飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

子を持って、初めて知る子供の恩・・・?!

2014-02-17 15:05:10 | エッセイ風

子を持って、
初めて知る親の恩・・・!
と言うのが、
常套句だろうが、
順当に行かないのが人生である!

 

 大人と言う言葉がある。文字通り、大きな人という意味であるが、成長した人間を意味する。

 

 成長すると言うことは、自らで立つことを意味する。子供というのは、何に付けても親を頼りとしなければ、生きていけない存在だ。親が子供を守り育てるのは、順当である。

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<画像は、全てhiro474@po30.lcv.ne.jpさんより拝借>

 

 別に恩を売っているのではない。無所得の愛情がそうさせているのであるから、親の恩などと言われても、与り知らないというのが親の心情であろう。真情と言っても良かろう。

 

 子は、親の心情を持って育つ。子は素直にそれを受け止めればよいのである。

 

 昨今、親が子供を虐待する現象が目立つ。何故であろうか?

 

 親が、大人になっていないのである。成長をしていないのである。自立していないのである。親の恩を知るには、未だ、未熟なのであるが、その前に、子供として親の心情を汲み取っていないから、育っていないのである。

Child18

 

 確かに、十分な栄養と物理的な養育環境があれば、肉体的に子供は育つ。しかしながら、心は十分に育つかと言えば、疑問である。心の成長は、情操の発達である。

 

 情操の発達が、未熟であるから、虐待が起こる。こう考えて間違いがない。親となった子供は、確かに身体は立派な大人であるが、心は子供である。情操に於いて、愛情を求めて彷徨っている。

 

 元々、親の愛情を求めるしかない自分の子供とも敵対関係になるのである。

 

 何とも嘆かわしいことである。親と子供が、同等の愛情を求め合うとどうなるか? 子供同士の喧嘩ならば、五分五分であろうが、身体は大人と子供であるから、方や、虐待となる。

Child20

 

 こう言う図式が、どうやらあるようである。

 

 だから、『子を持って、初めて知る親の恩』等という常套句は、今はないと思うのである。今はないと言うよりも、それ以前の親の恩などと言うものは、語るに落ちていると言いたいのである。

 

 上にも書いたように、親が子供を守り育てるのは、大人としての自然な発露である。恩などと言うのは、烏滸がましい。しっかりと成長した大人ならば、誰しもそうであろうけれども、何かを守り育てると言うことに生き甲斐を見るものであろう。

Child08

 

 昨今のペットブームなどにもそれが垣間見られる。守るべきものを得た時、心は成長する。そして、成長した心は、情操に於いて安らぎを得る。知らず知らずのうちに、贖いあっているのだ。

 

 そこで、敢えて言いたい(書きたい)のである。

 

 子を持って、初めて知る子供の恩!

 

 この言辞は、私独創の言辞ではない。誰かは忘れたが、何かの本で見つけて、心の片隅に色あせず残っていた言辞である。そして、時折、甦って心に顕れては、噛みしめてきた言辞である。

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 人間は、子供を得て、初めて大人になれるのである。少なくとも、心の成長には子供の存在は貴重で、決定的である。それ以外でも成長の機会はあるであろうが、一般的には、子供の存在が圧倒的であろう。

 

 実は、子供は親の成長の試金石だ。言わば、師匠である。師匠なら、恩があるではないか?!

 

 例えば、子供は親に何かかにかとよく質問をしてくる。時には、難題を吹っかけもするし、泣き言を聞かされない親は居ないであろう。

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 そうでなくても、ねぇ、聞いて聞いて! とおねだりをする方は、子供の方である。それが普通の状態である。それを疎ましく感じてはならない。

 

 大体に於いて、質問や難題を吹っかけられる方が先生で、吹っかける方が生徒であるのは常識であろう。先生とは、先に生きている者を言う。ここでは、先生が親で、子供が生徒と言うわけだ。

 

 大人と言うことは、先生であるべきで、文字通り、先に生きた人間でもある。質問・難題に依って、鍛えられる。そのために子供を育てる意義があるのである。最も学びの場に在るのは、大人である。

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 本当の大人になるためには、永遠の学びが必要である。人間は、生きていると言うことは学びの連続であろう。それが、単なる学びなら面白くない。子供を育てると言うことは、喜びでもある。それが絶妙と言えば、絶妙な計らいと言えるのではないだろうか?!

 大人にもいろいろ居るのである。

 見かけは大人でも、心は子供という大人もいる。全ては相対化すると良く分かるが、質問・難題を吹っかける方は、子供であるから、本当の大人は受けて立つべきだ。そう考えると、大体納得がいく。

 何事も問いかける者がいれば、応える者が居る。応える立場に立つ者は、相対的に大人であるから、その任に応える必要がある。どちらが得かと言うことだが、先に生きるという意味では応える者、即ち、先生=大人である。大人が学んでいる分けであるから、大人にとって得る利益が大きい。

 そして、愛情を与える立場は、大人である。

 大人には、さらに大人が居る。究極に於いては、それは神様であろう。だから、神様は愛情を注ぐ一方の方である。

 どちらが幸福感で大きいのであろうか? 

 神様ではないので、しかとは分からないが、私は、想像ではあるが、神様の方であろうと思う。神様は、奇特な方で、趣味で愛情を注いでいるようだ。そして、何の見返りも求めていない。それが楽しいからである。

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 実は、愛情は注ぐ方が、より幸せ感が深いのである。愛情は与えられる方よりも、与える方がより幸せであると考えることが出来る。その事を教えているのが神様なのだ。

 だから、

 子を持って、初めて知る子供の恩! と言うべきなのだ。 この論理に同意して下さる方も少なくないと信じているが、別に同意せよと願っているわけではない・・・。

 最後に、

 『老いては、子に従え』と言う言葉もある。そのようになれば、しめたものである。

 

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