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2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

田老「第一防潮堤」の今(10=つづき)

2013年09月20日 | どうなる田老


田老「第一防潮堤」の公共工事とは?

前ページより続く


(2)世界的災害遺構が消える。

 

a、現役施設としてのハードが第1の存在意義であった。
 

昭和8年の三陸大津波の翌年から長い年月をかけて建設された田老「第一防潮堤」は平成の3.11大津波にも無傷で耐えて本来の役割を果たしたが、その直後から予算主義の岩手県県土整備部等による公共工事によってすっかり弱体化され、防潮堤としての今後の防災効果は全く期待できなくなった。

何度も書いている通り注目すべきは現役施設としての存在であった。地盤沈下があったから修復復旧するといわれているが、修復された高さの意味より、そのための代償の大きさを思うと胸が張り裂ける思いがする。全くの検証なし、聞きもしない、調べもしないでいきなり天板のコンクリートブロック隊列をとり払うところから工事は始まった。コンクリートブロックは、転落防止柵、津波犠牲者の鎮魂碑、破損物品・溺流者の流出防止用柵、越流水勢の半減装置(半クラッチ)、などといわれ、まだ結論は出てないものの、無用物ではなく、明らかな目的必要施設であったのである。ブロックは天板から50センチ高あり新設パラペットとの差は20センチにすぎない。また防潮堤本体構造の一体性が失われた事についても先に書いたが、要するに、公共工事のために現役ハードが破壊されたのである。


b、田老「第一防潮堤」の第2の存在意義とは? 遺構の価値であった
 

それは世界的な災害遺産であった事である。国内で、田老地区の被災観光ホテル、大槌町の旧町役場庁舎、宮城県南三陸町の防災対策庁舎などが災害遺構として取りざたされているが、ともするとネガティブな発想からする選択であるような気がする。田老「第一防潮堤」は、なによりもほかの候補施設とポジティブという一線を画している希有な災害遺構だったのである。それなりに所期の目的を達成したこの建造物は、無傷で耐え抜き、大災害に直面した貴重な世界遺産的遺構である。対極にあった田老「第二防潮堤」のある程度の残骸とともに、ひろく後世に津波災害との戦いの物語を残すべきであった。


c、田老「第一防潮堤」の第3の存在意義とは? 避難ソフトの合意形成であった
 

この世界遺構は、世界に対してどのような田老の物語を語り継ぐのか? 災害遺構は、当然にも、津波の恐怖を伝えるだけの建造物ハードだけに片寄る事は許されない。これも何度もこのシリーズで書いてきた事であるが主に関口村長時代の防災コンセプト、津波を「見くびらない」かつ「恐れない」という村民との強い合意形成こそ語り継がれるべきである。  

 (一端を次に引用すると…)

 防潮堤は生きていた !

東日本大震災で田老第一防潮堤はほとんど壊れてはいなかった

 越流は想定内!

防潮堤の津波の越流は予想されていた

 同時に避難目的の村の区画整理に着手していた。

目的は迅速な避難!


以上は一端として(4=まとめ)の中見出しだけを引用したものであるが、リンクをたどり、防潮堤は決して自己目的ではなかった事、背景には、切実なソフト的合意形成があった事を理解してほしい。田老地区には津波の歌もあった。「津波てんでんこ」もあった。



 ☆ 

a、b、c、に後先はない、a、b、c、を順ぐりに考え、そのソフト・ハードを同等にイメージするべきである。世界遺産レベルの津波災害遺構を断固守るものでなければならない。田老「第一防潮堤」を語り、そこから汲み取る教訓は貴重なものばかりである。比較して、現行の「公共工事」から汲み取るものは何かあるのであろうか?

 


(11)工法は洪水用 につづく


(9)にもどる


 

コメント (1)
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