Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「殯の森」

2008-01-17 12:28:47 | ひとから学ぶ
 映画と言うものはテレビでしか見たことのない、まったくの映画の素人である。それでも唯一劇場で映画を見た覚えは、まだ小学生にもなっていなかったころに祖母に連れられてとっくに廃館となった隣接する市の映画館に行ってみた「白百合の塔」だった。その時の映像は、どこかに少し記憶に残っている。映画館で見たものだから印象に残っているものなのか、インパクトが強くて残っているものなのかは定かではない。

 BS2において1/14、「殯の森」を放映した。カンヌ映画祭においてグランプリを受賞したということは多くの人が認識しているだろうが、その映画を実際に見た人はどれくらいいるだろうか。ということでわたしも見たことはなく、妻が選択したチャンネルを、興味深く見入ることとなった。殯という言葉は一般の人にはまったく意味不明な言葉で、聞いたこともない人が多いはずである。もうずいぶん前のことであるが、亡くなられた名古屋の知人に連れられて志摩半島の方へ出向いたおり、墓地をいくつか訪れたのだが、知人がある墓を見て、「殯の風習の名残り」と教えてくれたことがあった。埋葬されてしばらくたった墓の上に青竹で囲まれたモノがあって、それを殯というものだということを知ったが、その意味までは深く考えたこともなかった。

 『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、「殯(もがり)とは、日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。」と説明されている。そして「通夜は殯の風習の名残で、殯の期間が1日だけ、あるいは数日だけに短縮されたものとする説もある。沖縄でかつては広く行われ、現代でも一部の離島に残る風葬と洗骨の風習は、殯の一種の形態と考えられる。」と言うように、少しではあるが現在の葬儀の中にその風習が残っているらしいこともわかる。風葬による白骨化を待つ風習のために、死者を青竹で囲んだ殯に1~3年安置した例が近世以降になってあったというから、志摩で見たものもそうした風習の名残りだったのだろうか。

 さて、映画の評価については二者択一のくらいに分かれるということが、佐藤弘弥氏の「カンヌグランプリ受賞作 映画「殯(もがり)の森」を見る」のページからもうかがえる。そして佐藤氏が語るように、見るものに難解なものを与えるかもしれない。妻は「難しい」を連発する。その後放映後のレビューを期待していたものの、その解説からも求めるものが得られなかったようで、「もっと解りやすい解説が欲しい」というほどである。最初に触れたように「殯」という言葉からして親近感がないから、おおかたの人はその意図が見えないかもしれない。もちろんわたしも「なぜここにこういうカットがあるのか」などということを思いながら、寝そべって見るようなテレビの番組ではないことだけは解る。軽自動車を脱輪してからのエンディングまでの時間は、人によっては「つまらない」と思うに違いない。しかし、わたしはこう見てみた。それはこのところ記述してきた「死に支度を考える」にもかかわる。

 豪雨の山の中で、「いかんといて」と叫ぶ女性の言葉の意味は何かと考えると、そこは三途の川ではないのかと思えてくる。夜、火を焚く中で「しげきさん」と呼び続ける、そして身体をさするということの意図は、死者をあたためる、蘇らそうという意図が見えたりする。そしてひたすら登ろうとする山、女性は山へ登ることの意図がわかって手を貸しているのだろうか。そしてそこに現れた大木。ニソの森を思い出させるその山は、墓であることはすぐに解る。その山に眠る妻の遺骨。33年もの間別れを悲しみ、死者を慰め、また死者の復活を願っていたしげきは妻の死を認め、死の完結をこめ、ここで妻の骨を確認しようとする。そして、自らそこに眠りの地を求めるのだ。これは眠ったのか、また蘇生するのか定かではないが、このところ墓を繰り返しとらえてきたわたしには、墓のあり方を投げかけられたようなタイムリーな物語となった。

 佐藤氏が言うように、共感とリアリティーという問題でいけば、この後半の映画の世界は、評価が分かれて当然だろう。平瀬監督の言葉、

「映画を作ることは大変なことで、それは人生に似ている。人生には様々な困難があり、人は心のよりどころをお金や服など、形のあるものに求めようとするけど、そんなものが満たしてくれるのはほんの一部。私は光や風、亡くなった人の面影など、私たちは、そういうものに心の支えを見つけた時、たった一人でも立っていられる、そんな生き物なのだと思う。そんな映画を評価してくれて、ありがとう。これからも自分にしか撮れないものを映画にしていきたい。」
(佐藤氏編集文より)

この言葉とわたしの森の中での物語の認識をクロスさせると、物語のセッティングがどうのこうのというよりも、人の精神世界を映し出しているものなのだと解る。佐藤氏は、「この作品に「グランプリ」を授賞するに当たっては意見が真っ向から分かれたということだ。それは当然であろう。日本文化の何たるかを、本当の意味で知っていれば、この作品には違和を持って当然だ。逆に少し日本文化を囓った人間は、貧弱な知識を大げさにひけらかして絶賛をするかもしれない。 」と言うが「貧弱な知識」という部分だけは適正ではないと思う。むしろ疲弊した現在の日本人を、殯というすでに消え去ってしまった言葉に借りて問題提議しているように思える。
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