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2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

鍬ヶ崎「区画整理事業」の今(4)避難道─2

2013年09月06日 | どうなる鍬ヶ崎


鍬ヶ崎の津波避難道 ─ その2


津波から難を逃れた被災者は避難によって命が救われたという。テレビで新聞で、またインターネットで、一瞬でも早く、少しでも高い所に避難する事が生死を分けると告白している。一方で、防潮堤に命を救われたと言う人は少なく、津波から身を守るのは一にも二にも「足(あし)でする避難」である事が強調されている。

 

鍬ヶ崎の区画整理事業とはまず「避難路」の整備だ。

 

先に(田老地区に比して)鍬ヶ崎にはオーソライズされた津波避難道は一本もない、と書いたが、未だに、あるべき鍬ヶ崎の避難路網整備の実体は見えていない。どのような避難路で低地鍬ヶ崎の住民を高台に誘導させるのか? 足もとはどんな避難路になるのか? 路の広さは、距離は、こう配は、など一番大事な住民の命の導きの光が見えないのだ。地区住民だけではない、鍬ヶ崎跡地の将来の産業活動が活発になれば、その従業員、その取引や流通従事者、一般のお客さんを始めとして、更に、観光客を加えれば鍬ヶ崎の昼間人口は、住民人口の最大2倍から3倍が予想されるのではないのか? その人たちへの一番の安心や安全の光明とは高台へ導く「避難路」の確かな存在である。そういう意味では防潮堤は光としては不確かな存在と言える。身の避難先が明確である事が大事な事であろう。

加えて、高齢化する社会やクルマ社会の避難のあり方は? ハードからソフトから課題は高まっている…

コンサルタント会社ランドブレインは避難路の事を手がけたが地元民の避難話を聞いただけで地元に何も残さなかった。避難路との関係で避難話が理解できなかったからである… 

 

鍬ヶ崎・光岸地地区区画整理の範囲には「避難路」が含まれていない。


鍬ヶ崎の区画整理事業は、まさに今、進行中であるが、中身を見る限り、それは事業のための事業であるにすぎない。命の「避難路」を忘れたように、そこから見れば二義的なせまい範囲を進行中である。何度でも参考にするべきであるが、かっての田老村の昭和9年から始まった区画整理は、徹底して村民の命(いのち)優先のための事業であった。 高台の山林に登っていく避難路を何本も整備し、 市街地の道路は山側に向かって放射状に整備、 夜間でも容易に避難できるように道幅を広げ、区画区画の角は「隅切り」した。区画整理事業とはまず最初に避難路の整備であったのある。

赤い色の範囲が鍬ヶ崎・光岸地の区画整理事業の対象地である。今次津波で浸水し、押し流され、建物倒壊の被害にあった範囲である。なぜか日立浜地区が除外されているが、その点の日立浜地区の事は未だに判然としない。また、黄色の範囲の住宅地は図の日立浜をのぞいて鍬ヶ崎でも比較的地盤の高い住宅地で、浸水がなく災害を受けなかったとされる場所である。建物の損壊がない事が津波災害がなかったという事なのか? 等、よくわからない対象範囲の線引きの事情を今こそ詳しく知りたいものだ。造船所地所も問題を残している。
※ここであらかじめ指摘しておきたい。黄色の住宅地帯こそ、最も有力、有効な避難路設置区域なのである。鍬ヶ崎・光岸地地区にとっての避難路の大部分は昔からこの地帯を避けては造れない。現行の避難路はほとんどがこの中を通っている。

 

旧田老村と違って鍬ヶ崎区画整理の範囲に避難用道路が含まれていないという事は a, 防潮堤 や b, 区画整理事業 のように大きな金額の予算が動かず c, 避難道路 はどう見ても金額が期待できないからであろうと思われる。 c,避難道路 については地元住民との計画の取りまとめにおいても、設計、施工の実行においても、細かく複雑すぎ、手間や時間ばかりかかり、一帯地盤が急坂の土木事業では公共工事としての営業的旨み(うまみ=利益)がないというのが理由なのではなかろうか? 請負者は、悪くいえば、いいとこ取りの振り逃げを策している。 

a, 防潮堤 はともかく b, 区画整理事業 については、神戸淡路大震災復興においてUR都市機構は活躍してそのノウハウを蓄積した。今はその経験を東日本大震災に応用しようとしているが、それが c, 避難道路 事業の回避であるとは!! 情けない事である。

国、岩手県、宮古市が、その事に当然の事として理解を示している事の不思議がある。思考停止した頭では神戸の震災も東北の震災も同じに考えられている。── UR都市機構においては避難路網の整備というお互いにとっての未知の領域に正面から挑戦してもらいたい、という思いがある。

 

 命を確実に守る「避難路」と命を確実には守らない防潮堤の優先順位は?

 

これまで鍬ヶ崎・光岸地地区においては津波からの避難は主に家族や隣近所、地域の人々の範囲が避難できればいいという程度のものと考えられて来た。その集合体で宮古市は何年も何十年も昭和の三陸津波記念の3月3日に毎年避難訓練をして来たのである。鍬ヶ崎・光岸地地区で指定されている「避難所」「避難場所」は15~16カ所で数が少なく、いずれも学校やお寺など昔からの幸便(こうびん=ついで)な場所にすぎない。「避難路」に至っては全くの手つかず。いつの間にか、避難が成功したものとして宮古市当局にも住民にも大きな変化の声「チェンジ!」の叫びはきこえない。

今次津波では鍬ヶ崎・光岸地地区ではほとんどの人が避難して助かったが、それを「たまたま」とか「そこまで大きくなかった」とかのところにとどまらせておいてはならない。だから避難路は今のままでいいなどとは考えてならない。どんなに大きな津波が来ても、将来の震源地がどんなに近くても、従って、避難時間がどんなに短いものであっても、ソフト面から、ハード面から、誰にとっても盤石な避難路である必要がある。それが今次津波を経験した人の確信でなければならない。




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