Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

神様の存在

2008-01-15 08:16:03 | ひとから学ぶ
 正月飾りをしてもそこに神様が介在しているとはかぎらない。飾りと歳神様が一体のものとなってはいない、それが現代の正月の実態である。あたりまえかもしれないが、1年の生産のサイクル、自然のサイクルの中で、さまざまな部分において神様の存在は大きなものであっただろう。しかし、生産という行為の中に神様が必要とされなくなれば、いわゆるかつての年中行事の意味は消えていく。会社にも神棚を設けている事業所は少なくないだろう。しかし、そこに本当に神様が存在している、あるいは社員が神様の存在を意識しているとは限らない。いや、そう信じる人は少ないだろう。神様に頼って会社の景気が左右されるものではないとみんなが知っているはずである。それは多くの会社が人間の資質に頼っているのであって、神を頼っているわけではないからだ。実力社会の現代なればこそ、人々の精神的なところにも神の存在は薄い。

 信濃毎日新聞の月曜日文化欄に「「在所」の文学」と題して南雲道雄氏が連載しているが、1/14、ちょうど小正月のこの日、「正月様と豚の神サマ」という文を寄稿している。子どものころ、正月の飾りが玄関だけではなく、裏口はもちろん蔵、納屋、牛小屋とさまざまのなところにつけられることに、意味もわからず楽しさを覚えたものである。それは節分の豆まきもそうであったが、どこにでも神様がいるんだという意識を少し味わうとともに、どこにでも精神的なよりどころ、言いかえれば不安定な場所があったように記憶する。しかし、おとなになるとともにそうした場所は減少していき、それはこの社会が与える印象にも左右されているのか、不安定な精神状態をもたらせてくれる場所は数少なくなった。それが歳を重ねることによってなしえたことなのか、社会の変化によってそうなったのか定かではないが、どこか神様の存在というものを意識しなくなったことだけは確かである。わたしでさえそうなっているのだから、都会に住む人、そして自然に左右されない社会にいる人たちにはもっと神様というものは存在しなくなっていると思うのだが、それもまた確実なことではない。ただ、正月というひとつの節目を見た場合に、明らかにこうした境界にある日でさえ、神様の存在がなくなりつつあることからそう思っても差し支えないだろう。

 南雲氏は養豚を業とする詩人が病気の豚を神サマと言い、常に気にかけていることでいのちの尊さを汲み取ってもらいたいと学生に説いたところ、「豚が神様」という意味が理解できないと言われたという。「病気になった豚を日夜気にかけ、見守るうちにいつの間にか自分が見守られていると意識する」という詩人の言葉に、その解答をみる。生き物とのかかわり、そしてその生き物ととともに大事にされてきたモノは、どこかに神が依りついていると思えてくる。だからこそ、神を祀り、拝むのである。そうしたかかわりがない生業に、神様は介在しないだろうし、拝んだとしてもそこには神様は不在ではないだろうか。「墓はいらない」と口にしたわたしも、そうした神の介在を感じていないからこそ、仏(先祖)もいない、ということになってしまうような気がしてならない。かろうじて飾った松飾り、しかしながらそこに神の介在をイメージできないからだろうか、今では飾りすら「必要なのだろうか」などと考えてしまうほどだ。変化をしながら人々の暮らしに色づけられた行事や意識。変わるのは当然だと思うが、そのいっぽうで変わらずに歴史を刻む地域もある。そこに精神的なものが継続しているかどうかも、これからは重要な位置づけになるだろうし、変わったからといって「お前はだめだ」でもないだろう。
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