※ 参考 前回3年前の宮古市議会議員選挙
n (2014.4.14 岩手めんこいテレビ)
宮古市長選挙につづいて宮古市議会選挙も無投票選挙になった。定数28。宮古市民以外の人にとっては一過性のニュースにすぎず関心のある事件ではなかったが、大変なのは当の宮古市民がこの現実に対して一瞬なりとも宮古市民以外の市民のふりをする事であった。ブログで見る限り言及はほとんどなく何事もなかったようにこの現実を受け入れている。たいした変わりはしない、まあ、この体制でやっていけばいいや、と自分の気持ちの方を切り替えているようだ。宮古市有権者のこの政治的態度というか偽善的無関心、もともとの根性の曲がったこの宮古風というものは直さなければならないものである。
人は期待とか願いをもってその一票を候補者に託するものであるが無投票とはその期待の相手が突然いなくなってしまった感じであったろうか? 私についていえば「まず(働きをふまえて)だれを落とすか考えよう」と呼びかけたが、落とすべき候補者がいなくなってしまって泡を喰っているところです。落とすべき人も当選者の壇上に並ぶ結果になった。市政自治にとって、市長選、市議会選ともに無投票選挙という事はあらゆる事例を越えて前代未聞の事件である、むしろ、あってはならない不祥事である。 ── なにはともあれ反省して肝に命ずべきである。
どうしてこのような事態になったのか、立候補すべき人の無力感、市民のしらけた雰囲気はどこから生まれてきたのか? それは山本市政が一貫して「言いなり」だったからではなかろうか? と思う。国の、県の、大手企業や大手業者の、復興予算が流れるままにその言いなりであったからだ。市会議員も市民も巨大な予算の循環と、その予算主義の番人に対して口出しができなかった。私は選挙前に「市長は3年間を通じて争点も課題もつくれなかった」と書いたが市民の側に寄りそう事ではなく使い道の決まって来る巨大予算にただ乗る(便乗する)だけに見えたからです。そして、その結果が今回の無気力選挙でなかったか?…
これから向こう四年間、宮古市民は茨(いばら)の道を歩かなければならない。議員の中にやくざな人間もいるかもしれない。一定の獲得票に届かない供託金没収の候補者もいたはずである。公約も所信も聞いた事がなく、性格も、決意も分からない市長と市会議員にボーナスを含めた歳費と調査費など活動資金を向こう四年間支給し続けなければならず、市職員の給料を含めて市民の税金からお金が流れ出ていく。争点も課題もはっきりしない船出である。その中で税金のもとをとるという事は容易でないとだれでも分かる。議員の働きから、市政の働きから、復興の成果から、税金に見合ったもとをとる事は容易な事ではない。それはまさに茨の道である。
(2014.4.14 岩手めんこいテレビ)
(2)につづく