Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

鳥居のご利益

2007-05-24 12:07:19 | 民俗学


 中央自動車道の端を犬を連れて散歩をすることがある。まじまじそんな大きな天井道路の土手を見たこともなかったが、もう何十年もこの大きな土手ができてから経過しているが、そこにずいぶんと伸びた木々が生えていたりして、けっこう道端には緑が多い。道を走っていては気がつかないのだが、垣根のようにびっしりと植えられた道端の木々の幹は、みごとに真っ黒である。排気ガスで黒くなるのだろうが、それでも木々は、わが家の垣根の木よりずっと元気で、感動ものだ。そんな土手を見ると、ゴミが落ちている。側道との間に高いフェンスが張られているから、わざわざ側道を走っている人が捨てたとは思えない。おそらく高速道路を走っている人が捨てるのだろう。田舎の管理しきれない道とは違って、高速道路は草刈をしたり剪定をする専門の方たちがいるから、人の目にゴミが目立つほど放置されることはないのだろう。ずいぶんと高速道路には縁があるが、車の窓からゴミが投げられるという光景は見たことがない。だから、さすがに高速道路を走る車からゴミが捨てられるということはないのだろう、と思っていたのは甘いようだ。

 近ごろ一般道を走っているとよく目立つのが、赤い小さな鳥居である。自宅から会社まで、ほぼ30キロの道のりで、そんな赤い鳥居を10基ほど見る。とくに多く立てられているのが飯島町と伊那市である。立てられている場所はたいがい路肩がちょっと広くて空き地のようになっていて、車を乗り入れようとすれば乗り入れられるような場所や、沢沿いのカーブである。飯島町で立っているものは、鳥居が単独に立っているが、伊那市で見かけるものは、たいがい横に立て看板が並立している。冒頭の写真も伊那市の小出二区で見たものだ。お解りのようにゴミを捨てないようにという意図がある。

 「不法投棄禁止」の看板だけでは効き目がないから、こうして鳥居も並立しているのだろうか。鳥居を立てることでゴミ捨て防止になるという話は、時に新聞などにも話題で報じられることもあった。確かにただの看板と、鳥居のどちらが捨てにくいかといえば、その背景に神様が存在していると認識すれば、看板の方が捨てやすいだろう。しかし、防止目的で立てられていると知れば、それほど鳥居が水戸黄門の印籠のような大それたものには見えないのだが、ゴミを捨てようとする人間には〝怖い〟存在なのだろうか。ちょっと不思議な感じである。『ウィキペディア(Wikipedia)』の鳥居の項でも、「住宅街や空き地などに高さ10~15センチほどの小さな鳥居が設置されている場合がある。簡素なものは薄い板きれをコンクリートブロック塀に貼り付けただけものや、塀に赤ペンキで塗られただけのものである場合もある。このような小鳥居はゴミの不法投棄を避けるために設置されたもので、鳥居を聖界の入り口として恐れ敬う人間心理を利用したものであり、不法投棄が激減したという実例があるという。ちなみに実際の鳥居をそのまま模するのは恐れ多いという理由で、下の横棒(貫)が上の横棒(笠木)よりも長くなったものを利用することもあるという。」なんて書かれている。本物の鳥居に似せてしまうと恐れ多いから形を変えるなんていうところをみると、やはり神様がいない鳥居なんて怖くないと思うのだが、どうだろう。ご利益があるのは、まだゴミ捨て防止に立てられているという認識が少ないからで、あちこちに立ってしまったら効き目は薄れるだろう。

 わたしの感覚では、伊那市のように鳥居と看板が並立しているものより、飯島町のように単独に鳥居だけが立てられている方が、意図がはっきりわからないから効き目があると思うのだがどうだろう。鳥居とゴミで検索すると、けっこうよその同じような取り組みが登場する。そういう例も、けっこう看板とまではいかなくても、張り紙と併用している例が多い。なかには鳥居に「ポイ捨て禁止」なんていう張り紙をしているものもある。気持ちとしては本物の鳥居のように雰囲気を醸し出している方が、意図がはっきりしないからご利益があると思う。
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