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融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「地方学」なるもの

2022年11月18日 | 日記

 「耕助のブログ」のご紹介です。

 今回の中国に関する記事を読んで、自分の身の回りのことを改めて考えさせられました。それは、昨今の少子高齢化や過疎の状況について、地方の若者には「地方学」なるものを学ぶことが必須なのではないかと思いました。

 「地方学」なるものとは、地方が抱えている様々な問題についてタブー視をせず議論し、検討し、解決への方法を考えるという学びのことです。それを、地方に生きる若者自身が学び、その頭脳をもってそれぞれの地域で行うべきビジョンを持ち、それぞれの地方に帰ってスキルを発揮することができれば、明るい未来が創造できるというものではないでしょうか。

 よく選挙の際、「この町を明るくしたい」というようなスローガンをよく耳にします。しかし、具体策のない単なるかけ声であったり、利権を追求するために担いだ軽い神輿のような議員に町の未来を期待する方が間違っているというものです。地方をそのような程度の理解しかできず、面倒くさいことはタブー視するばかりであったなら、どう町を明るくできるというのでしょうか。

 今後、「地方学」なるものを学んだ若者を地方議員として選び、議会の多数を占めるようになれば、同様に役場の職員も「地方学」なるものを学んだ若者が多数を占めるようになれば、それこそ全議員が、全職員がそうなれば、5年後、10年後の町の未来がどうなるのかを誰でもがイメージすることが可能になるのではないかと思わされました。

 「でんでん」とか「みぞゆう」とか誤読するような議員に、何が期待できるかということです。

 


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「人類皆平等」

2022年11月18日 | 聖書のお話

「人類皆平等」 マタイによる福音書 23章1~12節

 イエスさんは、群衆と弟子たちに向かって「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座についている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。」と言いました。

 「モーセの座」とは、信仰者に教えが示される場所のことです。そのため、権威のある場所と考えられていました。律法学者やファリサイ派の人々が語る言葉は、「モーセの座」についている者からの尊い教えとして聞き、守りなさいと教えられたのです。

 しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、日常においても自分が権威ある者のように振る舞い、「先生」と呼ばれて特別扱いされることを好んでいました。イエスさんは、「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」と言い、「先生」と呼ばれる方も呼ぶ方も戒めました。更に、妥協して「教師」と呼ぶことさえ許さず、神さまの前では人類皆平等であると教えられました。

 


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