Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「伊那谷の南と北」第2章

2007-03-21 13:27:19 | 民俗学

第2章 伊那と飯田

 「伊那谷を語ろう会」の第5回議事録を見ると、信南交通の中島一夫さんという方が大変面白い話をされている。「非常に上伊那と下伊那は私は仲が悪いように思います」と言う。例えとしてこんなことをあげている。「私の飯田の車庫に6台、バスが置いてあるんです。ですから、朝5時半の新宿行きから運転手さんがどんどん出てきます。私は朝に行ってこの人たちと話すんですが、私どもの従業員は伊那バスさんの従業員と話さないんですよね。非常に仲が悪く、あっちが何台増発便を出した、インチキしたんじゃないかとか言って、とにかく狭い地域のお隣なんだけど、殴り合わんばかりにけんかして、だから伊那バスさんは信南交通の休憩室、車庫の休憩室に来ないで、自分で小さいハウスを建てて休憩室にしているという」。この話を聞いて、あくまでもバス会社間の競争意識だけのものだと捉えてしまったらつまらないのだ。実は同様な意識で地域間が交流できないでいることは多いのだ。だから、この話を聞いても違和感を持たない人はけっこういるかもしれない。「今時そんなことを言うほうが古い」なんていう人もいるだろうが、そういう人に限って「あっちは○○だ」なんていう比較した物言いをするものだ。

 中島さんは「旅行なんかでも伊那の方は飛行場は羽田空港を使われます。飯田下伊那は名古屋空港を使います。これは伊那の伊那バスさんなんかにも「名古屋空港の方が近いんじゃないの」と言っても、絶対にエージェントさんはお使いになりません。それぐらい地域的に名古屋圏と東京圏というような違いがあるかと思います」なんていうことも言っている。伊那谷の場合は、明らかに名古屋の方が近いのに、伊那は東京を、飯田は名古屋を向いている。これは明らかなことで、商圏という捉え方でも両者は共通な視野ではないのだ。これは飯田と伊那が対向して意識的に相反した方向を向いているわけではなく、もともとどちらを向いていたのか、という歴史的な部分もあるのかもしれない。とくに明治以降の長野県の枠が確定されたころから、すでに100年を経過しているわけだがら、その県都が長野にあったことからして、伊那は必然的に北を向いていたわけだ。加えて今でこそ名古屋は近いという印象があるが、これは中央自動車道という道が開けたこと、そして自動車時代の到来によって、道路整備が進んだことにより、より一層道程による距離感が人々の中で遠近の印象付けをするようになったからに違いない。かつて電車による交通手段が一般的であった時代には、飯田にしても名古屋まで行くには飯田線を豊橋まで下り、そこから行ったわけだから近い場所ではなかったのだ。そういう意味では、伊那は東京が、飯田は名古屋が、という立地が長く続いていたわけだ。その影響はいまだぬぐえず、そうした時代を背景に、両者は見る方向を固定化してきたのだ。たとえ両者の間が50キロで、東京までが伊那から200キロ余、名古屋まで飯田から100キロ余といういちであっても、両者間の距離は非常に遠いともいえるわけだ。

 これもまた中島さんが言われていることで、その通りと思うのだが、伊那市は天竜川が市街地の脇を流れている。ところが飯田は丘の上の市街地から見れば、遥か下のそれも市の境界域を流れているのだから天竜川そのものに親近感がないのは当たり前なのだ。建設省の河川事務所が川を利用した未来会議なるものを提案してきたかもしれないが、伊那と飯田では川とのかかわりに違いがあるわけで、お役所が自分のところのアピールのために、イメージアップ作戦に乗せようとしても、その捉え方に差があって当然なのだ。もちろん、飯田でも川の近くに住む人たちはまた違う意識を持っているのだろうが、市街地である丘の上の人たちにとって川は遠いもので当然なのだ。そうした意識がいっぽうで、丘の上の賑わいを失わせてしまった要因なのかもしれないわけで、伊那と飯田という比較はもちろんなのだが、ようは立地している環境とはいかに人々の意識を固定化してしまうかというよい事例だと言えるだろう。

 さて、今までにも伊那にとっての木曽のあり方について、権兵衛トンネル開通による変化に触れて、何度か発言してきた。もともと山を隔てていたことにより、伊那と木曽は密接な関係を築くことはできなかったが、風穴が開いたことで、ずいぶんと両者はお互いが接近するようになった。しかし、それを否定するものではないが、同じ谷の中ですら相容れない飯田というところを差し置いて、あからさまに木曽を連呼することは、飯田にとっては気分の良いものではないということなのだ。なぜ同じ空間でありながら、これほどまでに相手を知ろうとしないのか、とそんなことを皮肉って言いたくもなるのだ。そしてそれを言う資格が、わたしのように両者の間に挟まって両者から相手にされなかった地域の者にはあると思っているのだ。伊那と飯田という対比だけではなく、実は、伊那と飯田ではない周縁地域は、両者の犠牲になってきたのかもしれないということだ。


 「伊那谷の南と北」序章
 「伊那谷の南と北」第1章

 

「伊那谷の南と北」第3章


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