明日4月16日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「愛は死なない」、賛美歌は「地よ、声たかく」、「全ての民よ、よろこべ」です。感染症に留意して礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。
明日4月16日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「愛は死なない」、賛美歌は「地よ、声たかく」、「全ての民よ、よろこべ」です。感染症に留意して礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。
「生まれ変わったように」 ルカによる福音書 24章1~12節
復活とは、弱い私たちの罪を贖うために、イエスさんが十字架で現された捨て身の愛による結果、神さまが生じさせたものです。死んだ人間が復活したという出来事は、そうやすやすと受け入れられるものではないでしょう。にも関わらず、「イエスさんは復活した」「私の罪は赦された」と告白までするのなら、自ずと私たちの生き方も違ったものへと軌道修正されるはずです。まるで、生まれ変わったように、これまでの自己中心的な生き方とは違う、イエスさんの愛の教えに基づいた生き方へと変革されること、それこそが復活の神秘的な力を受けた者としての当然の変化なのかも知れません。
しかし、2千年も昔、復活という神秘的な力を受け、「イエスさんは復活した」「私の罪は赦された」と連綿と告白し続けてきた者たちが、イエスさんが十字架から捨て身で現された神さまの愛に基づいて生きて来たのかと問われれば、現在世界で繰り広げられている有様を見たとき、そうではないと答えざるを得ないところがあります。復活の神秘的な力とは、何か御利益的に受けて終わるようなものではありません。それは、少なくとも私たちが罪を赦された者同士として、互いに愛し合って生きるための出発点に立つことができるという力なのです。後は、私たちが生まれ変わったように互いに愛し合って生きようとするのか、そうでないのかが問われているのです。
明日4月9日(日)は、イエスさんの復活を記念する日、イースターです。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「生まれ変わったように」、賛美歌は「地よ、声たかく」、「全ての民よ、よろこべ」です。感染症対策をして礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。
今週は、受難週です。6日(木)は、イエスさんが弟子たちの足を洗い、人々に仕える者としてのお手本を示した洗足木曜日でした。7日(金)は、イエスさんが十字架で我が身を捨て、捨て身の愛を現された受難日でした。キリスト教では、イエスさんが十字架によって私たちの罪を赦してくださったと信じています。受難週の出来事に思いを寄せ、罪が赦されている者として、改めて新たな気持ちで明日のイースターを迎える心備えをしたいものだと思っています。
ところで最近、イースターが復活の物語でもあることから、何か不思議な力、パワーナントカとか、そういった御利益に惹かれる人も多いことから、色々と商業的な仕込みが多々あるように思います。
そこで、改めてイースターの御利益とは何かを考えてみたとき、それは「私たちが互いに愛し合えるようになる」ということに尽きるのではないかと思います。何故って?それはイエスさんが捨て身の愛を十字架で示されたおかげで、私たちの罪が赦されたのだから、私たちは罪のない者同士になったという訳なんです。だいたい、罪にまみれた者同士で愛し合えるはずがないじゃないですか。憎み合い、争い合うがオチでしょう。どこかで罪を悔い改め、赦してもらえたというケジメがあるとないとでは、その後の生き方に随分と違いが出るのではないかと思うのです。必然的に生き方が変わり、本気で互いに愛し合って生きようとするのではないでしょうか。
「送り出す神」 ルカによる福音書 20章9~19節
イエスさんは、民衆にたとえを話されました。それは、ぶどう園の主人に収穫を納めない農夫たちの物語でした。主人は、一人、二人、三人と僕を送り出し、収穫を納めさせようとしましたが、農夫は僕を袋叩きにし、侮辱し、傷を負わせて追い返しました。そこで主人は、自分の愛する息子なら敬ってくれるだろうと考えて息子を送り出しましたが、農夫は「これは跡取りだ。殺してしまおう。」と言って殺してしまいました。このたとえを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりなせん。」と言いました。
イエスさんは、「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、それが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」と言いました。これを聞いた律法学者たちや祭司長たちは、このたとえ話が自分たちへのあてつけであることに気がつきました。愛を送り出す神によって、イエスさんは十字架で神の愛を体現しました。十字架という捨て身の愛に対抗する術などないことが教えられているのです。
明日4月2日(日)は、しゅろの主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「送り出す神」、賛美歌は「茨の冠を主にかぶせて」、「あなたもそこにいたのか」です。感染症対策をして礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。
2023年度の最初の礼拝を迎えます。新しい年度も神さまのお守りのうちに歩むことができますようにと願っています。災害で苦しんでいる地域の方々が守られますようにと祈ります。当初、不勉強で分からなかったウクライナでの紛争は、ウクライナを戦場とするアメリカおよびEUによるロシア侵攻だったと理解できました。最近、イギリスが劣化ウラン弾を供与するというニュースがありました。穀倉地帯と呼ばれているウクライナを核汚染させても構わないという自己中心的で野蛮な行為であり憤りを感じます。
この紛争をきっかけに、アメリカのあまりにも理不尽で独善的な一極支配の終わりが告げられ、ロシアや中国、その他アジアの国々による新しい「極」が形成されつつあるようです。一極集中支配とは、一極集中であり続けるために紛争や陰謀が絶えません。尽きることなく因縁を付けられ、恫喝されるのです。そのような一極集中支配が終わり、「互恵」の精神に基づく多極支配へと世界が移行するのは良いことであると思います。ともあれ、無関係の世界中の一般市民も影響を受けています。長期化するならば、日本もウクライナの二の舞になる恐れもあります。最近の度を越えた軍拡がそれを物語っています。一日も早い紛争の収束を願っています。