Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

図書館のはなし②

2008-01-16 12:17:07 | ひとから学ぶ
 1/13サンデープロジェクトで地方再生の事例として、矢祭町の図書館開設のはなしが取り上げられていた。自立をいち早く宣言し、合併しないを前提にこの平成の大合併を乗り越えようとする同町は、全国でも際立って注目されている。そんな町に図書館が欲しいという住民の声に答え、図書館を設置しようとしたわけであるが、使われなくなった公共施設を改築して建物を確保したものの、ではその中に納めるべく本はどうするという話になった。そこで提案されたのは、寄付によってまかなおうというものだった。よその図書館運営をしている人たちから「図書館」と名乗るのは辞めて欲しいといわれるほどに、その方針は邪道だったのだろうが、世の中には本が溢れているから寄付を申し出る人は多いだろう。全国的にも注目されている町だけに、そしてそういう意図に乗るだけの社会になっているだけに、寄贈を申し出る人は予想をはるかに上回ったようだ。ちまたの図書館では財政難で図書購入費が減額されているだろうに、タダで本を集めようというのだから、よその関係者にしては面白くはないだろう。しかし、そんな非難をよそに、矢祭町の図書館は開館した。開館後の運営も住民が担うという方針は、こうした小さな地域にあっては画期的な方法に違いない。

 さて、そんな話しを聞いていて妻は、「わたしも寄贈したかった」と口にする。いらなくなった本がたくさんあって、それを廃棄するのも〝もったいない〟といって古本屋へ持ち込んでも一冊10円程度。持ち込む燃料代の方が高いのではないかというほどである。寄贈という場所があれば、本を持ち込む人も少なくないという証拠である。「町の図書館にでも寄贈したら?」とは言うものの、10円程度の評価の本を喜んでもらってくれるはずもないだろうし、どこかに「(そこには)寄贈したくない」という気持ちもあるようだ。前回にも触れたように、矢祭町のような運営方法をとった図書館では、地域住民に図書館は大事にされるだろう。ところがかつてのような施設を「作ってやった」というイメージがあると、なかなか住民はそのスペースを有効に活用するというところまではいかないのが常である。もちろんその運営がお役所的であれば、利用者など少なくともどうということはない。少ないほうが図書館の仕事をする人たちにとっては楽でもある。ということで、矢祭町の運営方針は、住民のための図書館という意図ではみごとにマッチしたと言ってよいだろう。もちろん図書購入費なくしては、欲しい本がそろえられないという欠点はある。したがってある程度の購入費が必要だろうが、初期の目標は達せられたに違いない。

 わが町に隣接する人口規模では半分程度という村の図書館にも、以前何度か訪れた。図書館の大きさもわが町のものより小さいが、子どもたちへのイベントも含めて、さまざまな工夫がされているという印象を受けた。人口規模が小さいから、図書館にいる利用者の数はそれほどではなかったが、カウンターにおられた職員の方たちの顔つきも「違う」印象を受けた。文化施設というものは、あればよいというものではないと思うのだが、その利用方法も含めて、子どもたちだけの施設ではないのなら、住民の意図を汲んだものにする必要はおおいにあると思うが、なかなか運営側には理解できていないのが実情ではないだろうか。
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