Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

図書館のはなし②

2008-01-16 12:17:07 | ひとから学ぶ
 1/13サンデープロジェクトで地方再生の事例として、矢祭町の図書館開設のはなしが取り上げられていた。自立をいち早く宣言し、合併しないを前提にこの平成の大合併を乗り越えようとする同町は、全国でも際立って注目されている。そんな町に図書館が欲しいという住民の声に答え、図書館を設置しようとしたわけであるが、使われなくなった公共施設を改築して建物を確保したものの、ではその中に納めるべく本はどうするという話になった。そこで提案されたのは、寄付によってまかなおうというものだった。よその図書館運営をしている人たちから「図書館」と名乗るのは辞めて欲しいといわれるほどに、その方針は邪道だったのだろうが、世の中には本が溢れているから寄付を申し出る人は多いだろう。全国的にも注目されている町だけに、そしてそういう意図に乗るだけの社会になっているだけに、寄贈を申し出る人は予想をはるかに上回ったようだ。ちまたの図書館では財政難で図書購入費が減額されているだろうに、タダで本を集めようというのだから、よその関係者にしては面白くはないだろう。しかし、そんな非難をよそに、矢祭町の図書館は開館した。開館後の運営も住民が担うという方針は、こうした小さな地域にあっては画期的な方法に違いない。

 さて、そんな話しを聞いていて妻は、「わたしも寄贈したかった」と口にする。いらなくなった本がたくさんあって、それを廃棄するのも〝もったいない〟といって古本屋へ持ち込んでも一冊10円程度。持ち込む燃料代の方が高いのではないかというほどである。寄贈という場所があれば、本を持ち込む人も少なくないという証拠である。「町の図書館にでも寄贈したら?」とは言うものの、10円程度の評価の本を喜んでもらってくれるはずもないだろうし、どこかに「(そこには)寄贈したくない」という気持ちもあるようだ。前回にも触れたように、矢祭町のような運営方法をとった図書館では、地域住民に図書館は大事にされるだろう。ところがかつてのような施設を「作ってやった」というイメージがあると、なかなか住民はそのスペースを有効に活用するというところまではいかないのが常である。もちろんその運営がお役所的であれば、利用者など少なくともどうということはない。少ないほうが図書館の仕事をする人たちにとっては楽でもある。ということで、矢祭町の運営方針は、住民のための図書館という意図ではみごとにマッチしたと言ってよいだろう。もちろん図書購入費なくしては、欲しい本がそろえられないという欠点はある。したがってある程度の購入費が必要だろうが、初期の目標は達せられたに違いない。

 わが町に隣接する人口規模では半分程度という村の図書館にも、以前何度か訪れた。図書館の大きさもわが町のものより小さいが、子どもたちへのイベントも含めて、さまざまな工夫がされているという印象を受けた。人口規模が小さいから、図書館にいる利用者の数はそれほどではなかったが、カウンターにおられた職員の方たちの顔つきも「違う」印象を受けた。文化施設というものは、あればよいというものではないと思うのだが、その利用方法も含めて、子どもたちだけの施設ではないのなら、住民の意図を汲んだものにする必要はおおいにあると思うが、なかなか運営側には理解できていないのが実情ではないだろうか。
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神様の存在

2008-01-15 08:16:03 | ひとから学ぶ
 正月飾りをしてもそこに神様が介在しているとはかぎらない。飾りと歳神様が一体のものとなってはいない、それが現代の正月の実態である。あたりまえかもしれないが、1年の生産のサイクル、自然のサイクルの中で、さまざまな部分において神様の存在は大きなものであっただろう。しかし、生産という行為の中に神様が必要とされなくなれば、いわゆるかつての年中行事の意味は消えていく。会社にも神棚を設けている事業所は少なくないだろう。しかし、そこに本当に神様が存在している、あるいは社員が神様の存在を意識しているとは限らない。いや、そう信じる人は少ないだろう。神様に頼って会社の景気が左右されるものではないとみんなが知っているはずである。それは多くの会社が人間の資質に頼っているのであって、神を頼っているわけではないからだ。実力社会の現代なればこそ、人々の精神的なところにも神の存在は薄い。

 信濃毎日新聞の月曜日文化欄に「「在所」の文学」と題して南雲道雄氏が連載しているが、1/14、ちょうど小正月のこの日、「正月様と豚の神サマ」という文を寄稿している。子どものころ、正月の飾りが玄関だけではなく、裏口はもちろん蔵、納屋、牛小屋とさまざまのなところにつけられることに、意味もわからず楽しさを覚えたものである。それは節分の豆まきもそうであったが、どこにでも神様がいるんだという意識を少し味わうとともに、どこにでも精神的なよりどころ、言いかえれば不安定な場所があったように記憶する。しかし、おとなになるとともにそうした場所は減少していき、それはこの社会が与える印象にも左右されているのか、不安定な精神状態をもたらせてくれる場所は数少なくなった。それが歳を重ねることによってなしえたことなのか、社会の変化によってそうなったのか定かではないが、どこか神様の存在というものを意識しなくなったことだけは確かである。わたしでさえそうなっているのだから、都会に住む人、そして自然に左右されない社会にいる人たちにはもっと神様というものは存在しなくなっていると思うのだが、それもまた確実なことではない。ただ、正月というひとつの節目を見た場合に、明らかにこうした境界にある日でさえ、神様の存在がなくなりつつあることからそう思っても差し支えないだろう。

 南雲氏は養豚を業とする詩人が病気の豚を神サマと言い、常に気にかけていることでいのちの尊さを汲み取ってもらいたいと学生に説いたところ、「豚が神様」という意味が理解できないと言われたという。「病気になった豚を日夜気にかけ、見守るうちにいつの間にか自分が見守られていると意識する」という詩人の言葉に、その解答をみる。生き物とのかかわり、そしてその生き物ととともに大事にされてきたモノは、どこかに神が依りついていると思えてくる。だからこそ、神を祀り、拝むのである。そうしたかかわりがない生業に、神様は介在しないだろうし、拝んだとしてもそこには神様は不在ではないだろうか。「墓はいらない」と口にしたわたしも、そうした神の介在を感じていないからこそ、仏(先祖)もいない、ということになってしまうような気がしてならない。かろうじて飾った松飾り、しかしながらそこに神の介在をイメージできないからだろうか、今では飾りすら「必要なのだろうか」などと考えてしまうほどだ。変化をしながら人々の暮らしに色づけられた行事や意識。変わるのは当然だと思うが、そのいっぽうで変わらずに歴史を刻む地域もある。そこに精神的なものが継続しているかどうかも、これからは重要な位置づけになるだろうし、変わったからといって「お前はだめだ」でもないだろう。
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図書館のはなし①

2008-01-14 14:31:40 | ひとから学ぶ
 久しぶりに地元の図書館を訪れる。頻繁に訪れるわけではないが、休日といっても利用者は少ない。同程度の人口の自治体の図書館ではこんなものなのかもしれない。隣の町の図書館もときおり訪れるが、こんなもの、いやもっと少ないかもしれない。図書館だけではなく、他の施設と隣接しているから行きやすい立地ではあるが、利用者を増やそうという意識もないだろうから税金で運営されている図書館などこんな程度なのかもしれない。だいぶ前に触れたことがあるが、旧鬼無里村を訪れ、資料を確認したかったから「図書館はどこですか」と訪ねると、単独の建物はないと言われた。ではどこに、というと公民館の片隅に図書コーナーがありますと言われ、行ってみたがとても要望に答えてくれる内容ではなかった。このあたりでいえば、児童館の図書コーナーといったところだった。その地域に比較すれば、伊那谷は図書館が整備されている町村が多い。ありがたい話しではあるが、利用者が少なければ、せっかくの施設も〝無駄〟ということになりかねない。

 図書館の利用者といえば、ほとんどが子どもたちである。この日も子どもたちの姿しか見えない。ビデオの視聴コーナーは空きのないくらいに子どもたちが利用しているが、そのいっぽう閲覧用の机はがら空き状態で、数えるほどの子どもの姿が見える。それも本を読んでいるという雰囲気でもない。子どもとともに訪れた母親が数人いるが、どうみても運転手といったところだろうか。わたしが入館した際の総人数、約15人。そのうちのほとんどが女性。唯一2人連れの高校生のかたわれが男性だっただけである。その自治体の雰囲気をとらえる指標として、図書館を訪れてみるというのは一つの手である。同じことを大昔にも思ったものである。それは必ずしも文化の指標というだけではなく、その自治体のさまざまな取り組みとも関わる。

 30年以上前、飯島町の図書館にはよく訪れた。公民館の1室が図書室になっていたが、本の冊数はけっこうあったと記憶する。わたしが行く目的は、地元の郷土資料をあさるためだ。当時の図書館には子ども向けの本などと言うものはほとんどなかった。いや、子ども向けの本が、今ほど氾濫していなかった時代かもしれない。子どもたちにとっては学校にある図書室の本でおおむね間に合っていたと思う。そう考えると、現在の学校の図書室とはどういうことにっているのだろうか。すでに5年ほど前のことになるが、地元の小学校の図書室がPTAの会議室になったりしてよく訪れたが、小さな学校は小さいなりの図書室であった。考えてみれば学校の図書室は子どもたちのために用意されているのだから、そこが充実していれば自治体の図書館などというものを子ども達が占領するなどということはないのだろうが、わたしの子ども時代とはそこが大きく違う。いずれにしても30年以上前に盛んに訪れた図書館に、人影はめったになかった。時おりいたとしても1人くらい、それもおとなだったように記憶する。南側にあった図書室ではあるが、図書室だから棚を並べるから暗い空間で、図書室とはそういうものなのだというイメージを持っていた。そんな時代に、よその図書館を訪れたこともあったが、地方の図書館で今のような立派なものはなく、地元の図書室に満足できなければ、伊那市にある上伊那図書館を訪れたものである。そのことを思うと、時代は変わったものである。

 以前指摘したこともあってか、地元の図書館の郷土史コーナーに地元で発行された自治体誌や歴史資料がわずかではあるが並べられている。この町で発行されている歴史資料が極度に少ないことがすぐに解る。それはともかくとして、以前はその資料ですら図書館で一般の棚に公開されていなかった。現在はそれが公開されているが、相変わらず地元の資料は禁帯出である。隣接する市町村の郷土資料は貸し出しできるのに、地元のものは借りることができないのである。たいして冊数がないから、地元の人は「皆所有している」ということなのか、と思わせるほどである。この図書館とこの地域の人々の郷土意識がよく見える瞬間である。
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三流意識

2008-01-13 10:56:55 | ひとから学ぶ
 TBSサンデーモーニング「風をよむ―ニッポンの評価」において、2008年頭において、ニッポンの数値的世界の位置を示して街角でのインタビュー、そしてレギュラー人のコメントをもらっていた。意図は日本の現状をみると、落ち込みに歯止めがかからない状況である、というようなことを示したかったのだろう。そして、その回答は国民が示さなければならないというメッセージなんだろう。この番組のコンセプトは、2時間にわたりスポーツを取り上げる約30分間は別としても、残りの部分は、すべて課題を提示して国民自らが考えてもらおう、そんな意図が見える番組である。国民に振っているから、意外と強烈なインパクトは与えない。報道ステーションの古館や、ニュース23の筑紫など、夜間に放映されている報道番組のキャスターの言動や、同じ日曜日ならサンデープロジェクト、あるいは報道特集のようなインパクトを与えようとする報道とは少し異なる。この番組が報道番組ではなくワイドショーである、という位置づけにもよるのだろうが、コメンテーターの顔ぶれは報道系の番組と言ってさしつかえないだろう。ひとつひとつの企画が短時間で区切られるという番組構成からしても、浅く広くという話題で視聴者にばらまく、そんな意図なんだろうと思う。インパクトが強くないから視聴していても癖がなくて見やすい番組である。ところが意図しようとする背景は重いものも多く、実はその投げかけられた課題を視聴者がどう捉えるか、という部分で、しっかりした捉えかたをしていないと間違えて聞こえてしまうことも多い。そういう意味では見やすいものの、投げかけられている課題が大きいということなのかもしれない。

 さて、ニッポンの評価についての街角でのインタビューを聞くと、国の評価として何流なのかみたいな回答が流れる。聞く側が意図的に何流?などと聞いたのかそのへんを見逃してしまったが、いずれにしてもそこで回答する人たちは三流とかそれ以下という評価をする。かつて経済大国といわれた日本の現状が、どれほど景気がよいといっても低下し続けているという印象を多くの人が持っている。それはみな、かつての〝良い時代〟と比較するからそう思うわけで、もう30年もすると、悪い時代を若い時代に送った人たちが多くなり、必ずしも退廃感のようなものが漂っている日本にっなっているとは言えないだろう。それはこの時代に、何をもって評価するかという視点を持つことが必要だろう。回答をした人たちが、何をもって二流とか三流というのかそのあたりから国民の意識の問題が浮上する。数値的な世界位置が見えたとしても、確かな暮らしが確立されていさえすれば、そんな数値に惑わされることはない。価値観の変化を求めてきたにもかかわらず、定量的評価する際の内容を経済にもってゆけば、価値観など変化するはずもない。いつまでいっても経済至上主義は変わらない。どう考えても現状の中国に勝てるはずもないし、よそに「負ける」という意識を経済上で持てば、人々は退廃感を持つのは当然なのだ。だからこそ、評価の視点を変えなくてはならないだろうし、何をもって自らの生活はよそより低いとみるかということになる。オイルマネーの中東の富豪や、中国の発展途上で生まれた富裕層、そんな人たちと比較して「わたしたちは三流だ」などと言うはずもないだろうが、つまるところ回答をした人たちは、自らの現状を国の責任にしたりして自らの生活の視点を変えようとしていないということになる。この意識こそ、三流意識の源なのだろう。どれほど収入がなくとも、不足しているものは身のまわりにない。金がなくてはそれらを手に入れることはできないだろうが、それほど悲観的になるほど国のシステムは悪くはないはずだ。世界には192カ国あるというが、では、国民総所得(GNI)192番目の国は生きる価値がないのかといえばそうではないはずである。
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音姫

2008-01-12 16:46:19 | ひとから学ぶ
 「萌えるモノづくり」という中日新聞1/9記事では、〝乙女のはじらい〟を隠すモノづくりの話が紹介されている。男性には縁がなく遭遇したことがないのかもしれないが、公共施設や百貨店、あるいはオフィスビルの女性用トイレには、便器脇の壁に手をかざすとセンサーが反応して水洗の音が鳴り響く装置があるという。水洗が作動しているのではなく、音だけが鳴り響くというものだという。この装置、衛生設備会社が開発した「音姫」という商品という。排泄時の音を消すための擬音装置なのである。開発陣によれば、こうした発想は男性には解らない世界だったというが、実は記事の最後で「20歳から60歳代の男性500人余りのうち4割近くが恥じらいや、におい対策として、余分な水を流していることがわかった」という開発陣の最近の調査結果を載せている。

 女性にとっての排泄音というもの、例えば同性だけの空間であっても人に聞かれるのはしのびないというものなのだろう。そう考えて自らはどうかと問うてみると、確かに好き好んで人に聞かせるものではないだろうが、たとえばどういう音を対象にしているのだろうと悩んでしまう。小便だとしたら、もともとオープンスペースに横に人が立っていたりしたら、音よりも違うことに気がとられるだろう。そして、男性用小便器の音などたわいのないほど小さなものである。では大便器ではどうか。このごろは和式の便器は少なくなって様式のものが増えてきた。音を発散するタイプの和式に比較すれば、音をふさいでしまう様式の便器で、どれほどの音がするだろう。このごろの都会のトイレ事情というものをあまり知らないからそんなことを思う。地方とその環境にそれほど差があるとは思わないのだがどうだろう。

 記事では江戸時代のお姫様の音消し用のつぼのことや、屁負比丘尼のことが触れられているが、雑音がなく、自らの血が流れる音も聞こえたといわれる時代と現代では音の大きさ量ともに違うだろうし、その音への敏感さも異なるだろう。それでもその音が気になるというから、むしろその音とはどんなものなのか聞いてみたくななる。とはいえ、男性の意見にあった〝匂い〟についてはわたしにも理解できる。便秘ぎみで、排泄に時間のかかるときに、一度排泄したものが便器に残っていると、自らの匂いなのになぜがモノを流したくなる。しかし、音姫ではにおいはけせないだろう。むしろこの時代の便器事情からいけば、匂い消しの方が求められるように思うのだがどうだろう。
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死に支度を考える⑦

2008-01-11 12:34:04 | 民俗学
⑦わたしの霊魂観

 2001年11/17国立歴史民俗博物館第36回歴博フォーラム「民俗の変容 葬儀と墓の行方」の内容を中心にして、これまで死に支度について触れてきた。フォーラムで行われた討議の最後に「わたしの霊魂観」と題して、発表をされた方々が自らの生活に照らし合わせて、感想を述べている。多様な面をそれそれの視点で発表された専門の方々が、いざ自らの生活へトレースしてみると、意外と思われるような現実的な発言が相次いで、研究者自らが伝承とは乖離した自らの視点で葬儀や墓を考えているということがわかる。いや、自ら研究してきた過程で、自らの葬儀や墓のことを考えるようになったと捉えた方がよいだろうか。これを「共感する」ことで見出された答えと捉えるかどうかはともかくとして、考えるほどに従来の葬儀や墓の存在が変化しているといえるだろうか。

 ようするに、以前にも触れたように、葬儀や墓のことはいざ「死」という現実が身のまわりにやってこないとなかなか考えないということである。とくに親族の死ともなると、その一関係者という立場で葬儀を変えるわけにはいかない。あくまでも故人がどう考えていたかというところが尊重されるもので、それを確実にするために遺言というものがある。たとえ遺言がなく、故人の考えがとくになかったとしても、一関係者が「では葬儀は身内だけで、遺骨は散骨にしましょう」などと言うわけにはいかない。結局、自らの死後の用意をするくらいしか、自らの考えを示すところはないということである。そういう意味では、現代の人々は、生前から死後のことをいろいろ考えているのだろう、だからこそ葬儀も、墓も変化してきているということになる。

 その要因として、教育の変化や学歴社会化というものもあるだろう。討議の中で福澤昭司氏はこんなことを口にした。「お父さんは自分のやっている学問と自分の生き方とに矛盾を感じないのかといわれました。(娘に)おばあちゃんの家とか、おじいちゃんの家とか、どういうふうに考えているの、真顔で言われまして、何と答えたらいいかわからなくなってしまって困りました。」というものである。福澤氏は自らの、また妻の両親とも年寄りだけで暮らしているという。実はそうした背景を指摘する子どもたちけっこういるに違いない。もう10年以上前のことであるが、旧高遠町役場に千葉県から引っ越してきた青年がいた。彼は高遠の山奥に独り暮らしをしている祖母の家に住むためにやってきたのである。彼は千葉県の実家で両親にこう言ったという。「なんでおばあさんと一緒に暮らさないのか」と。父ができないと言うと、それなら「自分が一緒に暮らす」と独り祖母のところにやってきたのである。その祖母ももう亡くなられたと聞いたが、今も高遠に住む。このように親の家族観に対して批判する子どもたちも少なくないだろう。そしてそれを実行に移せるだけの若さもある。

 家族の分離生活は、地方におけるほどそれを認める傾向が強くなった。学歴が高いほどに子ども達が同居しない傾向は強い。こうしたフォーラムに参加する専門家は、みなそうした道を歩んできたともいえる。出世するほどに親からは離れた世界へとゆく。それは家から離れるわけで、墓からも離れてゆくことになる。こうした人々が、自ら葬儀や墓の変化の舞台を演出してきた一人ということになる。そんななか、関沢まゆみ氏が「わたしは学問と自分のことは分離していて、この問題には想像力を働かせないというか、自分がどうするかというのは今のところ何も決めていません」と答えた。参加者の中では最も若いということもあるのだろうが、さすがに死後の世界をどう考えるかなどというものは、歳を重ねるほどに膨らむわけで、若い人々が盛んに口にすることではないということにもなるのだろう。だからこそ、徐々に変化を見せていくのだろうが、このような人々のこころの持ちようは、こと葬儀と墓だけに限るものではなく、地方の暮らしのたくさんの部分に影響を与えてきていることも事実で、暮らしぶり、考え方の変化は徐々にではあるが、気がつくと大きく変化してきているのである。

 最後にこんなことに触れて、死に支度を終えたい。同討議のなかで武田正氏がこう述べている。「私にも二人の男の子がおりまして、二人の私の死に関する考え方はかなり違います。私と家内と二人ではどっちかが早く亡くなっても後の者が死ぬまでは骨はそのままどこかに置いて、合わせて、両方死んだ時に子どもから散骨してもらったらいいじゃないかという話しをしておったんですが、(中略)上の子どもの方は、やっぱり何か伝統的なかたちでしてあげたい。下の方の子どもは、両親がそういうのであれば、両親である私と家内が言っているとおりでいいんじゃないかと、長男の考え方と次男の考え方の間を行ったり来たりしているのが実情でございます」というものである。長男と次男という対比でゆくと、けっこうこんな会話が多いのではないだろうか。わたしも同じように次男、そして兄は家を継いで守っているから、武田氏の長男と同様である。それを「次男は気楽だから」と片付けられてしまうことはよくあったが、けっきょく親の面倒を見るということがいかに家とか墓といった対象に保守的にならざるを得ないかということなのだろうか。もちろん親の死や近親者の死に対峙するとともに、また考えは揺れ動いてゆくものだろう。果たして墓に近くなる10年後に、わたしはどう考えているだろう。


①寺の危機
②子に託せない時代
③問う、墓の必要性
④いつまでも残る遺骨
⑤両墓制
⑥千の風になって
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感情と量刑

2008-01-10 12:16:32 | ひとから学ぶ
 感情的なものと司法の結論は別のものである。そしてそれが確実であれば結審したものに差はない、というのが通常なのだろうが、それがそう簡単にいかないのは、相手が人間だからである。福岡市で起きた幼い命が3人奪われた事故は、判決以前に危険運転致死傷罪の適用が難しいという情報もあって、予定通り7年6ヵ月という、枠の中での最高刑という結果が言い渡された。法律の欠点などという世論があがっているが、たまたま世論の真っ只中にあるから、そこにかかわる法律は非難を浴びるだろう。致し方ないというか、そういう盲点はたくさんあるのかもしれない。

 素朴に思うのは、殺人の量刑である。計画的殺人と咄嗟に起きた殺人には量刑に違いがある。どちらも殺人には変わりないのに、そのときの当事者がやる気でやったのかそうでなかったのかによって異なる。さらに細かい心理状態が伴って刑が判断される。そんな判断の差の要因に疑問は湧くのだが、当事者の心理状態などを考慮しながら法律に照らし合わせていくのだから、法律の解釈や世論といったものも影響が皆無とはいえない。危険運転致死傷罪の制定理由からいけば、今回の判定は意図とはかなり異なっているに違いない。しかし、過失の度合いなどを判断しながら、どこに照合させていくかというシビアな検討を加えるために裁判があるのだろうから、その中での最高刑というものは認識しなくてはならない。たとえ25年の懲役になっても、7年6ヶ月の懲役になっても起した事実は消えない。そして判決を受けた側がどうとらえるかによっても量刑の重さは異なる。だからこそ、情状酌量というものがあるのだろう。裁判の真っ只中にいれば、単純に結果だけを捉えながら感情をむき出しにはできない、奥深いものがあるはずだ。

 多くの人がこの判決に不満の言葉を発するのだろうが、判決の日の報道が比較的穏やかだったことには、安堵した。法的な不備は専門家に任せるとして、法制定の意図と現実の裁判を検証して、不備をただしていく流れを求めるのは好ましいことだろう。制定後の判断に差があることを指摘する報道も目立ったが、制定されたからといってその枠の最高刑を下すには、法の解釈に難しさがあってよい。量刑というものと〝いのち〟というものをほかの事件との量刑と比較しながら、何が適正かを探る時があって当然である。感情で法が整備されたからといって最高刑を課すにはまだ早い、という印象も残る。したがって求刑の25年と判定の7年6ヶ月、数字だけで感情を操作してはならない。中日新聞社説において、明確な求刑基準がいる、と述べている。「加害者の個人差や内心まで立ち入り立証しなくても、明快な外形的事実で罪の成否を判断できる基準を盛り込むべきではないか」というのである。確かにそれによって判断に差のない納得のゆく判決が生まれるようになるのであるが、うなづけるとともに、「本当にそれでよいのか」という気持ちもある。前述した殺人のような場合でも、そんな明確性には欠けるようにも思う。外形的な事実だけで判決が可能なら、裁判に何の意味があるだろう。人間はこうした矛盾を学んでいくしかない。

 むしろ、危険運転致死傷罪の判断基準といわれる「アルコールまたは薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車走行」、そして「赤信号をことさら無視」というものは、矛盾と疑問の証である。故意にひこうとすれば「殺人」となるだろう。アルコールを飲酒していれば、この「故意」という二文字を消すことができるのだろうか。殺人を目的として事故を起こし、量刑を逃れるトリックもありうる。赤信号をことさら無視しているということは、確かに行為とすれば危険であるが、意識がはっきりしていればむしろ「故意」としてとらえられないのだろうか。意識がはっきりしていて、逃げることを考えることができたから罪状はそれにあてはまらないとしたら、確かに制定の意図とは異なる。大変な疑問なのだが、この疑問のある中で裁判を行う以上、その曖昧さを感情的に解釈してしまうのも危険である。やはり裁判官に判決の批判をするべきものではないだろう。
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電車賃の不思議

2008-01-09 12:18:35 | つぶやき
 ふだんは定期券で乗っているから気にもならなかったのだが、長い区間を乗っていると途中下車することもある。仕事以外の用事に利用したりすることもあるが、途中まで乗車券を購入して、再びその先まで乗車券を買うなどということをすれば気がつくのだろうが、定期券では当たり前のように降りて、当たり前のように乗るから、区間の乗車賃がいくらかなどということは意識しない。だからふだん利用している区間が直通でいくら、という意識はあるが、途中下車する駅までいくらで、その先がいくらということになるとさっぱりなのである。

 そこへゆくと同僚は飲み会の際にだけ利用しているから、途中下車するわけでもないのに、わたしより長い区間を乗っているからそんなところに気が廻る。自分で利用して気がついたものか、それともどこで聞いてきたものなのか解らないが、乗車券を分割して購入した方が安いという。普通なら分割するより一括の方が安いという印象なのだが、その話しを聞いてからふだん利用している区間を分割して乗車賃を調べてみた。すると確かに安い区間がある。「たまたま」と思いきやそうではないことに気がついて、少しびっくりといったところである。



 そこで自分が利用している区間より長いスパンを対象に飯田線の駅間の乗車賃を調べてみた。表はそれをまとめたものである。飯田―伊那市駅間と平岡―伊那市駅間の2スパンについて調べてみたのだが、結局は平岡―飯田駅と飯田―伊那市駅の最も安い分割方法を足したものが、平岡―伊那市駅間の最も安い組み合わせとなる。飯田―伊那市駅間の直通料金は950円。当初は2分割で最安値を算出していたが、そのうちに乗車賃400円あたりまでにまやかしの種があるとみて、3分割して計算をしてみたら飯田―七久保―駒ヶ根―伊那市駅と分割するとトータル860円となり、一括より90円安いことが解った。

 同様に平岡―伊那市駅間を調べてみると、平岡―伊那市駅間一括1620円に対して、平岡―千代―飯田―七久保―駒ヶ根―伊那市駅と5分割した1490円は130円安くなる。一覧からも解るように、230円から400円区間の乗車賃が安く設定されているために起こる現象なのだろう。飯田線だけのことかと思って他の路線で調べてみると、やはり同じ現象が起きる。

 さて、ためしてみたわけではないが、電車内で乗り越ししたいと申し出て、こんな5分割ができるかどうかは解らない。ただ、乗り越しの場合、一括清算ではなく分割清算となるから、可能だとは思うのだが、2回も3回もそんなことを申し出るのはおかしな話しである。けして不正ではないから、乗務員よりも申し出る側が有利とは思うが、そこまでする人はいないだろう。分割するほどに安くなるわけだから、長距離を乗車するとかなりの差額が出るはずである。めったに乗らない人にはお勧めの方法である。
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伝承では歴史を覆せない

2008-01-08 12:23:07 | 民俗学
 上野千鶴子氏が信濃毎日新聞12/17月曜評論に記した「教科書検定怒る沖縄人」を呼んでいてこんなことを考えた。明確な軍の関与を示すものはないというが、歴史学者の視点でゆけば、わたしたちが関わっている民俗学と大きく異なる部分がそこにあるのかもしれない。わたしたちは、伝承という口述から人々の暮らしを見出しているが、歴史はあくまでも文書上の記述が第一の証拠となる。わたしたちのように「誰かが言った」などという曖昧な証拠は、歴史の世界では通用しない、と言われればその通りで、歴史学という分野を正確に捉えてゆくと、「自決しろ」という命令の文書が無い以上は、軍が集団自決を求めたとは言えないのかもしれない。もしあったとしても、これは文書を消してしまえば証にはならない。歴史が有力者の上に成り立っているという事実をみれば、政治でどうにでもなるということにもなる。しかし、議論になっている「関与」という言葉に立ってみれば、けして文書はなくとも「関与」はあったのではないか、と捉えれば曖昧な言葉になるから否定できないはずである。このあたりが歴史の世界では意見の分かれるところ、ということになるのだろう。歴史の教科書だからその証拠が大事であるといわれれば、その通りとなる。

 ここで沖縄の人々の精神的な部分は、果たして「歴史」という証拠を掲げなくてはならないようなものではないはずである。このあたりをどう国が考えるか、という部分なのだろう。割り切った形で歴史は「歴史」、しかし、関与したことは確かだからそのことは認める、という具合ならまだ気持ちは晴れるのだろうが、国はいつまでたっても明確なことは言わない、その背景には、やはり「歴史」という証拠の上に立てば回避できる、という意図があるように思えてならない。

 さて、上野氏は沖縄の人々が本土復帰にあたって、さまざまな思いがあったことに触れている。「アメリカの属領」か「日本の捨石」かという二者択一ではなく、第三の道としての「独立」を主張する人々もいたという。そうした反復帰の思想は、復帰第二世代の新しい声、新しい表現を獲得しつつあるともいう。その一人である野村浩也氏の言葉を紹介し、「〝沖縄大好き〟という内地からの観光客に向かってこう言い放つ。〝そんなに好きなら、基地も持って帰って〟」という言葉を取り上げている。この言葉からみえてくるのは、内地人とは違う沖縄人であるという強い意識である。これは戦争後の踏み台になってきた人々の強い心だろう。

 こんな例えをすればそれこそ沖縄の人々に叱られるかもしれないが、わたしにしてみれば、廃れた地方に都会からやってくる観光客に、同じような言葉をかけたくなるときがある。しかし、踏み台にされた、という意識がこの地の人々にないから(そこが戦争という大きな傷と、地域が蝕まれたという痛手の違い)、沖縄と本土の関係とは異なる。それだけにわたしたちは騙されている、利用されているということに気がつかないかもしれない。どこか似ていると思うが、たとえが悪いと言われれば、謝るしかない。

 民俗学のように噂話すら伝承として陽の当たる場所に登場する学問が、なんらお国にとって力がないものだと良く解る。証明できる明確なものがないような捉え方は、簡単に退けることができる。それを思うと、人々にとって魅力はあっても、金の生る木には絶対ならないから相手にされない。もちろん歴史の上を綱渡りしている人たちも、頼ることは怖くてできない、ということになりはしないだろうか。
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年賀状を書き終えて・・・

2008-01-07 12:18:22 | つぶやき
 今年もようやく年賀状を書き終えた。いや、書き終えたというよりも年賀状がなくなったのでそれで諦めたといった方が正しい。もう数枚用意したかったが、来た年賀状の返信を書いていたら、「出さなくては」と思う相手へ出せなくなってしまった。諦めの早いわたしは、「今年はこれまで」と終了宣言とあいなった。妻はこの2年ほど、わたしが何も手助けをしないから、宛名はもちろん、本文もすべて手書きである。そう思ってわたしのところに届いた年賀状を確かめてみると、すべて手書きあるいは押印など手作業で埋め尽くされた年賀状は2枚だけであった。もちろんそんな年賀状は宛名も手書きである。おそらく印刷で作っている人は、作業しているのはプリンターであって、本人はその間違うことをしているのだろう。そこへ加筆する人はまだよいが、男の場合は面倒くさがりやなのか口下手なのか、ほとんどの人は加筆がない。妻はそんな年賀状を見ながら「あんたの友だちってつまんない人たちねー」などと毎年繰り返し口にする。

 どうしたものか、などと考えているうちに三が日も過ぎてしまったわたしは、「インクを買う人々」とは同じになりたくない、などと感じていた。だから今年はもし年賀状を書くとしたら手書きにしようなどとも思っていた。とはいえ、やはりプリンターを使って本文に写真やタイトルを記入して埋め合わせするのは、手間を考えると楽である。ということで〝インク〟を使う人になったが、〝買う人〟にはならなかった。ようはふだん使っているインクを交換しなくともすべて印刷することができた。できうる限りインクを使わない構成、そして宛名は手で書く、それが一番なのである。プリンターに指示さえすれば印刷中はほかのことができるわけだが、その時間を無駄にしても自ら書くことにした。

 話は変わるがふだん手で何も書かないから、早く書こうとすると字を間違える。最近そんなことが多くなった。もちろん字を思い出せないなんていうことは頻繁である。これも〝病〟と思いながらも、字を書くことが大事だと感じている。何より、手先が細かい動きをしなくなる。

 さて、文字のない機械で印刷された年賀状を見ていると、いただいた人の様子が見えない。「みな元気でけっこうなこと」と思ういっぽうで、身体の不自由なことを認識していれば、「きっとパソコンの登場はありがたいことだろう」などと思ったりする。ところがそんな整然とした年賀状の中に揺れたような文字が書かれている年賀状を拝見したりすると、健康だと思っても、本当はどうなんだろう、などとよけいに気を回すことになる。やはり加筆はなくとも、どこかに文字が書かれていないとその人の様子が見えてこない。いっそ音信不通ならよいが、年賀状を出すという意識を持つ以上は、ただ出せば良いというものではないということである。

 これも妻のよく口にする言葉である。「家族の写真を載せているけれど、みんな了解を得ているんだろうか」というものである。かつて写真屋さんの綺麗な写真に家族みんなで写っていたものが、子どもが成長するとともにしだいに年賀状は簡素なものになってゆく。ほぼ大方の人たちはそうなっていくのだが、成長しても家族の姿が写し出されているものもある。きっと妻はそんな年賀状を見ながら羨ましがっているのだろうが、そんなそれぞれの家が見えてくる、それぞれの人が見えてくる一場面を得られるというだけ、そうはいってもありがたい年賀状なのだろう。
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信南交通の路線バス撤退について

2008-01-06 11:01:31 | ひとから学ぶ
 年末に松本市のアルピコグループの経営難が報道されて驚きの声が上がったが、そのすぐあとに飯田下伊那地域のバス事業を行なっている信南交通が、一般路線バスの事業を撤退すると表明した。実は長野県内で一般のバス路線が運行されている路線は少ない。よほど黒字と言われる路線はともかくとして、長野市・松本市以外の路線バスはほとんど赤字だろう。したがって直営路線は数少なく、多くが行政の力を借りて運営されている、あるいは行政から要請されて運営されているのが現状だろう。飯田下伊那地域にいたっては、バスなくしては地域の足がなくなる、という声が高まるものの、一事業者にその責を負わせるには、あまりにも公共性が高いのに住民の協力はない。地方でも景気の良い業種があるだろうに、そのいっぽうで公共性の高いこうした業界は厳しさが改善することは絶対にないかもしれない。このあたりが、わたしのよく言う、民間事業者も車通勤ではなく、公共交通の利用者を増やす努力をするべきという考えに通じるはすだ。妻がよく言うが「公務員が率先して公共交通使うべき」という意見は、それ以上に民間に聞かせてあげたいものだ。

 高速バス事業による収入が、バス会社をなんとか継続させているという話は昔からよく言われていることである。そしてとくに伊那谷のバス事業者にとっては、電車と比較してあらゆる面で都合の良い高速バスは、こうした路線バスを補ってきた。矛盾な話であるが、これがもし飯田線がスピードアップしていたり、完成を見なかった中津川線があったら、どうだっただろう。例えば中央新幹線が本当に登場するころ、この地域のどこかに駅があったら、高速バスの利用者は今のようなわけにはいかないだろう。わが社と同様に、不必要になったら目も当てられず「廃止の日を待つ」、そんな冷たいことを平然と住民はしていないだろうか。財政難の自治体がそれを補っていくことになるのだろうが、行政のやることはバランスが良くない。そうでないことを望むしかない。12/30信濃毎日新聞に、最も利用客の少ない路線の1台当たりの平均乗車密度が示されていて、それによると、1人に満たない0.6人という。そして「人影の少ない駅前の停留所を見て、「これだけ客が少なければ経営も苦しい。仕方ない」」という利用客のコメントを紹介している。「行政の力を借りて」というが、行政ではない。住民がどう捉えるかであり、どうしても必要なものなら本気で住民が考えなくては、足はカバーできない。

 通勤時、電車が飯島駅に到着すると、駅前にマイクロバスが停車している。以前にも触れたが、このバスの利用が増えないという新聞記事を昨年拝見した。電車が到着するのを待っているように駅前に停まっているバスは、おそらくその町で運営している有料バスである。もちろん客は誰も乗っていないし、降車した客が乗るはずもない。1/4の朝、一面雪で白くなった世界に、いつもと変わらずにそのバスは停まっていたが、やはり誰も利用する人はいなかった。この現実を町当局はよく認識しているのだろうか。こんな姿を見ていると、行政に面倒見させても、無意味なものとなりかねない。


 実は撤退を表明した信南交通の中島一夫社長のことに以前「伊那谷の南と北」第2章 においてわたしは触れている。信南交通はバス路線を12路線も維持してきた。おそらく県内でもこうした山間地域を中心にこれほど多くの路線を維持してきている会社は少ないのではないだろうか。赤字でも地域のために努力されてきたことは事実である。何度も言うが、一事業者にさまざまな地方の病の一つを押し付けている住民が〝悪い〟、そう思わずにはいられない。
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長寿「長野」とは言うけれど

2008-01-05 14:54:51 | つぶやき
 年末に長寿県長野を示す数字が発表されて、〝男性は平成2年から4回連続で全国1位(79.84歳)、女性も5位(86.48歳)という長寿県の長野。死亡確率でもがんは男性が全国で一番少なく、女性も39位と好成績。ただ、脳血管疾患は男女とも全国1位だ。同県健康づくり支援課は「特別なことは行っていない」としながらも、「16年調査だと、高齢者の就業率(約31%)が全国平均(約22%)より高い。近所や友人の交流も深いので、生きがいを持って生活するのが影響したのかも」と推測する。」〟などという記事も見えた。意味不明の推測である。確かに平均寿命は高いのかもしれない。宴会になると、「長寿長野」を口にする人も多く、誇らしげにしゃべる人もいる。しかし、その数字をみるかぎり、それほど飛びぬけたものではない。最下位の青森県とは3.57歳の違いで、やはり女性の最下位の青森県と1.68歳の違いである。男性の全国平均とは1.05歳の違いということで、そんなにびっくりするような数字ではない。平均寿命の差なんていうのはそれほどないということを示している。もう少し世代別の数字を読み取っていけば、その理由が少しは見えるのかもしれないが、これほど接近している以上無意味かもしれない。

 そんななか、前から言われている自殺者の数である。東北では自殺者数が多いとよく言われる。そういう数字が影響してか、東北地方は軒並み平均寿命が低い。男性のワースト3、女性のワースト3の5/6を占める。そんななか、男性の平均寿命をみると、都市圏は比較的高い。神奈川県の男性は3位(79.52歳)、東京の男性は5位(79.36歳)と高い。そして意外にもそうした上位県は、女性になるとどこも順位では下がる。長野もそうであるが、神奈川県の女性18位、東京の女性28位とあいなる。とはいえ、前述したように女性の数値にそれほどの差はない。1位と最下位の差は、2.08歳。その中にひしめいているから、傾向程度は見えても、1位だからといってそれほど浮かれるものでもない。男性と女性の平均寿命に約7歳ほどの差があるが、結局不慮の事故で亡くなる可能性として男性が多いということもいえるし、戦争世代が少なくなるとともにその差は縮んでゆく。そうはいっても男より女の方が精神的に強そうだから、これが逆転することはないだろう。もし逆転する時代、あるいは小差の時代がやってきたら、それこそが男女平等社会の到来といえるのかもしれない。

 男女という視点でこんな具合に見てみれば、いかに不慮の事故、あるいは自殺者が少ないかによって平均寿命は違ってくる。そう考えれば長野県の男たちは危険に遭遇していない、どちらかというと石橋を叩いて渡るタイプ、なんて言えるのかもしれない。ということで、男性のランキングは「環境危険度」、そして女性のランキングは「まさに長寿を示す」と見たほうがよいのではないだろうか。
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千の風になって(死に支度を考える⑥)

2008-01-04 12:23:27 | 民俗学
⑥千の風になって

 愛する人を失った者のこころの悲しみを癒す曲として葬送の際の定番になっているともいう「千の風になって」、葬送の定番というネーミングをわたしは知らなかった。そういえば、信濃毎日新聞の「新たな自分みーつけた」という記事で、安曇野市へ移り住んだ方のご主人が亡くなった際に、葬儀において孫が「涙そうそう」を歌い、返礼品は「千の風になって」を作曲者の新井満さんが歌うCDだったと紹介されていた。なるほどちまたでは「千の風になって」が葬送のイメージに合致しているようである。

 このところ墓の必要性を問うているなかで、この「千の風になって」の冒頭の歌詞「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」を大変興味深く聞いた。ようするに、お墓で祈ってもそこに祈りの対象者はいない、その代わりに風となって見守っていますよというのである。この歌が流行るとともに、その感覚が認められるとしたら、お墓の革命的な変化ではないだろうか、などと歌詞を聴きながら感じたのである。そして、その通りにこの歌が流行り、わたしの認識の上を行くような〝葬送の定番〟という事実である。自ら「お墓はいらない」などと思っていたが、まさかこれほど時代の変化を見せられると、こちらが引いてしまうほどの世の中の動きである。「お墓はいらない」などというのは辞めようか、などという気持ちにもなる。いったいこの意識はどこからやってきているのだろうか。それを推し進めるような信濃毎日新聞1/3朝刊の特集記事、新井満と俵万智の対談「千の風 万智の歌」である。俵は「もともと父も母もお墓はいらないという考えの持ち主なんです。だから「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」に、鬼の首をとったみたいに「ほらみろ」と言うんですよ。」という。これは見事に私のこの歌への第一印象と同一なのである。そこへさらに新井は「一般の人からの感想でも一番多いのは「以前から私も同じことを考えていました」というものですね。」という。あまりにわたしの意図を証明するようなやり取りに、躊躇したくなるわけである。

 ちょっともう一度冷静に「千の風になって」ブームを考えてみよう。実はわたしが墓がいらない、と言っているのと、この歌のブームの意図とは違うのである。それはこの対談の内容を読み続けてもはっきりしてくる。対談では「再生」という言葉が頻繁に登場してくる。ようは、死んでも身のまわりの身近な人、例えば赤ちゃんとなって生まれ変わるという考えである。もう一度繰り返すが、千の風になっての内容は、お墓にはいないけれど風となっていつもあなたのそばにいますよ、というものである。モノとして祈りの形はなくとも、気持ちとしては常時そばにいる、それは裏を返せば、祈る側が亡き人を思い出さないとそばにやってこないわけである。それを言葉として表現すると、墓という形のあるものより粘り気のある、意味深なものとなる。わたしの意図は違う。墓として形が残って、いつまでも祈られるよりは、早くに忘れ去られたほうが良いというものである。思い出しさえすれば、墓などなくとも祈りは通じる。この考えは〝先祖様〟という考えからまったく離れてしまっている。しかし、その部分だけをみれば、「千の風になって」と同じかもしれない。ただ、流行の源とは違うと思うのだが違うだろうか。最愛の人が亡くなって、気持ちとして「いつもあなたのそばにいます」といってくれると癒しになるだろうが、あくまでも歌は永遠にそこにいますよ、といっているわけではないだろう。それを「墓がいらない=それみたことか」という墓不要論に結び付けている雰囲気に違和感を覚えるのである。そして、葬送としての歌と言われると、ちょっとわたしはこの歌の本意を失ってしまうような気がするのだが、いったいこの歌をみんなどう捉えているのだろう。

 さて、そう考えているうちに、俵が言うように「墓がいらない」と思う人たちを助長するような印象があるとしたら、日本における墓の思想は急速に変化を遂げるかもしれない。一区画いくら、みたいな墓は必要とされなくなるだろう。初売りの広告の中に墓石店のものがあった。「ご先祖様のご供養を真心こめて支えます」などと記されているが、早く方針を変えたほうがよいのでは、などと余計なお節介をしたくなる。「面倒な雑草にサヨウナラ!メンテナンスフリーの透水性舗装が誕生!」とか、「お墓も地震対策を!」などといううたい文句を並べていると笑えてしまう。「わたしを雇っていただければ、これからのお墓をコーディネートしますよ!」。


寺の危機
子に託せない時代
問う、墓の必要性
いつまでも残る遺骨
両墓制
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飯田線よもやま話③

2008-01-03 15:26:09 | 歴史から学ぶ
 昭和52年に信濃毎日新聞で連載された「飯田線よもやま話」からの話題、その③である。〝「飯田線に乗ると、他の路線の倍は忙しい。一列車乗るとクタクタですよ」飯田線常務のある車掌さんが目くぼを落として嘆く。「停留所」といわれる無人駅が多く、しょっちゅう駅の出改札係も兼ねなければならないからだ。〟と、当時「停留所」について触れた記事は始まる。辰野と豊橋間にある92駅のうち、停留所と言われるものが38駅あったという。けして駅の数が多すぎるとも思わないが、当時からすでに山間部であって不採算路線だったから、昇降客がかなり少ないような駅もあった。天竜川を南下し、天竜峡を過ぎると「ここ駅なのか」などと思う駅がいくつもある。まわりを見渡しても家らしきものがまったく見えないような駅もある。もちろんそんな駅で昇降客を見るとことは稀なくらいである。民営化の以前、国鉄が不採算路線を切り捨てようとしたとき、常に名前のあがった飯田線である。もしそんなことにでもなっていたら、今やこの長距離ローカル線は跡形もなくなっていたかもしれない。

 記事でも触れられているが、合理化の波で無人化された停留所ではなく、もともと建設時から停留所として設けられた駅なのである。〝サービス精神〟で設けられた駅ということになる。バスにどこでも停車してくれるサービスがあったが、電車ではそうはいかない。だから一応駅でないと乗れないから、当初にこれだけ山の中でも駅を作ってくれたのはありがたい話しだったはずである。車の道はなくとも、駅まで歩けば近い、なんていう人々も戦後になってもたくさんいたに違いない。

 冒頭の車掌の言葉から、無人駅が多いと「大変」という印象を受けるが、そこへいけば現在の運行状況はもっと厳しい。昼間にはけっこう有人になる駅も、夕方以降無人化する。飯田―伊那間において、夜間に駅員がいる駅はほとんどなくなる。昇降客がこの間で最も多い駒ヶ根駅ですら、降車すると車掌が切符を回収する。ほとんどの駅で車掌は切符を回収することになるから、駅のホームの状況を頭に入れながら、先頭から降りて回収するか、後尾から降りて回収するか、車掌は電車の中を行き来するのである。予想外の乗客がいたりすると〝走る〟。国鉄時代だから冒頭のような忙しさも納得できたが、今ではあまり納得できない〝言葉〟かもしれない。

 記事では、「あるOBの願い」について触れている。ヤマブキの花か咲くことで知られる下伊那郡高森町山吹駅に、昭和52年4月に立派な石碑ができた。「水清く やまぶきの花咲く駅ありき また見むものと伊那の旅ゆく 三好」と刻まれている。同年3月に山吹駅勤務を最後に退職された中塚三好さんが乗降客の健康を祈って自費で建設したものという。中塚さんのこんなコメントも載せている。「駅に乗り降りする人のほとんどが友だちでしょう。顔色が悪い人の悩みまでわかり〝がんばれよ〟といったり、うれしいことがあるとお互い喜んだり・・・。そんな友だちにいつまでも元気でいてほしくて、退職記念に作った」というものである。除幕式の折、「朽ちる実の 明日の定めは知らねども 黄金の波よ繰り返し咲け」という歌を披露したという。100円の収入を得るのに491円かかっていたという飯田線を稲穂に例えて「朽ちる実」と言ったようで、「赤字でも伊那谷の足としていつまでも活躍して欲しい」という気持ちが込められたのだという。



 さて、山吹駅を訪れてみると、この石碑はすぐに解る。狭い駅前のスペースを占領するようにドーンとあるからだ。しかし、そんな古い記事で読み返してみるまで、駅前にドーンとあるものが歌を詠んだ石碑と気もつきもしなかった。「こんなもんさ」と思いながらも、かつてのこうした公共施設が、いかに地域にとって重要な意味を持っていて、そこから毎日が始まっていたということを教えてくれたりするものだ。駅にそうした顔はなくなり、地域の人々を知る地域の人がどんどんいなくなってきた。まもなく郵便局も消えそうである。約30年の歳月を数えた飯田線も、交わす顔はなくなって寂しいが、まずは利用することが第一、と地域が考えていないところが寂しさを膨らます。
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自分たちの施設を自ら造るということ

2008-01-02 10:50:05 | 農村環境
 信濃毎日新聞12/28朝刊に、「一世帯四万円疑問の声」という見出しが見えた。佐久市大沢地区において、消防の詰所改築に当たって、一世帯4万円の寄付金を集めると、区長会が決めたことへの反論が高まっているというのである。寄付とはいえ、地方農村の場合は、こうした自治組織が基本額を決定すれば、その金額が強制的に支払わなくてはならないもの、という意識が生まれる。これが都会や新規参入者の多い地域では、あくまでも寄付金と言う意識で終わるのかもしれないが、これが地方のやり方と多くの人が認識しているところに、地方の自治組織の課題ガ残っているといえるだろう。

 ところでこの詰所のことについて確認してみる。地区にある約500世帯に詰所の改築の趣意書が配られた。約130m2の建物を建築するのに、見積によれば約2200万円。佐久市の補助金が320万円で、残りの約1600万円を寄付で賄うということになった。寄付のもらえない世帯を100戸程度考慮して、補助残を400で割って一世帯4万円を算出したという。趣旨はよく解るのだが、この場合説明がしっかりされたかどうかが不満の原点にあるようだ。前述したように、払えない人100世帯程度を考慮しているという部分も、新聞では詳細に触れられていないのでわからないが、その100世帯とは、払えない人なのか、払えても拒否する人なのかは定かでない。書きぶりによれば、だいたい400で割ったくらいなら徴収可能と踏んだのだろう。記事にも「概算」という字が見える。大雑把な勘定で「このくらい」という意識があったかどうかはわからないが、雰囲気はそんなところである。また、「寄付とはいえ必要な資金として「相当の覚悟がないと集まらない」」と建設委員会会長がいう。少し強引さもうかがえるが、それがまだ通る地域なのだろう。それでも「説明不足」といって新聞の記事にも載るくらいだから、かなりの不満があったのだろう。同じような記事を、しばらく前にやはり佐久地方の事例として目にした覚えがある。変化著しい地域にあって、ますます住民への説明が必要だという印象をあたえる。「高齢者宅などでは無理にお願いせず、四万円より少ない世帯があっても仕方ない」というくらいだから、ちょっと曖昧な感じ。

 記事の扱いは、地域によっては行政が100%出している、そんなケースとの違いなんかも触れようとしたのだろうが、住民の自治なんだから違いがあってあたりまえで、どこでも同じというわけにはいかない。わが屋の地域でも集会施設の建て替えが議論されている。補助事業を取り入れてなるべく負担をなくしたい、という考えでいきなり事業化に向けた取り組みを紹介したら不満が続出した。住民は経過ではなく、結果の方に目が向く。だから「とりあえず」という言葉は、聞く側にとってはちょっと不愉快に聞こえるかもしれない。任している側にも応用力が必要なのだが、そのあたりが、「賛成か、反対か」というアンケートの内容をよく認識しておかないと、そんな具合に不満がくすぶる。もろ手を挙げて賛成と、ぎりぎり賛成多数とでは、結果はひとつでもそれからの推進の仕方は大きく変わる。そのあたりをどう説明していくか、神経を使うものの、致し方ない役目なのだ。ただいずれにしてもこうした金のかかる事業を回避するような人たちが多くなることは事実で、地域の関係とは大変な時代を迎えること必至である。
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