飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

日本を開国せしめたのは、土佐の漁師、伝蔵である!!

2009-01-08 13:08:12 | 日本

土佐は、大好きである!!
訳はここでは、言わない!!
『自由は土佐の山間より出づ!』と言う言葉がある。
ジョン万次郎は、海辺から出た!!


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 土佐は、日本の辺境である。ターミナルである。その先は、太平洋しかない。従って、県民性は、狭量で、排外的であると同時に、気宇壮大なやけっぱち性がある。両者偏在する。狭量は人見知りによるものであろう。うち解けると気宇壮大さが勝る。所詮は囚われるところが少ないことに起因している。

 そりゃあ、囚われる所のものが無いに等しい。今般の経済危機に何処も戦々恐々としているが、昨年の倒産件数は近年最も少ない。ガソリン価格も全国筆頭に高騰したし、前項筆頭に急落した。11月下旬には、いち早く92円を付けた。要するに、辺境だからである。経済の恩恵に浴することもなければ、経済の打撃を被ることも少ない。実体・実物経済しか縁のないところである。

 太陽は明るいし、食い物は豊富にある。食いぱっぐれは少ない。だから、闇雲に働かない。従って、所得は全国の名だたる低迷県である。やたら、パチンコ屋が多い。宵越しの金は持たない性質がある。そこは江戸っ子と共通する。

 しかし、真実と義を重んずる。だから、そそっかしく、要領はすこぶる悪い。

 そんな土佐を、テーマにリチャードさんが秀作を載せた。これは面白い。そこで転載する。ちなみに『自由は、土佐の山間より出づ』と言う言葉は、自由民権運動の板垣退助の言葉である。リチャードさんは、(注:フリーメーなんとかのフの字も出さずに書いてみました。)とわざわざ書き込むところが、彼らしい。気に入った。

 最後に、まじめに書くとすれば、結局の所、邂逅(かいこう=出合い、chance)というものは、神のみぞなせる業であるということである。


Nakahamajohnmanjiro


<ジョン万次郎>

【転載開始】日本を開国せしめたのは、土佐の漁師、伝蔵である

http://richardkoshimizu.at.webry.info/200901/article_7.html

Img_2898

1841年1月6日、土佐、宇佐の漁港の船頭である伝蔵は、漁がないことにいらついていた。そこで、足摺岬まで船足を伸ばした。ここまでくれば大漁だ。だ が、西北の風が吹き始めた。海が荒れる。地元の漁船は次々と網を上げて港へ戻っていく。だが、伝蔵は、少しの間風がやんだがゆえに漁を続けると決断した。 この海には取りきれないほどの魚がいる。この伝蔵の決断が、日本を開国させるにいたったのである。


船には、最下層の「カシキ」と呼ばれる炊事係兼雑用係の14歳の少年が乗っている。少年、万次郎は早くに父親をなくし、病弱な兄たちの代わりに働き一族を 支えてきた。もちろん、学問など受けていないから読み書きはできない。伝蔵の判断は、「凶」と出た。西北の風が強く吹き始め、船は沖合いに流される。万次 郎は、必死に櫓をこいで陸に戻ろうとするが、帆柱は倒れ、櫓は折れる。4-5日の漂流の後に、船は鳥島にたどり着く。船は難破し、五人の漁師たちは鳥島に 何とかたどり着く。無人島だ。だが、アホウドリが無数生息している。鳥を食い、雨水を分け合って何とか命をつなぐ。六ヶ月が過ぎる。


米国マサチューセッツ州ニュ-ベッドフォード港の捕鯨船、ジョン・ハラウンド号の船長、ホイットフィールドは、鳥島のアホウドリの卵を乗組員たちに食わせ てやりたいと思った。そこで、船を鳥島に近づけた。すると、日本の漂流民らしき数名が助けを求めている。彼らを収容し、鯨の漁を続ける。14歳の万次郎は よく働く。船長は、この極東の少年を痛く気に入ってしまう。乗組員も少年をジョンと呼んでかわいがる。途中で万次郎以外の四人をハワイでおろし、1843 年5月、船は母港に帰る。船長は、万次郎を養子にして学校に通わせる。バートレット校で高等数学、測量術、航海術、造船を学ぶ。首席で卒業したという。こ の間、ウォーレン・デラノなる実業家にかわいがられることになる。デラノと聞けば思い出すのは、フランクリン・デラノ・ルーズベルトである。デラノは、 FDRの祖父に当たる人物だ。デラノ家は、上海でのアヘン事業で財を成した財閥であり、海運や捕鯨の大株主だ。ジョン・ハラウンド号の船主でもあ る。(FDRは、日米開戦前に、万次郎の長男、東一郎に私信を送っている。そして、デラノ家、ホイットフィールド家は、4代にわたって、万次郎一族と親交 を続けて、現在に至っている。)


万次郎は、望郷の念強く、カリフォルニアの金鉱で金を掘って資金をため、小船を買って捕鯨船に便乗させてもらう。琉球の近くで船を下ろし、上陸する。琉球 を支配する薩摩藩の役人に厳しく吟味され、鹿児島に送られる。ここで、藩主、島津斉彬の目に留まり、外国事情を説明させられる。次に土佐藩主、山内容堂に 請われて土佐に里帰りする。ここでも外国事情を根掘り葉掘り聞かれる。土佐随一の知識人、川田小龍が取り調べに当たり、後日、「漂巽紀略」をまとめる。こ の書が、川田の私塾で教科書として採用される。坂本竜馬や中岡慎太郎が、ここで学ぶ。竜馬の世界観は、万次郎に拠るところが大きい。明治維新の立役者で あった薩摩と土佐に、万次郎がどれだけの影響を与えたことか.....


このころ、米国は、捕鯨船や貿易船の中継基地として日本に着目する。開港を迫りたい。幕府は、異人との戦争になると慌てふためく。外国事情を知る万次郎を 江戸に呼び寄せて意見を聞くことになる。出身地の「中ノ浜」から苗字「中浜」を名乗ることを許され、幕府直参に取り立てられる。老中、阿部正弘、林大学 頭、韮山代官の江川太郎左衛門らに尋問される。「開国し国を富ませ、軍備して国を守るべし」と説く。ペリーが来航する。本来なら、唯一まともな英語の話せ る万次郎が通訳を勤めるべきところ、「スパイ」とみなされてはずされる。だが、咸臨丸の日米修好条約批准使節団には加えられる。通訳のはずが、船酔いで寝 てばかりいる勝海舟の代わりに、荒海で船を操舵して乗り切る。船には福沢諭吉らが乗っている.....


万次郎は、薩摩の島津公、土佐の容堂公、坂本竜馬、中岡慎太郎、勝海舟、後藤象二郎、福沢諭吉らに大きな影響を与えた。明治政府の「五箇条のご誓文」の ベースとなった竜馬・後藤の「船中八策」にも、万次郎の言説が大きな影響を与えた。万次郎は、日本の開国に際し、影の立役者の役割を演じた。そして、彼の 背後には、米国ユダヤ財閥がいたのである。日本の開国とユダヤとは無縁ではない。米国第30代大統領カルピン・クーリッジがこういっている。「ジョン・マ ンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい。なぜなら、ジョン・マンがわが国の本当の姿を、当時の日本首脳部に理解きせていたからこそ、われ われの使節ペリーは、あのような友好的な扱いを受けることができたのである」


伝蔵が漁を諦めていれば、万次郎は土佐の漁師で終わったかもしれない。よって、伝蔵は、日本を開国せしめた立役者なのである。w


(注:フリーメーなんとかのフの字も出さずに書いてみました。)【転載終了】


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