Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年賀状を書き終えて・・・

2008-01-07 12:18:22 | つぶやき
 今年もようやく年賀状を書き終えた。いや、書き終えたというよりも年賀状がなくなったのでそれで諦めたといった方が正しい。もう数枚用意したかったが、来た年賀状の返信を書いていたら、「出さなくては」と思う相手へ出せなくなってしまった。諦めの早いわたしは、「今年はこれまで」と終了宣言とあいなった。妻はこの2年ほど、わたしが何も手助けをしないから、宛名はもちろん、本文もすべて手書きである。そう思ってわたしのところに届いた年賀状を確かめてみると、すべて手書きあるいは押印など手作業で埋め尽くされた年賀状は2枚だけであった。もちろんそんな年賀状は宛名も手書きである。おそらく印刷で作っている人は、作業しているのはプリンターであって、本人はその間違うことをしているのだろう。そこへ加筆する人はまだよいが、男の場合は面倒くさがりやなのか口下手なのか、ほとんどの人は加筆がない。妻はそんな年賀状を見ながら「あんたの友だちってつまんない人たちねー」などと毎年繰り返し口にする。

 どうしたものか、などと考えているうちに三が日も過ぎてしまったわたしは、「インクを買う人々」とは同じになりたくない、などと感じていた。だから今年はもし年賀状を書くとしたら手書きにしようなどとも思っていた。とはいえ、やはりプリンターを使って本文に写真やタイトルを記入して埋め合わせするのは、手間を考えると楽である。ということで〝インク〟を使う人になったが、〝買う人〟にはならなかった。ようはふだん使っているインクを交換しなくともすべて印刷することができた。できうる限りインクを使わない構成、そして宛名は手で書く、それが一番なのである。プリンターに指示さえすれば印刷中はほかのことができるわけだが、その時間を無駄にしても自ら書くことにした。

 話は変わるがふだん手で何も書かないから、早く書こうとすると字を間違える。最近そんなことが多くなった。もちろん字を思い出せないなんていうことは頻繁である。これも〝病〟と思いながらも、字を書くことが大事だと感じている。何より、手先が細かい動きをしなくなる。

 さて、文字のない機械で印刷された年賀状を見ていると、いただいた人の様子が見えない。「みな元気でけっこうなこと」と思ういっぽうで、身体の不自由なことを認識していれば、「きっとパソコンの登場はありがたいことだろう」などと思ったりする。ところがそんな整然とした年賀状の中に揺れたような文字が書かれている年賀状を拝見したりすると、健康だと思っても、本当はどうなんだろう、などとよけいに気を回すことになる。やはり加筆はなくとも、どこかに文字が書かれていないとその人の様子が見えてこない。いっそ音信不通ならよいが、年賀状を出すという意識を持つ以上は、ただ出せば良いというものではないということである。

 これも妻のよく口にする言葉である。「家族の写真を載せているけれど、みんな了解を得ているんだろうか」というものである。かつて写真屋さんの綺麗な写真に家族みんなで写っていたものが、子どもが成長するとともにしだいに年賀状は簡素なものになってゆく。ほぼ大方の人たちはそうなっていくのだが、成長しても家族の姿が写し出されているものもある。きっと妻はそんな年賀状を見ながら羨ましがっているのだろうが、そんなそれぞれの家が見えてくる、それぞれの人が見えてくる一場面を得られるというだけ、そうはいってもありがたい年賀状なのだろう。
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