宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

<ニュース解説>1 沈黙の闇

2017年02月24日 | ニュースレター



<ニュースレターNo.14> 1段目

震 災 復 興 の 満 6 年 目 を 前 に し て

宮古市内でも被災地とそうでない地区での温度差に加え、地区内でも復興への意識はまちまちである。ある意味で仕方がない事ではあるが復興の大きな柱である防潮堤や閉伊川水門の認識はどの地域の住民であれ、市民は少なくとも無関心であってはならないと思う。宮古市政が一本でなければならないという事のほかに、西日本の南海トラフ地震等、そして将来の予測される津波災害にとって3.11に東日本に位置した宮古市の防災市政、復興への道のりは全国的に大きな関心である。全国からの目がそそがれている。


<解説>
 

6年目の課題は何か? 工事以外なにか?

満6年も経過したか!  これまでどの程度の復興があり7年目に向けての課題がなんであるのか? 復興とは単なる復旧ではなく、地域住民が団結して新しい鍬ヶ崎地区の再生のビジョンで あったはずである。津波に対して安心安全な鍬ヶ崎、経済や人情の交流が盛んな活力ある地域づくり、──が震災以来の目標であった。
 
正直なところ、目標に向けて復興が進んでいるとはいえないのではないか。たしかに震災直後は仮設住宅などで助け合いがあり、話し合いなどの交流が活発であった。全国からいろいろな形で支援の言葉や物資が届きボランティアの人たちが影に陽に足を運んで励ました。同じ地域で被災者やそうでない人々が当然のように同じように復興の夢を育んでいた。6年という歳月がそのような<時>を風化させたように思えてならない。達成された成果も少なかった。むしろ後退した、仮設住宅の頃の方が良かった、と口に出す住民もいる。6年も経って、工事関係以外で何か目に見えて前進、改善、良かった事が、見えてこないという事である。
 

6年目の現在、地域が「沈黙」している

「悲劇は悪人の暴力ではなく善人の沈黙である」という言葉がある。6年経過して、警告が胸に響く時期に来ている。

公民権運動家のアーサー・キング牧師の言葉と聞くが、そして災害復興を語る言葉としてふさわしいとは思わないが、ごく表面的な警告の言葉としては捨てきれないものがある。現在の被災地鍬ヶ崎は、海岸には所々歯の抜けたような防潮堤がたち、市街地は区画整理が最終段階に入って立派な道路が完成、新築の住宅がぼちぼち競うように建ち始めている、しかし、この復興の槌音についてまてに(ていねいに)語ろうという人は少ない。槌音は住民の沈黙の空気の上に鳴り響いている。前から高台に住んでいる人、新たに高台に家を立てた人が、平地に家を立てた人、これから元々の自分の土地に家を建てる人に、声をかける事が少ないのである。浸水地帯の区画整理や防潮堤の効果や意味の事について、一般に、家を津波で流された人に「気のどく」に思ってか、その事について軽々しく言及する事を避けているように思える。被災者の自分が新たに高台や安全な土地に移り住んだことを、比較して、卑下してとまでは言わないが申し訳なく思うのであろうか? 偶然やラッキーや年齢や仕事や支援金や予算の関係で、住む場所はそれぞれ異なる事は当然なのに、遠慮や思いやり、思い過ごしや語りかけの機能がうまく働いておらず、あたかも個々それぞれが沈黙の穴の中に入り込んでいる状態に見えて悲しいのである。特に防潮堤について語る事はそのままそれぞれの住宅問題に言及することになるようで、ここでも将来色濃くなるであろう沈黙の壁がすでに来上がっている。お互いなにも考えず、なにもしゃべらず、なにも交流せずに防潮堤の合意形成が出来るはずがないのに、現在は何の根拠も、実績もないままに賛成合意という事になっている。
 
(キング牧師の警告とはこの沈黙の事である。善人や隣人の沈黙がナチスや戦前日本のように世界戦争を誘発した歴史がある。…深くなる…)



地域や立場を超えて自由に語ろう
 
個人的住宅問題などは関係ないのである。地域についてどう考えるのか? 地区の人的活力や人情・心象、地場産業や商工業の活性化、物流や観光産業にとって、大事なもの/捨てるもの、既存のもの、まったく新しいアイディアについて、地区の人、地区以外の人が大いに意見を出し合わなければならない。まさに沈黙しているヒマはないように思われるのだ、このあまりに長かった6年間の意味について語り始めよう。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コメント
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