Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ゴミゼロへの誤った理解

2007-05-28 07:51:19 | ひとから学ぶ
 5/27は全国のあちこちでゴミゼロ運動なんていってゴミ拾いがされたのだろう。わたしの住む町でもそうした運動で、各自治組織ごとに分担をしてゴミ拾いなるものをした。ここに住み始めて何年にもなるが、この催しは真新しい。記憶では去年からのような気がする。よそではやっていたのかもしれないが、おそらく町が主導で「みんなでやろう」みたいになったのは、去年からなのかもしれない。ゴミゼロ運動で検索すると、自治体主導で5/27の内容がたくさん掲載されている。そんな内容を見てみると、その実施方法にたとえば「市内全域を対象として、市民による散乱空き缶等の一斉清掃を行い、市が回収を行なう」なんて書いてあったりする。わが町も同じ内容なのだろうと予想するが、なにしろ自分が隣組長だったときには無かった催しのため具体的にはわからない。

 自治会では、隣組ごとその範囲のゴミ拾いをするということで決まっている。田舎であるから隣組といっても広い場合が多いが、そうはいっても数軒から10軒くらいが隣組になっているから、広いといってもびっくりするほどではない。加えてゴミの捨てられそうな幹線道路沿いならともかく、田舎の道沿いだからそれほどゴミなんて落ちていない。ゴミ拾いに集まった近所の方たちの中には、「こんなおおげさなことをしなくても、それぞれが家の周りのゴミを拾っておいて、隣組長のところに持ち寄ればよい」という。同感だ。しかし、みんながそうとは思わない。ゴミゼロ運動という主旨からいけば、こうしてみんなで拾い合うことが大事だと思う人も多い。まして、それほど時間がかかるわけではないから、隣近所がひとつの目標で集合するということも意味あることかもしれない。その主旨にも共感はできる。

 しかしである。5/30がゴミの日からなんだろうが、そんな日にあわせて全国が一致して行動するのはいかがなもんだろう。それぞれの自治組織に任せて良いことだと思うのだが、どうも日本人らしいというか、みんなでやらないとやった気がしないのだろうか。さらに前述したどこかの市の例のように、「市が回収を行なう」なんていうことが必要なのかと思ったりする。確かに個人では処理不可能というか金銭がかかってしまうというのなら、回収する必要も出てくるだろうが、まだゴミを有料化している自治体は少ない(袋代で課しているという判断もできるが、「有料化」というほどの意識はない)。ということは、ごく普段利用しているゴミ袋に回収すればよいことで、そのゴミ袋にお金がかかるというのなら、それを自治体が配布すればよいことだ。初めて拝見したが、わざわざゴミゼロ運動の協議会かなんかの袋を作って「これに回収するように」なんていうのもわざとらしいというか、それほどモラルが落ちている日本人に、一斉のゴミゼロ運動は救いようのない哀れみを感じたりする。回収してこれだけ成果があったと、どこかに報告でもするのだろうか。地域は明らかに行政の配下に沈んでしまった、とそんなことを感じるわけだ。これもまた、自治会の会計年度を市町村の会計に合わせろといって、無理強いしたのもこの2年ほどだ。だれも文句はいわないが、「これでいいの」と思うのはわたしばかりなのだろうか。「みんなでやることに意味がある」なんていうきれいごとをいっても、自治会に入っていない人たちだっている。意識としてどうゴミを捨てない社会を作るか、というところをどこか間違った方法で浸透させようとしているようで、振り返ると違和感が多い。

 「快適で清潔な環境は、町内で生活する皆さんの連携と協調によって作り出され、守られています」と広報にこの日の運動へのスローガンのようなものが掲げられていた。しかし、よく読むと、この言葉はゴミをなくすための主旨とはちょっと違った、当てはめられた文章のように見えてきてならない。「どういう意味?」と聞きたくなってしまう。
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