Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

田んぼから畑に

2007-05-16 06:32:48 | 自然から学ぶ



 代掻きが始まって、田んぼに水を張る姿をいくつか見てきた。実はわたしの生家の周りは、ほとんど田んぼしかないから、この時期は耕地という耕地が水が張られているというのが、わたしの印象だった。生産調整の始まった昭和46年ころのことも覚えているが、そのころはまだ始まったとはいってもそれほどの面積ではなかったから、田んぼに水が張られずにいる、なんていうことはそう多くはなかった。畑は家の周囲にあるセンザイバタ程度で、あとは桑畑が少し家から離れた場所にあった。いずれにしても家の周りは田んぼだらけだったから、畑ばかりの空間と言うのは正直いってわたしのイメージできる空間ではなかったといってもよい。

 ところが、今自ら住んでいる場所は、田んぼが家の周りにはない。あるのはかつての果樹園ばかり。そんな果樹園も「かつて」と断るように使われていないところが多いから、簡単に言えば耕作放棄地となるが、かろうじて草刈などが行なわれているから、見るに耐えないという空間ではない。田んぼがまったくないというわけではないのだが、空間的にはかなり限られているし、広大に田んぼが広がるという空間は、天竜川の端にでも降りていかないとない。あまり意識したこともなかったが、考えて見れば、どこからか田んぼのない空間が広がるようになる。

 生家のある場所とそう遠くもないのに農村環境が異なるのだ。伊那谷は、天竜川を北から南下すると、右岸側は、おおよそ水田地帯が展開する。確かに畑地帯が集中するところもないわけではないが、水利のよくない山際などであって、ほとんどが畑地帯というような空間になるのは、上伊那郡から下伊那郡に入ってからだ。もともと水が豊富にあったわけではないから、開田できなかったということもあるかもしれないが、条件はそれほど変わらないのに、なぜ畑のまま現在に至ったのだろう、とそんな地域性というか環境特性のようなものを考えて見るが、想像の世界だ。ほんの少しの傾斜度の違いが、開田をあきらめさせたのだろうか。もちろん田んぼであった場所にも、折からの養蚕景気、あるいはその後の果樹への転換などがあって、田んぼではない土地利用がされてきたところもある。それだけ米より潤いがあったのかもしれないが、そうした背景が、人々の暮らしを形成してきている。歴史は調べれば解るが、どちらが豊かであったのかは、さまざまに捉えてみないと明確にはイメージできない。

 写真は、そんな地形の変化点を捉えて見たものだ。やや下よりを木々が横に走っているが、ここが天竜川支流の前沢川の谷である。手前は上伊那郡飯島町七久保(右側)と同郡中川村片桐(左側)である。もっと拡大した写真でないとはっきりは解らないのだが、手前側には水の張られた田んぼがけっこう見られる。それでも飯島町と中川村の境界あたりにある針ケ平といわれる場所は、丘陵地で水の便が悪いのだろう、畑が集中している。だからさらに北側の地域よりは、だいぶ畑が多くはなっているが、それでも前沢川の谷より向こう側よりは田んぼの姿がたくさん見られる。川向こうは、下伊那郡松川町(左側)と上伊那郡中川村片桐である。この川を渡ると、上段は明らかに田んぼが減少する。

 補足
 ちなみに、耕地面積における水田比率を、平成18年版農林業市町村別データから伊那谷の北から羅列してみると、
 辰野町  59%
 箕輪町  50%
 旧伊那市 67%
 宮田村  84%
 駒ヶ根市 76%
 飯島町  73% 以上上伊那
 松川町  25% 以下下伊那
 高森町  35%
 飯田市  38%
となり、箕輪町がほぼ同数ではあるが、上下伊那の境で見事に逆転していることがわかる。

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****