Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

エコ神話ともったいない

2008-01-22 12:25:33 | ひとから学ぶ
 100%再生紙という名の下に販売されていた紙が、実は偽装されていたという報道が盛んにされている。そばのそば粉率が100%なら十割そばというが、消費する側にとっては、純金のような純度の高さをうたうそうした言葉に惑わされるものだ。これがどれほど真実なのかは定かではないが、すべてが商品イメージを高めるための業である。環境に対する意識が高まるなか、エコ商品を販売する会社にしてみれば、いかに環境に対してやさしいかということが、これからの市場性にも影響してくる。そしてそういう流れを推し進めるような行政の指導もあるだろう。しかし、もし現実的に100%再生紙に問題があるのなら、その100%の問題性と、それを名乗る基準のようなものは大丈夫だったのか、と問われる。エコ商品の背景のエコ神話のようなものが、こうした偽装さえ育むことになるのだが、世の中のうたい文句などというものは、怪しいと疑えば、〝偽〟だらけかもしれない。しかし、前にも触れたように〝人のなすこと、これ偽なり〟となれば、けして不思議でもなんでもないことで、対峙するわたしたちが、人のなしたものをどう判断するかということになるだろう。

 「図書館のはなし②」で紹介した矢祭町の図書館の名は「もったいない図書館」だという。今までの常識を覆した矢祭町のやり方に拍手を贈りたいが、この名前はちょっと気になる。このごろ流行の〝もったいない〟という言葉、実はあまり好きではない。もちろんわたしもよく使う言葉ではあるが、もったいないの発想の原点は、すでに成したものを捨てるのに、本当に耐用年数を過ぎているのか、あるいは消費期限を過ぎているのか、ということに対して発せられるものだろう。利用されなくなった傾いて屋根が朽ちてしまった家をもったいないという人はなかなかいない。まだ使える状態なのに、廃棄しようとするから〝もったいない〟ということになるのだ。この言葉の背景には現代の病があるといってもよい。かつてのモノのない時代なら、この言葉を発する以前のことである。どれほど朽ち掛けたとしても作り直して雑巾を繕った時代に、〝もったいない〟などという言葉はなかったかもしれない。当たり前のことだったのである。

 ということで、わたしはこう問う。「なぜもったいないと思う前に、そんなものを手に入れようとしたのか」と。もちろんそれらは耐用年数が過ぎたわけでもなく、また、モノを長持ちさせようという意識がないようなシロモノを前にして〝もったいない〟と口にする人たちにだ。金があるから、その場の勢い、あるいは隣が持っているからといって手に入れてしまう。そうした心理をついて、偽装するほどインチキくさいものもあるというのに、売る側の術中にはまってしまう。まずは「無駄なものをなぜ必要としたか」、そこからの発想転換をしないかぎり、再生紙100%偽装の根源は断ち切れないだろう。これは個人的なものに限らない。公共事業もそうだろうし、社会保障の世界も同様のような気がする。〝もったいない〟などという言葉を使わなくても良い暮らしをなるべくわたしはしたい。
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