Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

田んぼに映るモノ

2007-05-08 08:21:39 | 農村環境


 電車の写真なんかめったにフレームに入れたこともないわたしだが、連休ということもあってちょっと遠くまで犬の散歩にでかけて撮った飯田線の写真である。昔ならともかく、このごろは水田も転作していて水が張られないことが多い。張ってあってもなかなかこんな具合に背景がうまい具合に映し出されるような場所はない。そして飯田線沿いで水が張られているともなるとさらに少なくなる。まだ周りの田んぼは起したばかりでどこも水が張られていないのに、この田んぼだけ張られていた。小さな田んぼで、まわりのよけいなものをトリミングしないと、なかなか絵にはならない環境だ。午前6時過ぎだから、始発ではないが二番目の電車である。

 こんな田んぼの水面に逆さに映すような写真は、波が立っていると撮ることはできないし、また代掻きをして田植えをするまでのわずかな期間に限られる。しかし、そんな写真を撮ろうと、アマチュアカメラマンは場所探しをするのだろう。阿智村の園原にある義経駒つなぎの桜は、田んぼの土手に咲いている。この桜が開花している期間は、わざわざ田んぼに水を張って桜がその水面に逆さに映るようにしている。もちろん昔はそんこともしなかったし、桜見物のための歩道などもなかったのだが、今では時期になると大勢のカメラマンが登場する。カメラマンにとっては、水面が格好の道具になるわけだ。同じようなことはあちこちで求められているもので、そうした水面に映し出された桜の写真を多く目にする。

 さて、そんな映し絵の世界を設定することで、人を呼ぶことは可能なのだが、意図的そんな風景を売りにしているケースは少ない。もちろんわたしはそういう売りは好きではないのだが、本気にやろうとするのなら、なんでもない田んぼのある風景が、大観光地になる可能性はある。かつてのように形状が整っておらず、加えて農道があまりなく(当然舗装などしてないのは当たり前だが)、畔に季節の木々があり、団地化した田んぼの風景ならかなり好まれる風景だ。そう、桜だけでは一時的だから、そうでない季節の花を咲かせる木々を植える。もちろんそうした木々は観光目的だけに植えるのではなく、農作業の際の休み場としての「日陰」を作る空間ということになるが。そんな空間は今やなくなってしまったが、あったとしても転作されていたり、耕作放棄地であったり、なかなか環境が揃うことはこの時代にはない。いわゆる棚田百選なんていうものも設定されているが、いくつもそんな棚田を見ているが、総合的な風景として調和している場所など皆無といえる。わざわざ休憩施設をそんな空間に設ける必要はないし、大きな駐車場を設ける必要もない。どう人々を迎えるか、という部分についてはいろいろ方法がある。そこまでは紹介しないが、棚田オーナー制度とか、農業体験なんかに捉われていて、風景として残そうという取り組みはまだまだ良い例が見られない。水田のある風景は、日本人にとっては故郷みたいなものだったと思うのだが、まあそんな気分を持てない人たちばかりになるのも間もなくである。

 たとえ整然と整備された田んぼであったとしても、意図的に転作をせずに水を張る空間を連続して設けると、きっとそんな風景が少なくなっただけに、注目されること間違いないはずである。

 冒頭の写真は、中央アルプスの南駒ケ岳を背景にしたものである。そして末尾に紹介する写真は、宝剣岳を背景にしたものである。後者は先ごろ「人の集まる空間作り」で紹介した菜の花畑に隣接する田んぼである。菜の花がよいか、水の張られた田んぼが良いか、好みは違うだろうが、こうした水の張られた田んぼが連続しているともっと雰囲気は違ってくるし、さらにそこに米作りが営まれていることが生きた風景となると思うのだがどうだろう。

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