飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

不思議な少年!! その105

2011-10-19 15:43:43 | 物語

イエス群集を教える。偽りの体面について語る!!


 心機一転。 

Img_3436 

<記事に無関係-きっと地震雲?!9月25日in徳島

 

 心機一転と言うことは、何にでもある。大きくも小さくもある。言わば、世の中の全ては、日々、心機一転だろう。相変わらずと言うことは、本当は良くないことである。


 何故か? 


 全ては千転万化しているからである。何も昨日と同じ事は一つとしてない。今日は全て新しい。明日はどう変化するか分からない。しかし、確実に変化する。これは真理であろう。 


 会うは、別れの始めなり、

 別れは元に還ること、とはよく言ったものだ。 


 偽りの対面とは何か? 難しいことではない。現在の姿に執着することである。地位・名誉・物質・金・学問・権力・・・これらは全て一瞬のものだ。そして、確実に消え去る。


 罪穢れという言葉があるが、これらは変化する一局面でしかない。何れも時と共に清められていく。別に清めようとしなくても、浄められていくものである。恰も、度重なる慈雨が流すように、文字通り流されていくのである。


 まさに現在、江戸は穢土になった、という御仁が居る。それは正しいであろう。それは放射能で犯されたからであるが、放射能とは何かというと、物質が変化する過程である。それが通常よりも過激であるから、人間にはその量によって、都合が悪い。しかし、必ず、安定的な物質になり、放射能ではなくなると言うことも真理だ。 


 変化するには痛みが伴う。それは執着した心が痛むからである。執着していなければ痛まないのであろうか? 当然、痛まない。新たな変化を嬉し、嬉しで受け入れる。


 こういう事だ。別に難しい話ではないが、仲々そうは思えない人間が多い。今も昔も多い。それが、積み重なった思いというものだ。罪は積みに繋がる。穢れは気枯れに繋がる。 


 つまり、いのち(生命)というものがどこから来るかという問題だ。自分がそれを生みだした訳では無かろう。上から来ると言うが、それは比喩の話で、上でも下でも、宇宙でも、要するに、元があって、そこから来るというのが正解だ。


 そして、それは常に変化を促している。心機一転とはいのち(生命)の姿でもあろう。それに沿わないことには、元気を失うと言うことである。偽りの空元気では、人生は虚しい。


 

イエス群集を教える。シモン家の宴席に列す。富める遊び女彼に高価な香油を塗る。
シモン彼を責める。偽りの体面について語る。


 イエスは利己的な利益をめあてに押し寄せ来た多くの人々を見た。学問あり、金持ちであり、名声あり、権力ある人が居たが、彼らはどれもキリストを知らなかった。


 彼らの目は利己的な自我の見せかけの光で目がくらみ、王を見ることは出来なかった。彼らは明るいなかを歩いていても、死の夜の如き暗黒のなかをさまよっていた。


 イエスは天に目を注いで言う、


 「天地の聖なる者よ、光が智者や名ある人からかくされて、赤児に現わされていることを感謝する。」


 それから群集に向って言った、「わたしが来たのは人の名によってでも自分の力によってでもない。わたしがあなたがたに持つ智恵と力は上からのもの、われらのあがめまつる神の智恵と力である。


 わたしの語る言葉はわたしの言葉ではない。わたしが受けたものをあなたがたに与える。苦労して重荷を挽(ひ)く者は、わたしに来るがよい。わたしは助けてやる。わたしと共にキリストの軛(くびき)を身につけよ。これはからだをいためない。やさしい軛(くびき)である。


 気軽に生命の荷物を一緒に挽いてよろこぼう。」


 シモンというパリサイ人が宴をもうけた。イエスがその賓客であった。


 一同が食卓につくと、ひとりの遊び女が招かれずに宴席に来た。彼女はさきにイエスの助けを受け、またその働きを見て、これまでのように罪を犯す欲望を捨てて救われたのであった。


 彼女は高価な香油(においあぶら)を入れたアラバスターの箱をもって来て、客人たちが横臥している間に、喜ぴながらイエスに近づいて来た。これは彼女が罪から救われたからである。


 彼女はいたく涙にくれ、イエスの足に接吻しながら自分の髪の毛でこれをぬぐい、それからこれに香油を塗った。


 シモンは口に出さなかったが心で思った、「この人は予言者ではない。それなら、自分に近よっている女がどんな女であるかを知って、追い払ったであろうに。」


 しかし、イエスはその思いを知って、主人に言った、「あなたに一言したい。」


 シモン、「言って下さい。」


 イエス、「罪は不正な怪物で、大小さまざまだ。すでに何か犯したものもあれぱ、まだ犯さずにおるものもある。見よ、或る人は罪の生活をしていて最後に救われ、或る人は無頓着な態度で、当然なすぺきことを忘れているが、改心して赦される。さて、これらの人々のなかで、どちらが高く讃められる価値があるか。」


 シモン、「一生の過失によく勝った者です。」


 イエス、「その通り。見よ、この女はわたしの足を涙で洗い、髪の毛でこれを乾かし、香油を塗った。多年彼女は罪の生活を送っていた。しかし、生命(いのち)の言葉を聞くや、赦冤(ゆるし)を求めて、これを見出した。


 しかし、わたしがあむたの家に客として来て、わたしの手や足を洗う水鉢(みずばち)を出さない、これは忠実なユダヤ人なら、食前に当然なすべきことだ。


 さて、シモン、この婦人とあなた自身と、どちらが一番ほめられる価値があるか。」


 シモンは答えなかった。


 すると、イエスはその女に言った、「あなたの罪はすべて赦された。あなたの信仰があなたを救った。安んじて行くがよい。」


 すると、食卓のまわりに坐っていた客人たちは互いに言い始めた、「あなたの罪はすぺて赦されたと言うこの人は果して何人なのか。」


 

【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】            


第十六部 イエスのキリスト者奉仕の二年目 

第百四章 イエス群集を教える。シモン家の宴席に列す。富める遊び女彼に高価な香油を塗る。
シモン彼を責める。偽りの体面について語る。


1)イエスは利己的な利益をめあてに押し寄せ来た多くの人々を見た。

2)学問あり、金持ちであり、名声あり、権力ある人が居たが、彼らはどれもキリストを知らなかった。

3)彼らの目は利己的な自我の見せかけの光で目がくらみ、王を見ることは出来なかった。

4)彼らは明るいなかを歩いていても、死の夜の如き暗黒のなかをさまよっていた。

5)イエスは天に目を注いで言う、

6)「天地の聖なる者よ、光が智者や名ある人からかくされて、赤児に現わされていることを感謝する。」

7)それから群集に向って言った、「わたしが来たのは人の名によってでも自分の力によってでもない。

8)わたしがあなたがたに持つ智恵と力は上からのもの、われらのあがめまつる神の智恵と力である。

9)わたしの語る言葉はわたしの言葉ではない。わたしが受けたものをあなたがたに与える。

10)苦労して重荷を挽(ひ)く者は、わたしに来るがよい。わたしは助けてやる。

11)わたしと共にキリストの軛(くびき)を身につけよ。これはからだをいためない。やさしい軛(くびき)である。

12)気軽に生命の荷物を一緒に挽いてよろこぼう。」

13)シモンというパリサイ人が宴をもうけた。イエスがその賓客であった。

14)一同が食卓につくと、ひとりの遊び女が招かれずに宴席に来た。彼女はさきにイエスの助けを受け、またその働きを見て、これまでのように罪を犯す欲望を捨てて救われたのであった。

15)彼女は高価な香油(においあぶら)を入れたアラバスターの箱をもって来て、客人たちが横臥している間に、喜ぴながらイエスに近づいて来た。これは彼女が罪から救われたからである。

16)彼女はいたく涙にくれ、イエスの足に接吻しながら自分の髪の毛でこれをぬぐい、それからこれに香油を塗った。

17)シモンは口に出さなかったが心で思った、「この人は予言者ではない。それなら、自分に近よっている女がどんな女であるかを知って、追い払ったであろうに。」

18)しかし、イエスはその思いを知って、主人に言った、「あなたに一言したい。」

19)シモン、「言って下さい。」

20)イエス、「罪は不正な怪物で、大小さまざまだ。すでに何か犯したものもあれぱ、まだ犯さずにおるものもある。

21)見よ、或る人は罪の生活をしていて最後に救われ、或る人は無頓着な態度で、当然なすぺきことを忘れているが、改心して赦される。さて、これらの人々のなかで、どちらが高く讃められる価値があるか。」

22)シモン、「一生の過失によく勝った者です。」

23)イエス、「その通り。

24)見よ、この女はわたしの足を涙で洗い、髪の毛でこれを乾かし、香油を塗った。

25)多年彼女は罪の生活を送っていた。しかし、生命(いのち)の言葉を聞くや、赦冤(ゆるし)を求めて、これを見出した。

26)しかし、わたしがあむたの家に客として来て、わたしの手や足を洗う水鉢(みずばち)を出さない、これは忠実なユダヤ人なら、食前に当然なすべきことだ。

27)さて、シモン、この婦人とあなた自身と、どちらが一番ほめられる価値があるか。」

28)シモンは答えなかった。

29)すると、イエスはその女に言った、「あなたの罪はすべて赦された。あなたの信仰があなたを救った。安んじて行くがよい。」

30)すると、食卓のまわりに坐っていた客人たちは互いに言い始めた、「あなたの罪はすぺて赦されたと言うこの人は果して何人なのか。」


 

【原文:The Aquarian Gospel of Jesus by Levi H. Dowling  


SECTION XVI

AIN

The Second Annual Epoch of the Christine Ministry of Jesus

 

CHAPTER 104

Jesus teaches the multitudes. Attends a feast in Simon's house.
A wealthy courtesan anoints him with precious balm.
Simon rebukes him and he preaches a sermon on false respectability.

AND Jesus looked upon the multitudes who pressed about for selfish gain.
2) The men of learning and of wealth, of reputation and of power, were there; but they knew not the Christ.
3) Their eyes were blinded by the tinseled glitter of their selfish selves; they could not see the king.
4) And though they walked within the light, they groped about in dark - a darkness like the night of death.
5) And Jesus cast his eyes to heaven and said,
6) I thank thee, Holy One of heaven and earth, that while the light is hidden from the wise and great, it is revealed to babes.
7) Then turning to the multitudes he said,
I come to you not in the name of man, nor in a strength my own;
8) The wisdom and the virtue that I bring to you are from above; they are the wisdom and the virtue of the God whom we adore.
9) The words I speak are not my words; I give to you what I receive.
10) Come unto me all you who labor and pull heavy loads and I will give you aid.
11) Put on the yoke of Christ with me; it does not chafe; it is an easy yoke.
12) Together we will pull the load of life with ease; and so rejoice.
13) A Pharisee, whose name was Simon, made a feast, and Jesus was the honored guest.
14) And as they sat about the board, a coutesan who had been cured of her desire to sin by what she had received and seen in Jesus' ministry, came uninvited to the feast.
15) She brought an alabaster box of costly balm and as the guests reclined she came to Jesus in her joy, because she had been freed from sin.
16) Her tears fell fast, she kissed his feet, and dried them with her hair, and she anointed them with balm.
17) And Simon thought, he did not speak aloud,
This man is not a prophet or he would know the kind of woman that approaches him, and would drive her away.
18) But Jesus knew his thoughts, and said to him,
My host, I have a word to say to you.
19) And Simon said,
Say on.
20) And Jesus said,
Sin is a monster of iniquity; it may be small; it may be large; it may be something done; it may be something left undone.
21) Behold, one person leads a life of sin and is at last redeemed; another, in a careless mood, forgets to do the things he ought to do but he reforms and is forgiven. Now, which of these has merited the higher praise?
22) And Simon said,
The one who overcame the errors of a life.
23) And Jesus said,
You speak the truth.
24) Behold this woman who has bathed my feet with tears and dried them with her hair and covered them with balm!
25) For years she led a life of sin, but when she heard the words of life she sought forgiveness and she found.
26) But when I came into your house as guest you gave me not a bowl of water that I might wash my hands and feet, which every loyal Jew must do before he feasts.
27) Now, tell me, Simon, which of these, this woman or yourself, is worthy of most praise?
28) But Simon answered not.
29) Then to the woman Jesus said,
Your sins are all forgiven; your faith has saved you; go in peace.
30) And then the guests who sat around the board, began to say within themselves,
What manner of a man is this who says, Thy sins are all forgiven?

 【続く】


最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
スレ違いで失礼します~♪ マシュー君のメッセージ(... (ミリィ)
2011-10-19 19:12:59
スレ違いで失礼します~♪ マシュー君のメッセージ(50)が出ていますよー
返信する
「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの... (谷間の百合)
2011-10-20 13:26:38
「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉から
初めて信仰とはなにかを考えてみたのですが、
瓢平様はどうお考えになっていますか。
真理を求めること、真理に出会うことなくして信仰はない
と思うのですが
一方で、ナムアミダブツを唱えれば浄土に行けると説いた
法然上人の教えにもなぜかとても心惹かれるものがあります。
(自分のことではなく)苦しいくらいの悲しみに襲われたとき
わたしはどこかで聞き覚えた呪文を心のなかで必死に唱えるのですが
こういう行為もこの教えに繫がるものがあるように思います。
「恰も、度重なる慈雨が流すように」悲しみもどこかに流れ
浄化していくような気がするからです。


変化には痛みが伴うということと
マドモアゼル愛様が「不幸とは、かたくな(頑な)なこと」
と言われることは同じことですね。
わたしは人を見るとき、硬いか柔らかいかで判断するのですが、
別に、こころの中を覗かなくてもすべては表情にでているのです。


(ちょっと脱線しますが
わたしが高倉健さんを、「日本人ですか」と疑問に思う根拠の
一つが、剛ばかりで柔がないことです。かれが画面に現れると
わたしは自然に目を逸らしてしまうのですが、そのごつごつした
粗暴なオーラに耐えられないのです。やはり、任侠は鶴田浩二さん
でないと義理人情の機微は表現できませんw)


以前通っていた歯医者さんは八十をゆうに超えていましたが
診察の度に、人間は死んだら土になるということを力説されて
閉口しました。
若いときに読んだ本にそう書いてあったということで
わたしが驚くのは、現在に至るまでの何十年もの間一度もそれに
疑問を覚えなかったことです。「死ねば人間はどこにいくのか」と
いったことについて、哲学的考察とまではいかなくとも
どこかでその本に書かれていることとは異なる言説や思想と
出会うことはなかったのだろうかということです。


これは極端な例かもしれませんが
世の中は大なり小なりそういうことではないでしょうか。
これも変化を厭う心理なのかもしれませんが
人間は一度こころに採り入れたもの、組み立てたものを壊すことが
ほんとに苦痛なのですね。
これをジョブスはドグマと言ったのではないでしょうか。
ドグマに引っかかるとはこういうことなのでしょうね。


先日絶縁した友達はよく「自分は真っ直ぐに生きてきた」
と言っていて、わたしは凄いことだと尊敬していたのですが
最近思ったのは、凄いことには違いないけど
彼女ももしかしたら「真っ直ぐに生きる」というドグマに
嵌っていた面もあるのではないかということでした。
わたしは真っ直ぐに生きてきませんでしたが、「頑な」では
ありませんでした。どちらがいいのかは分かりませんが
少なくとも、愛様が仰るように、頑なでなかったおかげで
不幸でもなかったと思っています。

<返事>
谷間の百合 様
コメント有り難うございます。

信仰とは何か?

独断と偏見になろうかと思いますが、書いてみます。

 いのち(生命)とは『自分のもの』と、考えていますが、本当はそうではないと言うことです。いのち(生命)に個性が宿ったものが、自我です。

 自我は主張しますが、いのち(生命)は主張をしません。真我と言われるものが、真のいのち(生命)で、大我と同じ性質のものです。

 大我とは、言わば神そのもので大きないのち(生命)の源流です。
大我をブラフマン、真我をアートマン、アートマンが個性を持ったものが自我だと考えます。アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)と、と言われている所以です。

 これを分かりやすく説明すると、人間は個性を与えられている存在で、個性があるから、自他の区別が付き、本当の自己発見に繋がるからです。

 本当の自分とは真我なのですが、自己発見した真我は輝きを増すと考えます。真我とは原石です。輝きを増した原石はダイヤモンドです。譬えですが・・・。

 磨くことが人生です。

 信仰とは、真我を見失わないことであり、大我に素直であると言うことでもあります。真我を維持して、冒険することが自力本願で、大我に素直であることが、他力本願です。何れも信仰でしょう。

 ですから、どちらも信仰に違いはありません。冒険家は自力が好みでしょうが、素直な人は他力が似合いでしょう。しかし、源流は同じですから、効果(?)は一緒だと思います。

 只、他力無くして信仰の本質はないと言えます。それは、いのち(生命)が自分のものではないからです。自分のものと思ったら、それで終わりです。水はH2Oですが、H2Oは水の働きはありません。

 人間の働きは、神の働きと同じでもありますが、個の人間は神ではありません。水の働きを教えるのが、宇宙の教え=真の宗教だと考えています。その意味で、イエスは宇宙の教えの導師であり、宇宙の智恵・力を担った個性を超越した人間と観れば、解りやすいのではないでしょうか?

 悟りと言うのは、我が心を知ると書いていますが、真我に触れることを言うと思います。これは体験していないので良くは分かりませんが、どうも途轍もなく自由でやすらぎに満ちた心境のようですよ。

 本当の幸福感は、それを言うのでしょう。

 死というのは、肉体との分離です。肉体は土に還ります。つまり、分解してそれぞれの分子になることです。しかし、魂は別です。個性を維持したまま、生き通しです。往生です。その時、個性は良いのですが、執着は仲々真我を認めませんから、永遠の孤独でしょうね。

 真我を合流すれば、さしあたり死んで誰しも悟りでしょう。そう願うばかりです。分からすべく引導を渡すのですが、分からない魂もあるでしょうから、それは彷徨える魂と言うことになります。

 これが自ら作った地獄です。

 自縛という言葉がありますが、まさしく、自縛霊となります。やはり、死んだら成仏したいものですね。それまでは、誰しも冒険で、修行だと考えて人生の問題集を解く思いで生き抜けば、きっと、成仏します。

 そう考えています。

 それが、『一生の過失によく勝った者です。』という意味だと思います。長くなりましたが、そんな風に考えます。


飄平
返信する
ご丁寧なお返事恐縮です。 (谷間の百合)
2011-10-21 21:10:10
ご丁寧なお返事恐縮です。
ありがとうございました。


他力本願については深く考えたことはなかったのですが
「他力なくして信仰の本質はない」ということの意味は
分かったような気がします。
常に慚愧の念で苦々しく思うのは
なんで、いつもいつも「自分」なんだ、ということです。
この「自分」(自我)を消さない限り他力本願の成就は
あり得ないということですね。


こないだ犬の散歩をしていて
人間は肉体があるばかりにこんなに苦しみ多い生を生きなければ
ならないのかと思っていたとき、ふっと意識が分離していくような
感覚が一瞬したのですが、そのとき思ったのがこれが「死」という
ものかもしれないということでした。
(わたしは肉体の死を苦痛なものと思ったことはありません。)


「ホームページをつくろう」という記事を読み
わたしも思い腰をあげないといけないのかなと思いました。
いつも無責任だとの忸怩たる思いに付き纏われていましたから。
それによるストレスも引き受けられない人間が偉そうなことを
言ってはいけませんね。
よく考えてみようと思いますが―。

返信する
すみません。 (谷間の百合)
2011-10-21 23:36:38
すみません。
間違った書き方をしてしまったので訂正します。
肉体の死に苦痛を感じないということではなく
死ぬ瞬間に苦痛はないと言いたかったのです.。
返信する
個人的には、信仰、哲学、科学、真理、etc、全て同... (読者A)
2011-10-22 09:08:50
個人的には、信仰、哲学、科学、真理、etc、全て同じものを指しているのではないかと思っています。
私は「生まれ変わり」というものに何の疑問も持たず今まで過ごしてきましたが、
今思えば直接的な実感は無いにしても幼い頃の祖母や母の仏教的な教え(しつけ)が影響しているように思えます。
スピリチャルなことに興味が沸き色んな本を読み初めていつのまにかもう30年近く過ぎようとしていますが、
その中で最近自分なりに結論を出したことは「全ての魂は輪廻転生を繰り返しながら大きなある目的に向かっているのではないか」ということです。
そのある大きな目的というのは「全ての魂はアートマンを経て最終的にはブラフマンに至る」ということではないかと自分では思っています。
別の言い方をすれば「一は全、全は一」ということなのかなと。
宗教にしてもスピリチャルな文献にしても全てはその目標に近づく為のアプローチであって、
人によりその方法は千差万別だと思うのですが、その大前提となるのが「自分の本質(魂)での価値観」を持つことなのだと思います。
だからどの道を辿ってもそれが正解であり、その人にとっての正しい選択なのだと思います。
ただ我々には自我がある為に、なかなか真我(アートマン)に至ることが困難で苦しみがあるのだと思いますが、
それでも現在一見困難に思える今の時代こそ、それを実現するのに最も適した時ではないかとも思います。

<返事>
読者A 様
コメント有り難うございます。
 
 全くその通りだと考えます。

飄平
返信する

コメントを投稿