対側の主人に仕えようとしている人々である。


 人々は、安息日に神を拝するまねをし、ほかの六日間にはベルゼブルの機嫌をとるのである。何人も同時に二人の主人に仕えることは出来ない。これは丁度同時に反対の方向に行く二頭の驢馬(ろば)に乗れないと同様である。


 神とベルゼブルを拝する振りをする者は神の敵であって、信心深い悪魔であり、人の呪いである。また、人は天と地に一度に宝を貯えることは出来ない。


 見よ、わたしは言う、目をあげて天の安全金庫を見て、そこに宝石を悉く貯えよ。そこは虫もさびもそこなわず、盗人が押し入って盗み出すことも出来ないところである。


 地上には、虫やさびや盗人のそこなわない安全金庫はない。地上の宝は過ぎ去る空しい物に過ぎない。


 だまされてはならない。あなたがたの宝は魂の錨(いかり)である。宝のあるところに心がある。地上の物に心をおいてはならない。何をたべ、何を飲み、何を着ようかと思いわずらってはならない。神は神によりたのんで、人々に仕える者を守って下さる。


 空の鳥を見よ。歌を歌って神を讃美する。地はその喜びの奉仕によって一しお光栄を添える。神はそのたなごころを入れてこれを守る。一羽の雀もその許しなくしては地に落ちない。そしてすべて落ちるものは、再び起きあがる。


 地上の花を見るがよい。花は神によって育ち、その美と匂いによって地上をゆたかにする。聖なる愛の使者なる野の百合を見よ。人の子は誰ひとりとして、栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。


 しかもこれらはみな単に神にたより、その聖手(みて)に養われ、頭(こうべ)をその胸にやすめる。もし神がそのみ心に従う花や鳥をかくも着せ養い給うなら、まして自分の子らが神にたよる時に、養い着せ給わないことがあろうか。


 先ず魂の国と神の義と人の善とを求めてつぶやかなければ(つぶやけば※転載者注)、神は守り、養い、着せて下さる。 


 

【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】            


第十六部 イエスのキリスト者奉仕の二年目 


第九十九章 山上の垂訓一続き。イエス十二弟子に第九誠の精神的意味を明らかにす。



1)律法は『なんじいつわるなかれ』(出エジプト二〇・十六)と言っている。しかし、律法の目から見れば、嘘つく者は真実でないことを言葉で言い現わさなければならない。

2)さて、霊の律法の光に照らして見れば、いかなる種類のいつわりでも嘘に外ならない。

3)人は顔つきでも行いでも嘘がつける。それのみか、沈黙によってもいつわれる。聖気の目から見ればこれも罪である。

4)昔の人々に、『なんじ汝の生命にかけて誓うな』と言ってある。

5)しかし、見よ、わたしは言う、一切誓ってはならぬ。頭によっても、心によっても、目や手によってもまた日月星辰によっても、

6)神の名によっても、善悪の霊の名によっても、

7)何事によっても誓ってはならぬ。誓いには何の得るところもない。

8)言葉によって何かの誓いを裏付けしなければならないとする者は。神や人,の目から見て信頼するに足らない。

9)誓いによって、一枚の葉を落すことも出来なければ、一筋の毛髪(かみのけ)の色を変えることも出来ない。

10)立派な人物は単に事実を語るだけである。そして人々は彼がまことを語っていることを知る。

11)まことを語ると人々に信じさせるために、多くの言葉をしゃべり出す者は、単に嘘をかくすために、煙幕を張っているのにすぎない。

12)一見して二心(ふたごころ)ある人が多い。これは同時に二人の主人、しかも全く反対側の主人に仕えようとしている人々である。

13)人々は、安息日に神を拝するまねをし、ほかの六日間にはベルゼブルの機嫌をとるのである。

14)何人も同時に二人の主人に仕えることは出来ない。これは丁度同時に反対の方向に行く二頭の驢馬(ろば)に乗れないと同様である。

15)神とベルゼブルを拝する振りをする者は神の敵であって、信心深い悪魔であり、人の呪いである。

16)また、人は天と地に一度に宝を貯えることは出来ない。

17)見よ、わたしは言う、目をあげて天の安全金庫を見て、そこに宝石を悉く貯えよ。

18)そこは虫もさびもそこなわず、盗人が押し入って盗み出すことも出来ないところである。

19)地上には、虫やさびや盗人のそこなわない安全金庫はない。

20)地上の宝は過ぎ去る空しい物に過ぎない。

21)だまされてはならない。あなたがたの宝は魂の錨(いかり)である。宝のあるところに心がある。

22)地上の物に心をおいてはならない。何をたべ、何を飲み、何を着ようかと思いわずらってはならない。

23)神は神によりたのんで、人々に仕える者を守って下さる。

24)空の鳥を見よ。歌を歌って神を讃美する。地はその喜びの奉仕によって一しお光栄を添える。神はそのたなごころを入れてこれを守る。

25)一羽の雀もその許しなくしては地に落ちない。そしてすべて落ちるものは、再び起きあがる。

26)地上の花を見るがよい。花は神によって育ち、その美と匂いによって地上をゆたかにする。

27)聖なる愛の使者なる野の百合を見よ。人の子は誰ひとりとして、栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

28)しかもこれらはみな単に神にたより、その聖手(みて)に養われ、頭(こうべ)をその胸にやすめる。

29)もし神がそのみ心に従う花や鳥をかくも着せ養い給うなら、まして自分の子らが神にたよる時に、養い着せ給わないことがあろうか。

30)先ず魂の国と神の義と人の善とを求めてつぶやかなければ(つぶやけば※転載者注)、神は守り、養い、着せて下さる。

 

【原文:The Aquarian Gospel of Jesus by Levi H. Dowling  


SECTION XVI

AIN

The Second Annual Epoch of the Christine Ministry of Jesus

 

CHAPTER 99

The Sermon on the Mount, continued. Jesus unfolds to the twelve
the spiritual aspects of the ninth Commandment.

THE law has said: Thou shalt not lie; but in the eyes of law a man to lie must tell in words what is not true.
2) Now, in the light of spirit law, deceit in any form is nothing but a lie.
3) A man may lie by look or act; yea, even by his silence may deceive, and thus be guilty in the eyes of Holy Breath.
4) It has been said in olden times: Thou shalt not swear by thine own life.
5) But, lo, I say, Swear not at all; not by the head, the heart, the eye, nor hand; not by the sun, the moon, nor stars;
6) Not by the name of God, nor by the name of any spirit, good or bad.
7) You shall not swear by anything; for in an oath there is no gain.
8) A man whose word must be propped up by oath of any kind is not trustworthy in the sight of God or man.
9) By oath you cannot make a leaf to fall, nor turn the color of a hair.
10) The man of worth just speaks and men know that he speaks the truth.
11) The man who pours out many words to make men think he speaks the truth, is simply making smoke to hide a lie.
12) And there are many men with seeming double hearts; men who would serve two masters at a time ? two masters quite adverse.
13) Men feign to worship God upon the Sabbath day and then pay court to Beelzebub on every other day.
14) No man can serve two masters at a time no more than he can ride two asses at a time that go in different ways.
15) The man who feigns to worship God and Beelzebub is foe of God, a pious devil and a curse of men.
16) And men cannot lay treasures up in heaven and earth at once.
17) Then, lo, I say, Lift up your eyes and see the safety vaults of heaven, and there deposit every gem.
18) Where moth and rust cannot corrupt; where thieves cannot break in and steal.
19) There are no safety vaults on earth; no place secure from moth, and rust and thieves.
20) The treasures of the earth are but illusive things that pass away.
21) Be not deceived; your treasures are the anchor of the soul, and where your treasures are your heart will be.
22) Fix not your heart upon the things of earth; be anxious not about the things to eat, or drink or wear.
23) God cares for those who trust in him and serve the race.
24) Behold the birds! They praise God in their songs; the earth is made more glorious by their ministry of joy; God keeps them in the hollow of his hand,
25) And not a sparrow falls to earth without his care; and every one that falls shall rise again.
26) Behold the flowers of earth! they trust in God and grow; they make the earth resplendent with their beauty and perfume.
27) Look at the lilies of the field, the messengers of holy love. No son of man, not even Solomon in all his excellence, was ever clothed like one of these.
28) And yet they simply trust in God; they feed from out his hand; they lay their heads to rest upon his breast.
29) If God so clothes and feeds the flowers and birds that do his will, will he not feed and clothe his children when they trust in him?
30) Seek first the kingdom of the soul, the righteousness of God, the good of men, and murmer not; God will protect, and feed, and clothe.

 【続く】


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3 コメント

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おはようございます。 (アンディ)
2011-06-26 09:04:54
おはようございます。
飯山氏はもう日本は手遅れだと言っています。私も90パーセントそう思いますが10パーセントはあえて希望としてます。
氏は、中国と日本を行き来しているので、一番この国の現状に気づいています。外国にいた方が、日本のことが一番よくわかるそうです。日立メーカーの人がそう言っていました。
しかし、仮に菅をやめさせても、この状況は何ら変わらんでしょう。2年前の選挙がいまやなつかしく思う。
返信する
10日ほど前に、村のお祭りがあって、隣村へ行く途中の (ひろみ)
2011-06-26 16:02:38
10日ほど前に、村のお祭りがあって、隣村へ行く途中の
森の中にある小さな庵の周りで村の人があつまって、
一日ピクニックして遊びました。
夕方、庵からマリア像を出して、女性が担いで岩山へ上り、
そこでミサと小学校の子供達による青空劇がありました。


その時、見て思ったのが、山上の垂訓ってこういう感じで
素朴なものだったんだろうな・・・って。。。
ブログに写真とか載せていますので良かったらご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/tres-cerdidos/e/6034505379dc1478c59410f99179c3e2

キリスト教にしても他の宗教でも語られていることは、まさに
人間として正しく素晴らしいものばかりなのに、何故争いが
絶えない世界なのでしょう・・・?
異教徒の存在を認めない偏狭さがそうさせるのでしょうか・・・?
どうも私にはよく分かりません。

<返事>
ひろみ 様
いつもコメント有り難うございます。

 お元気なご様子、安心しています。ブログ拝見しました。
青い鳥! ちょっと意味深な情景ですね。

さて、
 残念ながら、人間は知と意により物事を解釈しようとします。それが原因です。

 知とは、既成概念だったり、固定概念だったりします。意は文字通り、
意図を持って解釈するのです。そうすると様々な解釈が生まれ、時として、対立するのでしょう。

 事実を有りの儘に受け入れることが大切だと思います。清冽な精神は事実を語るとあるように、事実を受入れ、知と意を介入させないことが重要となるのです。

 しかし、キリスト教に限らず、宗教は多く知と意により、分派してきました。あるいは意図的な介入が、その対立を助長してきました。カルトなどはその典型です。

 狭量な精神で対立するのは、人間の業でしょうが、それを利用して敢えて対立と生みだし、対立を煽る場合は、それは意図的な真の宗教破壊だと考えます。

 まあ、~原理主義等はその類だと観ています。

飄平

返信する
その人に出会ってからまだ一年足らず、 (谷間の百合)
2011-06-27 11:45:30
その人に出会ってからまだ一年足らず、
自分にも真の友だちと呼べる人ができたと
天にものぼる気持ちでいたのですが
早くも終焉をむかえてしまいました。


その人は十代のころから自立して生きていた人で
仕事をしない夫の女道楽、貧乏、離婚、そして
最大の不幸である子供の死まで経験しながら
明るくて人間的魅力に溢れていました。
ただ、自分は真っ直ぐに生きてきたという自負は強く
言葉の端々にそれが感じられました。


彼女はテレビや新聞がほんとうのことを伝えていない
ということも知っていて、ネットをしているわたしに
ほんとうはどういうことかを教えてほしいと言っていたのです。
それで、つい気を緩して小沢さんなどのことを言いました。


やはり、彼女にとってそれは受け入れがたいことだったのです。
憎しみを露わにしました。(わたしの気ままな生き方も
憎しみの対象になっていたようです)


悶々としながら、こんなことを考えました。
ここに二人の人間がいます。
ひとりは正しく真っ直ぐに生きてきたのですが
自分の感情に敗けて真実から遠去かりました。
もうひとりは多くの過ちを犯し、いっぱい悪いこころも
持って生きてきたのですが、自分のなかの憎悪や偏見と
戦い(モチロン、勝利などしていません)真実を
知りたいと思いました。


神様はこの二人を前にしてなんと思われるでしょうか。
いろいろ思いを巡らした果てにわたしはこう思いました。
神はふたりを同じように哀れまれるだろうと。
そう思ったとき、急に涙がこみあげてきました。
生まれて初めて自分を愛しいと思えたのです。
(ちなみに、わたしはキリスト教とは縁もなく、聖書も
断片的、恣意的に読んだだけです)


なぜ、ひとは芥(あくた)や泡(あぶく)のような感情に
囚われるのでしょう。
しかし、ほんとうに「ほんとうのことが知りたい」ということは
大変なことなのですね。
いままで信じてきたものを捨てることは苦痛です。
好悪の感情を基準にしてきた習性から抜け出すことも苦痛です。


しかし、真実か自分の感情かと問われたら
答えは最初から分かっているのです。
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