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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

飯田線よもやま話③

2008-01-03 15:26:09 | 歴史から学ぶ
 昭和52年に信濃毎日新聞で連載された「飯田線よもやま話」からの話題、その③である。〝「飯田線に乗ると、他の路線の倍は忙しい。一列車乗るとクタクタですよ」飯田線常務のある車掌さんが目くぼを落として嘆く。「停留所」といわれる無人駅が多く、しょっちゅう駅の出改札係も兼ねなければならないからだ。〟と、当時「停留所」について触れた記事は始まる。辰野と豊橋間にある92駅のうち、停留所と言われるものが38駅あったという。けして駅の数が多すぎるとも思わないが、当時からすでに山間部であって不採算路線だったから、昇降客がかなり少ないような駅もあった。天竜川を南下し、天竜峡を過ぎると「ここ駅なのか」などと思う駅がいくつもある。まわりを見渡しても家らしきものがまったく見えないような駅もある。もちろんそんな駅で昇降客を見るとことは稀なくらいである。民営化の以前、国鉄が不採算路線を切り捨てようとしたとき、常に名前のあがった飯田線である。もしそんなことにでもなっていたら、今やこの長距離ローカル線は跡形もなくなっていたかもしれない。

 記事でも触れられているが、合理化の波で無人化された停留所ではなく、もともと建設時から停留所として設けられた駅なのである。〝サービス精神〟で設けられた駅ということになる。バスにどこでも停車してくれるサービスがあったが、電車ではそうはいかない。だから一応駅でないと乗れないから、当初にこれだけ山の中でも駅を作ってくれたのはありがたい話しだったはずである。車の道はなくとも、駅まで歩けば近い、なんていう人々も戦後になってもたくさんいたに違いない。

 冒頭の車掌の言葉から、無人駅が多いと「大変」という印象を受けるが、そこへいけば現在の運行状況はもっと厳しい。昼間にはけっこう有人になる駅も、夕方以降無人化する。飯田―伊那間において、夜間に駅員がいる駅はほとんどなくなる。昇降客がこの間で最も多い駒ヶ根駅ですら、降車すると車掌が切符を回収する。ほとんどの駅で車掌は切符を回収することになるから、駅のホームの状況を頭に入れながら、先頭から降りて回収するか、後尾から降りて回収するか、車掌は電車の中を行き来するのである。予想外の乗客がいたりすると〝走る〟。国鉄時代だから冒頭のような忙しさも納得できたが、今ではあまり納得できない〝言葉〟かもしれない。

 記事では、「あるOBの願い」について触れている。ヤマブキの花か咲くことで知られる下伊那郡高森町山吹駅に、昭和52年4月に立派な石碑ができた。「水清く やまぶきの花咲く駅ありき また見むものと伊那の旅ゆく 三好」と刻まれている。同年3月に山吹駅勤務を最後に退職された中塚三好さんが乗降客の健康を祈って自費で建設したものという。中塚さんのこんなコメントも載せている。「駅に乗り降りする人のほとんどが友だちでしょう。顔色が悪い人の悩みまでわかり〝がんばれよ〟といったり、うれしいことがあるとお互い喜んだり・・・。そんな友だちにいつまでも元気でいてほしくて、退職記念に作った」というものである。除幕式の折、「朽ちる実の 明日の定めは知らねども 黄金の波よ繰り返し咲け」という歌を披露したという。100円の収入を得るのに491円かかっていたという飯田線を稲穂に例えて「朽ちる実」と言ったようで、「赤字でも伊那谷の足としていつまでも活躍して欲しい」という気持ちが込められたのだという。



 さて、山吹駅を訪れてみると、この石碑はすぐに解る。狭い駅前のスペースを占領するようにドーンとあるからだ。しかし、そんな古い記事で読み返してみるまで、駅前にドーンとあるものが歌を詠んだ石碑と気もつきもしなかった。「こんなもんさ」と思いながらも、かつてのこうした公共施設が、いかに地域にとって重要な意味を持っていて、そこから毎日が始まっていたということを教えてくれたりするものだ。駅にそうした顔はなくなり、地域の人々を知る地域の人がどんどんいなくなってきた。まもなく郵便局も消えそうである。約30年の歳月を数えた飯田線も、交わす顔はなくなって寂しいが、まずは利用することが第一、と地域が考えていないところが寂しさを膨らます。

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