再び、橋下市長の脳内文字を紐解く・・・
それは、『権力・人権無視・女性軽視』そのものである!!
しかし、自分のことでは人権を強調する!
その論理的批判は、植草先生に任せよう・・・!
心ない弁護士の浅はかさかな?!
維新の会は、橋下市長の権力志向が生み出した一里塚だが、思う程に飛翔できず、おまけに賞味期限も見えてきたので、『咬まし』を掛けたのだが、影響が大きすぎて、本人もうろたえているのである。
墓穴を掘ったのである。
どう考えても、論理的破綻が覆うべくもない状況に陥っている。弁護士であるからには、日本国憲法の理解者であらねばならないが、そうではないようである。
元からそういう傾向はあった。調子に乗って、弁護士懲戒請求をメディアで呼びかけたり、雑誌の損害賠償請求を出したり、引っ込めたり、又、再言及したり、やることなす事が、いささかハチャメチャである。
自らの政治理念は皆目ないのだ。全ては受け狙い、過激発言で乗り切ってきた習性が、又出たに過ぎない。
論理的破綻が、如何なるものか、転載記事に詳しいが、破綻しても素直に認めないところが、『ああいえば、上祐』的で、潔さがない。相当、自己過信が大きいと思われる。
絶対に負けたくないのである。
しかし、もはや、化けの皮が相当剥がれたので、賞味期限は確実に終わった。今般のことで、一層、早まった。政治家が、憲法理念を遵守しなくて、何が政治家か? 地方政庁の首長が、関の山だろうが、それでも許されない暴言である。
繰り人形でも、通用しない。橋下市長は終わった。
【転載開始】2013年5月16日 (木)
橋下徹氏発言の背後にある人権侵害肯定価値意識
焦点は国権と人権との位置付けである。
国民を国家の一部=手段=道具と見なし、国民を国家のために活用することを肯定する立場と、国民と国家との間には、根源的な緊張関係があり、国民の権利に対する国家の介入に最大の警戒を払う立場との間には天地の開きがある。
これが国権と人権の問題だ。
この問題に敗戦後の日本が示した究極の回答がこれだ。
日本国憲法
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
基本的人権は、
「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」
であり、
「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」
と規定した。
国権ではなく人権重視、なのである。
そして憲法は、国家権力=国権が人権を侵害しないよう、国家権力を縛るために制定される。
これが立憲主義の考え方である。
日本国憲法は第11条にも次の条文を置く。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
橋下徹氏の
「従軍慰安婦は必要だった」
発言は、人権に対する国権の優越を是認する橋下氏の判断を示すものである。
そもそも、戦争そのものが国権による人権の侵害である。
安倍晋三氏は靖国参拝を正当化する理屈として、
「国家のために命を捧げた英霊に敬意を表し、その御霊を敬う行為」
と主張するが、国家のために命を失った人のほとんどは、基本的に国家によって不本意に命を奪われた人々である。
戦争行為そのものが、もっとも深刻な人権侵害行為である点を見落としてはならない。長崎の原爆投下で被曝しながら、被爆者の救済に命を捧げた永井隆博士が「花咲く丘」に記した次の言葉。
「戦争はおろかなことだ!戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである」
沢木耕太郎氏はクリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」に込められた真のメッセージが次のものであると批評する。
「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」
そして、クリント・イーストウッド監督は、
「ずっと前から、そして今も、人々は政治家のために殺されている」
と語る。
戦争は国と国の間で行われるものではない。
安全な場所にいる戦争指揮者と前線の兵士・民衆との間で行われるものである。
国家権力は、前線の兵士も前線の従軍慰安婦も、そして前線の市民も、敵味方の区別なく、権力の所有物として、その尊厳と命を踏みにじってきたのだ。
橋本徹氏、石原慎太郎氏、安倍晋三氏に共通する特性は、国家の権力の名の下に、民衆=人民=国民を虫けら同然に扱う、権力者の傲慢と高慢を濃厚に備えていることだ。彼らは、戦争を煽り、戦争を創作し、人民を虫けら同然に扱う。
その一方で、戦争を美化し、虫けら同然に扱った人々を祀る施設を、英霊を讃える場所として美化する。それは、戦争遂行の道具として、虫けらの人民を再生産する必要があるからである。
さらにいま、憲法を改正して、永久不可侵であるとする基本的人権に関する記述を大幅に削除し、国家権力のためには基本的人権を制限できるとする新しい憲法を導入しようとする。
その立ち位置には決定的に重要な特徴がある。
それは、彼らが、常に、一般大衆の側にではなく、一般大衆を支配する権力者の側に居続けるとの前提が置かれていることだ。彼らの頭のなかには、二つの種類の人間が存在する。
支配する者と支配される者である。
彼らは、自らを支配する側に所属する者として認識し、これとは無関係の、他者としての、支配される側の存在として一般大衆を位置付ける。
支配者にとって、一般大衆は、自らの利益、自らの目標を達成するための道具に過ぎない。
この道具を再生産し続けるために、使い捨てた一般大衆の死者を祀る施設を美化し、参拝を続けるのだ。
橋本徹氏や石原慎太郎氏の言葉は、従軍慰安婦制度を肯定する以前に、戦争そのものを肯定している。
従軍慰安婦制度が人権侵害であると同時に、戦争そのものが人権侵害であるという、根本的な事実に対する認識が完全に欠落している。
目についたのが、これでした。。。
http://bun-bun.blog.so-net.ne.jp/2013-05-16-4
そして、今朝は、飄平さん。。。
最近、シンクロが本当に多いです。
植草さんが書いていらっしゃる、「国家権力は、前線の兵士も前線の従軍慰安婦も、そして前線の市民も、敵味方の区別なく、権力の所有物として、その尊厳と命を踏みにじってきたのだ。」は、まさに、そうですよね。。。
そして、それは、今なお続いている。。。
常に、苦しむのは弱者。。。
そういう、今まで公然の秘密として表面的には隠されていた権力者のやっていることが、ここまであからさまになってきたのは、ある意味、時代の変革を推進する機動力になっていると思います。
一握りの権力者のために、大多数の人々が犠牲になるような世界はおかしいと、気づいて、行動を始めている人たちが増えているのがその証拠です。
インターネットでの情報拡散の威力はすごいですね、本当に。。。
そうではありません。
中世ヨーロッパに於いて確立された神(宇宙創造主)信仰に拠る哲学なのです。
個人も人類も神(絶対正義と善の本体)に向かっている。
個人も人類も利益ではなく神を目的として人生を歩んでおります。
そしてこの目的である神は宇宙が生まれる前より在るがゆえに、
これを宿している神の子を国家や法律、権力や富といったもので毀損してはならない。
ここに神への信仰を前提とした人格の尊重があらわれているわけです。
基本的人権が国家に先立ち、法律に先立ち、憲法に先立って子々孫々にまで恒久的に認められなければならない理由は、
この個の生命の中に個の永遠の目的と人類全体が向かう永遠の目的が宿されているからです。
これは生命に永遠の目的としての神、宇宙に先立って在る神が宿されているがゆえに、国家に先立ち、憲法に先立ち、
法律に先立って、子々孫々にまで保証されなければならない既得の権利となっているのです。
しかも神在るがゆえに、たとえ国家であろうが、法律であろうが、憲法であろうが、人間の作ったもので、
これを決して毀損してはならず、冒してはならない永遠の権利として本来は造られてきました。
これが基本的人権の本質であり、我々が意図してきたものです。
ただ神を前面に出しますと、当時はキリスト教の関係から誤解を受けますので、人間は目的そのものとして扱えよ、
決して手段として扱うことなかれといった思想で説いてきましたけれども、それが結果、人権を人間が利益に摩り替える
という様相を現代では呈しているため、神の存在を前面に出して、これを本来の意義に戻さねばなりません。
利益を追っている人になぜ人権があるのでしょう。
利益や国益を追っている人はみずからの選択と意志で手段をおっているのです。
目的を追ってもいないし、目的も知りません。
大体、国益と利益がどうして国家や憲法、権力や宇宙に先立つのでしょう。
そういったものに尊厳もなければ、保証しなければならない理由も義務もないはずです。
個人の中に個と全体の永遠の目的、「宇宙が生まれる前より在るなり」の神聖な神の存在があるゆえに、
人間は手段ではなく、目的であり、人間の作った国家・憲法・法律・権力等々で毀損してはならないわけです。
それは人間の作ったもので、神を冒してはならないのと理由は同じです。
神や宇宙は人間が造ったものではないからです。
基本的人権の本質は神の存在です。
これを無視したり、信仰のない方、神(目的)を信仰(正義と善に向かう姿勢)しない人格というのは、
本来、目的そのものとして扱われなければならない理由は、実はないわけです。
基本的人権は、本来の意義である「神への信仰」を前提とした権利に戻していくのが現代です。
決して、下のコメントに対する批判ではありません。
過日、アップされたキデル博士の動画のなかで
博士が相手の言葉を遮るようにして
「わたしは宗教的な言葉は使わない」
とピシャリと言う場面がありました。
わたしがそれに強い共感を覚えたのは
宗教やスピリュチアルなことに関心のある人が
自分たちの世界の言葉をそのまま使うことに
違和感を持っていたからです。
それが宇宙普遍の真理なら
余計普遍の言語で話してほしいのです。
普遍の言語とは論理的言語といってもいいかもしれません。
それが、同じ土俵で話すということではないでしょうか。
知識をそのまま披瀝するのではなく
その知識を普遍の言語に変換する努力をしてほしい。
それが、宗教のこころではないでしょうか。
神を普遍の言語に変換する必要があるようです。
神の存在は現代物理学に於いて論理的に認識されております。
皆様は神の正体をご存知無い様ですので、一度正しく解説したいと思います。
・・
ドップラー効果によって宇宙は膨張しているという膨張宇宙論が確認されました。
宇宙は時間と共に膨張しておりますが、逆から言えば時間を遡(さかのぼ)っていきますと
宇宙は収縮していきます。
・・
時間をどんどん遡(さかのぼ)っていきますと宇宙は収縮していき、
最後には手の平に乗るほどに宇宙は小さくなっていきます。
・・
更に時間を遡り、宇宙誕生時刻ゼロの地点では不思議な世界になっていることが
科学で証明されています。
宇宙誕生時刻ゼロの地点では時間も空間もなく、質量も体積も存在していないにも関わらず、
エネルギーだけが「∞(無限大)」を示しているのです。
・・
何もない世界に一切があり、エネルギーは無限大を示している。
禅の「無一物中無尽蔵」が先端のアインシュタイン方程式から出てきたため、
これが科学者の世界で問題となりました。
・・
科学は無限を嫌うにも関わらず、最先端のアインシュタイン方程式から、
この無限大が出てきたため様々な探求と仮説が出てきました。
この大宇宙誕生時刻ゼロの地点を「特異点」と言います。
・・
実はこの「無の無限エネルギー」こそ神の正体なのです。
宗教界ではこの「無の無限エネルギー」なる存在を神と呼んでいるだけなのです。
イエスは比喩を用いて説教しましが
これが普遍化ということだと思います。
宗教と科学は同じものだと思います。
科学するとは、探究するこころのことだと思います。
しかし、現実には、「わたしの神」
「わたしの教祖さま」ということが多くて、
どうしても独善的になりがちです。
その独善が嫌なのです。
それが争いの因になるからです。
そこに、探究する、求める、あるいは
普遍化するという真摯な営為があれば、
世界はまったく別のものになっていたかもしれません。